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第54話

 祐介が待ち合わせ場所として指定したのは、まるで昭和で時が止まったかのような、小さな料理屋『古美多こみだ』だった。


 壁一面に短冊型の手書きメニューがずらりと並び、その間には色褪せたビール会社のポスターが貼られている。


 古びた木製のカウンターと10卓ほどのテーブルはほぼ満席だ。醤油と出汁の香りがほのかに漂う店内に、常連客たちの笑い声が響き、温かい活気に満ちていた。


 私が店に入ると、バンダナで髪をまとめた若い女性が「いらっしゃい!」と、元気よく声を張り上げた。


「お一人さま?」


「いえ、待ち合わせです」


 店内を見回すと、カウンターの隅から祐介が手を振っているのが見えた。私も手を振り返し、彼の隣の席に腰を下ろす。


「もう一人来るって言うから、伊吹くんだと思ってた! こちらのきれいな方、もしかして祐介くんの彼女?」


 店の女性が私の前におしぼりを置きながら、笑顔で尋ねてきた。


「いえ、姉なんです。いつも祐介がお世話になっています」


 私がそう答えると、彼女はそばかすを愛らしく寄せるように、鼻にしわを浮かべて笑った。化粧気のない素朴な顔立ちが、とてもチャーミングなひとだ。


「お世話になってるのはこっちの方よ。祐介くん、この店のアイドル芸人だもの」


「京花さん、お世辞がうまいなぁ。でもアイドルの割には、いつも出待ちゼロですけどね」


 祐介が笑いながら、私に手書きのメニューを手渡してきた。


「姉ちゃん、京花さんが作る惣菜は全部当たりだから、目を瞑って指差し注文してもいいよ。ただし、間違えてそこに放ってある隣のお客さんのスマホとかタップしないでくれよ」


 すかさず隣のサラリーマンが、笑いながら振り返る。


「こんなきれいな姉ちゃんが俺のスマホつつくなら大歓迎だ。でも、間違えて俺の奥さんに電話かけたりしたら、祐介くんも一緒に謝ってくれよ!」


 そのやり取りで店中の客がくすくす笑い出し、まるで即席の落語会のような和やかで陽気な空気が広がった。京花さんが祐介のことを「アイドル芸人」と呼んた理由も、なんとなく理解できた。


 祐介は唐揚げと煮物をつまみにビールを飲んでいたので、私はウーロン茶と冬野菜の煮浸し、それに大根サラダを注文する。


「姉ちゃんさすが。ここの煮浸しが美味いって、なんでわかった?」


「メニューから文字が浮き上がって、キラキラ輝いて見えたからね」


 私は軽い冗談を返した。実際は、入口の目立つ場所に「常連様大絶賛のおすすめメニュー!」と大きく書かれていたのを見て選んだのだけれど。


「で、祐介。彼女に振られたんだって? ええと、ゆりちゃん?」


 祐介は自分の煮物を小皿に取り分けて、私に差し出しながら答えた。


「ゆりちゃんって、いつの時代の話だよ。ゆりちゃんの次がれいちゃんで、超短期間のまどかちゃんを挟んで、昨日俺を追い出したのが、かなえちゃん」


「ああ、そうですか」


 あまりにもめまぐるしい展開に呆れつつ、私は差し出された煮物を一口食べてみた。出汁がふわりと広がり、思わず感嘆の声を上げてしまう。


「これ……すごく美味しいね」


 祐介は得意げにニヤリとする。


「でしょ。ほんとに、なにを食べても美味しいんだ。自炊しない日は、たいていここで食べてる」


 ウーロン茶が運ばれてきたので、私は祐介と軽く乾杯をした。


「ところで、伊吹くんは元気?」


 伊吹くんは、私たちの幼馴染であり、祐介の幼稚園からの同級生だ。高校時代に祐介とお笑いコンビを結成し、老舗の菓子メーカーに就職した今も、時間をやりくりしてお笑い芸人としてのデビューを目指していた。


 祐介は「うーん」と微妙な声を出す。


「あいつ、会社でうまく行ってないみたいでさ。俺みたいに退職して派遣になって、お笑いに力を入れようかなって言い出してる」


 私は心配になって、少し眉を寄せた。


「あんたと伊吹くんでは、ずいぶん状況が違うし……。それに、伊吹くんは昔から『お菓子を作ってみんなを笑顔にしたい』って言ってたのに」


 祐介は、今度は大根サラダを取り分けてくれた。こういう気遣いができるから女の子にモテるのかと、私はなんだか納得した。


「そうなんだけど、どれだけ新商品の企画を出しても全然通らないって落ち込んでるんだよ。だからなおさら、お笑いでデビューする夢に賭けたいんだろうけど……正直、そっちのほうが何倍も難しいと思う」


