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第52話

 翌朝、柔らかな朝陽がカーテンの隙間から差し込む中、私は心地よいまどろみを抜けて目を覚ました。


 横を見ると、蓮さんが長いまつ毛を伏せて眠っていた。その穏やかな寝顔を見ていると、昨日の出来事が夢ではないのだと実感して、幸せな気持ちに包まれる。


 そっと手を伸ばして、緩やかな寝癖がついた髪に触れてみる。柔らかい髪が一筋、くるんと指先に絡まった。その感触が心地よくて、つい指でくるくると遊んでいると、大きな手が私の手をそっと包みこんだ。


「くすぐったい」


 蓮さんが薄く目を開け、笑いを含んだ声で言った。その瞳が私を捉えると、まるで世界が止まったように感じて、息をするのも忘れてしまいそうになる。


「ごめん、起こしちゃった?」


「ぐっすり眠れたから大丈夫。おはよう」


 優しい声に少し照れながら、私はスマホで時間を確認した。画面には6時と表示されている。


「蓮さんにしては、いつもより少し遅いお目覚めだね」


「……薫の部屋に行った夜、あれからほとんど眠れなかったんだ。今日はぐっすり眠れた」


 蓮さんは、握っていた私の手をそっと自分の唇に押し当てた。その柔らかい感触に、鼓動が速くなるのを感じる。


 同じように触れたい──そんな思いが湧き上がり、私は握られている指先をゆっくりと広げた。手のひらで蓮さんの頬を包み込むと、彼の肌から心地よい体温が伝わってきた。


「……蓮さん、今日、会社は?」


「半休を取ってあるから、お昼に出れば十分間に合うよ。──薫も、フレックスだから午後からでいいんだよね?」


 そう言いながら、蓮さんがゆっくりと顔を近づけてくる。視線が重なり、次の瞬間、唇がそっと触れ合った。


 そのキスは優しくて、幸福感が全身に染み渡っていく。目を閉じると、私の世界は彼の香りと体温だけで満たされた。


 唇が静かに離れ、蓮さんが柔らかな声で囁くように言った。


「シャワーを浴びてから、簡単に朝食の準備をしてくる」


 蓮さんがベッドから立ち上がる。朝の光が裸の背中を優しく照らし、引き締まったラインに繊細な影を落とした。そのシルエットはまるで彫刻のように美しくて、私は思わず見とれてしまった。


 部屋に一人残されて、私はふとシーツの中を覗き込んだ。体には花びらのようなキスマークがいくつも残されていて、彼の唇がどこに触れたのかが一目瞭然だった。


 蓮さんが残した跡を指先でそっとなぞると、昨夜の出来事が鮮明に蘇ってくる。その甘さと熱っぽさの記憶に頬が赤くなるのを感じて、私は思わず顔を両手で覆った。


 その時、スマホからLINEの通知音が響いた。こんな朝早くに誰だろうと思いながら画面を開く。そこに表示されたメッセージを見た瞬間……私は言葉を失った。


 思わず頭を抱え、心の中でため息をつく。ああ、蓮さんに……どう説明しよう。



* * *



 蓮さんがキッチンへ向かったのを見届けて、私もシャワーを浴びることにした。さっぱりしてからダイニングへ向かうと、テーブルには色とりどりの朝食が美しく並んでいる。


「簡単に用意する」と言っていたはずなのに、まるでB&Bベッド・アンド・ブレックファストで出てきそうな朝食が、完璧に整えられていた。


 自家製の全粒粉ベーグルをスライスして、新鮮なレタスと香ばしく焼き上げたベーコンエッグを挟んだサンドイッチ。いつものガーデントスサラダには、レーズンとクルミが入ったキャロットラペと、柚子を載せた大根のピクルスが添えられている。蓮さんは、ドリッパーの中のコーヒーを蒸らしている最中だった。


「もうちょっとでコーヒーが落ちるから、お先にどうぞ。大根のピクルスはちょっと味を変えてみたんだ。気に入ってもらえるといいけど」


 私はウキウキしながら「いただきます」と手を合わせ、大根のピクルスを一口頬張る。その瞬間、アップルビネガーのまろやかな酸味が柚子の爽やかな香りとともに口いっぱいに広がり、思わず目を見開いた。


