12時50分に、会社のエントランスに到着した。
フレックス勤務なので、本来なら13時までに出社すれば問題ないはずだった。だけど、もしこの時間に倉本先生がオフィスにいたら、あからさまに不機嫌な態度を取られるだろう。無用な衝突は避けたい。
私はコモンルームの隅からそっとオフィスを覗き込み、先生の在席を確認することにした。
レトロシックなグリッタースーツに虹色のカラフルなスカーフ──遠目からでもひと目でわかる個性的なファッションの先生は、すぐに見つかった。しかし、その様子はいつもと違っていた。
焦りと不安、そして苛立ちが入り混じった表情で、先生はスマホ越しに誰かと言葉を交わしていた。そして、足早に自分のコーナーオフィスに入り、ドアを荒々しく閉めた。
先生がいなくなってからオフィスにそっと足を踏み入れると、友記子が私を見つけて慌てて駆け寄ってきた。彼女の表情もどこか険しい。
「友記子、
「ううん、こっちこそ、出雲さんにご馳走になっちゃって。お礼を伝えておいて」
友記子はこわばった表情のまま、消え入りそうな声で続けた。
「その後の
「……何かあったの?」
オフィスを見回しながら尋ねる。制作部の航たちはパソコンに向かっているものの、落ち着かない様子で視線をそわそわと彷徨わせている。経理を兼務する総務部の席は空っぽで、オフィス全体に張り詰めたような不穏な空気が漂っていた。
「それが……」
友記子がそっと耳打ちした。
「営業部長が……先月の入金を持ち逃げしてしまったらしいの」
* * *
その日、スタジオ・マンサニージャのオフィスは、創業以来最悪とも思えるほどの重苦しい空気に包まれていた。
私もパソコンを開き、新たに任された先生名義の連続ドラマの脚本を進めようとしたものの、集中なんてできるはずもなかった。
倉本先生が鬼の形相でコーナーオフィスから出てくるたび、オフィス内の空気はピリピリとした緊張感に包まれた。夕方になると、取引先銀行の担当者が訪れ、会議室で何やら深刻そうに話し込んでいるようだった。
途切れそうになる集中力を何とかつなぎ合わせながら、私は自分に課した今日のノルマだけは終わらせた。座ったまま伸びをして気持ちを切り替えていると、目の前にアーモンド&フィッシュの小袋が差し出される。顔を上げると、航が立っていた。
「おつかれ、薫。とんでもないことになったな」
「ありがとう。ちょうどカルシウムを欲してたの」
小袋を受け取ってから、声をひそめて航に聞いた。
「会社……大丈夫なのかな」
航は腕を組み、コーナーオフィスをちらりと見た。
「友記子に聞いたら、今回の支払いはどうにか目処が立ったらしいよ。まあ、エルネストEP社から『記憶の片隅にいつもいて』の制作費も入るし、どうにか持ち直すんじゃないかな」
『記憶の片隅にいつもいて』は、最後の最後で決まった私のドラマのタイトルだ。たしかに、テレビドラマとは比べ物にならない制作費が入るらしいので、とりあえず会社が潰れる心配はないだろう。私の給料が上がる見込みは薄そうだけど。
「それじゃ、今日はもう帰ろうかな」
私はデータを保存し、パソコンをシャットダウンする。すると、航が少しためらいながら声をかけてきた。
「なあ、薫。今日、一緒に飲みに行かないか? 奢るからさ」
「え?」思わず聞き返す。
航と二人きりで飲みに行ったことは、実はこれまで一度もない。『田舎の生活』の騒動の前も、航と外食するときはいつも友記子が一緒だったし、せいぜいコンビニで買ったパンやおにぎりを会社で一緒に食べながら原稿を書くくらいだ。
私の戸惑いに気づいたのか、航は気まずそうに目をそらしながら、言い訳するように続けた。
「いや、その……脚本のことを教えてほしくてさ。プロットの組み立て方とか、シーンの作り方、あとキャッチーなセリフ回しとか……」
航は一度口を閉じ、視線を泳がせた。それから意を決したように顔を上げ、声を絞り出すように続けた。
「──俺、もっとちゃんと、脚本を勉強したいと思ってて」
私は驚いて彼を見た。誰よりもプライドの高い航が、こんなふうに人から教えてもらおうとするなんて。少し前の彼なら、こんな言葉は絶対に口にしなかっただろう。
私はしばらく彼を見つめてから、頷いた。
「分かった。でも、飲みに行くんじゃなくて、どこかでコーヒーでも飲みながら話そうよ。その方が集中できるし」
「ああ、もちろん。それでいいよ」航は慌てて頷く。
「でも、今日はごめん。これから人と会う予定があるの」
私は時計を見る。そろそろ出発すれば、ちょうど待ち合わせの時間に到着できそうだ。
「なに、出雲さんとデートか?」
航の軽い一言に、思わず照れて視線を落とした。蓮さんの名前を聞いただけで、胸が温かくなる。この不思議な感覚──恋愛って、こんなにも心を揺さぶるものなんだと、今さらながら実感する。
航は呆れたような顔をして、「ハイハイ、そうなんですね」と勝手に納得している。私は慌てて訂正した。
「違うよ。今日はもっと面倒くさい人と会うの」
私は気を取り直し、ため息交じりに言った。「夢見がちな
「薫、弟がいたんだ」航が意外そうに眉を上げる。「夢見がちって、どんな?」
「大手企業に就職したのに、お笑い芸人になる夢を諦められずに退職したの。でも、オーディションには落ち続けるし、最近は相方との稽古もできていないみたい。それだけじゃなく、昨日は彼女のアパートを追い出されてさ」
航は目を丸くし、それから小声でポツリと呟いた。
「そりゃ確かに……愚弟だな」