 祐介はまっすぐ私を見て、言葉を続けた。


「俺は……そろそろお笑いは辞めどきかなって思ってるんだ。あいつのためにもね」


 その真剣な口調に、私は小さく頷いた。気分を変えるように大根サラダを口に運ぶと、これも驚くほど美味しかった。


「な、なに? 本当に全部、美味しいんだけど」


「だろ? いわゆるおふくろの味に、バターとかチーズとかをちょっとだけ足したような、絶妙かつ禁断な味付けなんだよ」


 祐介は得意げにそう言いながら、さらに一口頬張った。


 私たちは、しばらく他愛もない話で盛り上がっていたが、ふいに祐介がニヤッと笑いながら身を乗り出してきた。


「ところで姉ちゃん、ばあちゃんから聞いたんだけど、じいちゃん並みの美男子と住んでるんだって?」


 祐介も私同様、根っからのおばあちゃんっ子だ。日常のやり取りをしたいがために、スマホの使い方を一から教えてあげたくらいだから、おばあちゃんから蓮さんのことを聞いていても不思議じゃない。


 私は照れて視線を落とし、テーブルの上でおしぼりを広げたり畳んだりしながら言った。


「うん、まあ、ね」


「おお、人生初の彼氏、やったじゃん! で、どんな人?」


 祐介が身を乗り出し、興味津々な目で聞いてくる。私は蓮さんのことを思い浮かべながら、言葉を選んだ。


「……とにかく優しくて、穏やかで、料理が上手で、いつも笑顔な人」


 話しているうちに、頬が熱くなるのを感じた。それでも、この程度じゃ全然言い足りない気がして、私はさらに続ける。


「普段はのんびりしてるんだけど、私が迷っていると、さり気なく背中を押してくれるの。それに、仕事モードに入るとすごく洗練されていて、たまにちょっと強気で好戦的な顔を見せたりするんだよね。それがまた……すごく素敵で……」


 自然と口元が緩んでしまい、思わず両手で頬を押さえた。ふと祐介の方を見ると、彼は冷ややかな視線をこちらに向けていた。


「……姉ちゃん、大丈夫? それ、姉ちゃんの妄想か、あるいは詐欺とかじゃないよな?」


 そんなふうに言われるのは、明日香ちゃんと友記子に続いてこれで3人目だ。さすがに少しムッとしながら反論した。


「家に帰れば実物がいるから、自分の目で確かめなさいよ」


「ごめんごめん」と祐介は笑い、今度は煮浸しを小皿に盛って差し出してきた。


「で、なにしてる人なの?」


「エルネスト・エンタープライズで、立ち上がったばかりのエンターテインメント・ユニットのリーダーをしてるの」


 祐介の箸が止まった。


「エルネストって、あのエルネスト? 上場企業の?」


「そう、エルネストEP社」


 ふうん、とつぶやきながら、祐介はどこか遠くを見るような目で言った。「エリートじゃん」


「祐介こそ、今はどこの会社で派遣やってるの?」


「俺? 契約の更新を断ったから、今は無職。それが理由でかなえに追い出された。ったく、生活費も食費も、全部俺が払ってるのにさ」


 そう言いながら祐介はニヤリと笑った。「でも、いいこと思いついた」


 彼は「ちょっと失礼」と席を立ち、店の外に出ていく。すりガラス越しの祐介が、スマホで誰かと話しているのが見えて、その様子になんだか胸がざわついた。


 あいつ、何か企んでるんじゃ……。


 しばらくして祐介はニコニコしながら戻ってきて、「今、派遣会社の田口さんと話してきた。次の派遣先、ほぼ決まったよ」と、親指を立てた。


「祐介、まさか……」


 祐介は上機嫌で京花さんに手で合図して、「ビール、もう一杯お願い!」と注文した。そして、そのまま楽しげに鼻歌を歌い出す。


 この曲……「ミッション・インポッシブル」のテーマだ。


 私は確信した。──祐介のやつ、絶対、ろくでもないことを考えている。

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