「これ……すごく美味しい! この香り、柚子だけじゃないよね?」


 蓮さんは、満足そうに微笑み、コーヒーをマグカップに注いで手渡してくれた。


「何だと思う?」


 蓮さんの好きなハーブやスパイスを思い浮かべながら、私は推理する。


「なんだろう。蓮さんなら、柑橘系の香りを活かすスパイスかハーブを選ぶと思うけど……フェンネルを漬け込んだとか?」


「ああ、それも美味しそうだね。今度、試してみるよ」


 彼は「柑橘系って発想は、さすが」と言いながら、ピクルスジャーを持ち上げて、ガラス越しにその中身を見せてくれた。透明な液体の中には、大根や柚子とともに、小さな種のようなものが浸かっていた。


「ブラックペッパーと……この砂漠みたいな色の粒は?」


「砂漠色か、たしかに」と、蓮さんが少し笑いながら答える。「コリアンダーシード。軽い柑橘系の香りがあるから、合うかなと思って」


 ちょっと得意げな表情で「気に入ってもらえてよかった」と微笑む蓮さんを見ていると、胸の奥からじんわりと感動が湧き上がってきた。この人はどうして、日常の何でもないことを、こんなに楽しく、特別なものに変えてしまうのだろう。


 蓮さんは、自分でもピクルスを一口食べて頷いた後、私が彼をじっと見つめていることに気づいたようだった。


「どうしたの?」と、少し不思議そうな顔で尋ねられる。私は思わず、心の中に浮かんでいた言葉をそのまま口にした。


「蓮さんとずっと一緒にいられたら、毎日が楽しいだろうなって思って」


 蓮さんの目が、ふっと柔らかな光を帯びた。


「それは、プロポーズ? だとしたら、喜んでお受けするよ」


 私は急に恥ずかしくなり、コーヒーを一口飲んでごまかそうとした。蓮さんも照れくさそうに笑いながら、さらに言葉を重ねた。


「僕も……薫が一緒だと、日常の小さなことが全部特別になる」


 その言葉に、胸がぎゅっと締め付けられる。そして──私はさっきのLINEを思い出した。


 蓮さんに……聞かなければならないことがある。だけど、きっと彼にとっては嬉しい話ではないだろうな……。


 フォークを置いて、「蓮さん」と声をかけた。「あの、さっき、弟の祐介からLINEがあって」


「ああ、お笑い芸人を目指しているっていう弟さん?」


 私は頷く。「彼が、その……彼女と住んでいたんだけど、このたび、追い出されちゃったみたいで……」


「うん」


「アパートが見つかるまで、ですね、しばらく泊めてくれないかって……」


 蓮さんは一瞬考え込み、ゆっくりと口を開いた。


「それは、今日から、しばらくってこと?」


「はい……」


「部屋割りは、理央のときと同じ?」


「健全性を考えると、できればそれで……」


 蓮さんは、両手で顔を覆って、深い溜め息をついた。


「やっぱり、ダメだよね?」


 小さく頭を振りながら、彼は「ダメじゃない、いいんだ」と答えた。


「薫の弟さんなら全然構わない。ゆっくり部屋を探してもらえればと思ってる。ただ……」


 蓮さんが顔を上げた。その表情には、ほんの少しだけ拗ねたような色が浮かんでいる。


「──やっと、薫と二人で暮らせると思ったのに」


 その言葉に、胸がきゅっと締め付けられる。蓮さんが愛おしくて、でもそれ以上に申し訳ない気持ちでいっぱいになった。


 ──もう、蓮さんにこんな顔をさせるくらいなら、祐介に犠牲になってもらうほうがいい気がしてきた。


「それじゃ、断ろう。祐介ももう大人だし、きっと一人でなんとかできるでしょう」


 勢いでそう提案した私に、今度は連さんが首を振った。


「それじゃあんまりだよ。薫の弟さんなんだし、力になれるところは協力する」


「でも……」


「新しい部屋が見つかるまで、リビングを使ってもらってかまわないから」


 そう言うと、彼はフォークを手に取り、またサラダを口に運ぶ。私もつられて、ベーグルサンドにかじりつく。


 蓮さんは、いつもより少し早いペースで食事を続けていた。そして少しの沈黙の後、彼がふと視線を上げた。


「ただし、条件が一つだけある。薫にね」


「私に?」


 意外に思って尋ね返すと、蓮さんはちらりと時計を見た。


「出社まで、まだ4時間以上あります」


「はい」


 彼はすっと身を乗り出して、私の耳元にそっと囁いた。


「出社前に……もう一度抱きたい」

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