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第56話

 「小腹がすいた」と祐介が呟いたので、蓮さんはグリーン・ルイボスティを淹れて、今朝と同じ大根と柚子のピクルスを小皿に盛り付けて出してくれた。


 図々しく食べ物を催促したにも関わらず、祐介は「ほえぇ」と言いながら室内を見回している。


「なんか、超絶シンプルなのにセンスいい部屋っすね。しかも、蓮さん、お茶をいれる所作がもう品格そのものって感じで」


 祐介は探るような目を蓮さんに向けて続ける。


「絶対モテる。俺が女ならほっとかない」


「ありがとう」と、蓮さんは礼儀正しく答えた。その控えめな返事からは、この話題に深入りするつもりはないという意志が伝わってくる。


 祐介は唇を少し歪め、つまらなそうに肩をすくめた。


 ……やっぱりおかしい。こんな風に挑発めいた態度を取るなんて、祐介らしくない。私は祐介の横顔を訝しげに見つめながら、ピクルスを一つ口に運んだ。


「うん、やっぱりこれ美味しい」


 私の言葉を聞いて、祐介が小皿を覗き込む。


「これ、蓮さんの手作りっすか?」


 蓮さんが頷く。「そうだよ、良かったらどうぞ。口に合えばいいけれど」


 祐介は一口食べて、目を大きく見開いた。


「やばっ、美味い!」


「蓮さんの料理、美味しいでしょ」


 私はちょっと得意げに言って、蓮さんを見た。彼もいつもの穏やかな表情に戻って、ほっとしたように微笑んでいる。


「イケメンエリートで、料理まで上手いのか……」


 祐介は少し考え込んでから、小皿を指さした。


「これ、ちょっとだけ味変あじへんしていい?」


「どうぞ」と蓮さんが答えると、祐介はボストンバッグから小さなガラス瓶を取り出し、小皿を手にキッチンへ向かった。


「蓮さん、弟が失礼な態度を取って、本当にごめんなさい」


 祐介がキッチンに行ったあと、私は蓮さんに頭を下げた。


「普段はあんな子じゃないし、さっきまでは普通だったんだけど……一体どうしたんだろう」


 蓮さんは困ったように微笑み、「もしかすると、お姉ちゃんを取られるのが悔しい、とか?」と冗談めかして言った。


 私はすぐに手を振った。


「ないない。仲はいい方だと思うけど、べったりした姉弟じゃないの。小さい頃から、おばあちゃんに『お互いをちゃんと一人の人間として尊重しなさい』って教えられてきたし」


 だけど──祐介の態度が明らかに変わった瞬間に、私は気づいていた。それは、蓮さんの会社名を聞いたときだ。その瞬間から、祐介は何かを企んでいるような表情になったのだ。


 祐介の態度の理由がなんとなく見えてきた時、祐介の明るい声が響いた。


「はい、お待たせ!」


 差し出された小皿には、大根ピクルスに少量の山椒の実が添えられていた。祐介はその上に、ガラスのドレッシングボトルの黒い液体をほんの数滴垂らす。


「ささ、食べてみて」


 勧められるまま口に運ぶと、ピクルスの酸味の上で山椒の実の爽やかな風味が弾け、柚子と梅の優しい余韻が続いた。そのバランスは絶妙で、思わず蓮さんの方を見る。彼も驚いた表情を浮かべていた。


「この味……おばあちゃんの山椒の実の佃煮と、梅醤油だよね?」


 私がそう言うと、祐介は得意げにニンマリと笑った。


「半分正解。実はこれ、俺が作ったの。山椒と梅の時期にになると、いつも長野に戻ってばあちゃんの手伝いしてるんだ。ばあちゃんの梅干しや万能だれも作れるようになったよ」


「たしかに、おばあちゃんと同じ味だ。とっても美味しい。ね、蓮さん」


 私が蓮さんの方を向くと、彼は箸を置いて、興味深そうに頷いた。


「これはすごいね。おばあちゃんのレシピ、今度教えてもらえないかな?」


 祐介は一瞬驚いたような顔をしたが、すぐにニヤリと笑って答えた。


「いいっすよ。っていうか、泊めてもらうんだから、夕食は俺が作りますよ」


 今度は私と蓮さんが驚く番だった。


「つまり、俺がこの家の料理担当で、二人が帰ってきたら、祐介シェフ特製の庶民派和食ディナーが待ってるってわけ!」


 そう言って祐介は、「わー、嬉しい!」と一人で拍手をしている。


「ちょっと、何勝手に話を進めてるのよ!」


「多分、次の派遣先はすぐに決まると思うけど、残業お断り主義なんで、時間はバッチリあります。あ、洗い物は二人にお任せするんでヨロシク!」


 私は抗議をしようとしたが、祐介がそれを遮って、悪びれる様子もなく力説する。


「だって、ばあちゃんの味って、俺や姉ちゃんにとっては『プルーストのマドレーヌ』そのものじゃん。一口食べれば、子どもの頃の思い出がブワーっと一気に蘇る、みたいな。蓮さんもぜひ、この感動を味わって、俺たちと一緒に走馬灯を見ようじゃないか!」


「祐介……走馬灯は違うでしょ」


 蓮さんはしばらく考え込むような仕草を見せたあと、微かな期待と好奇心が込めた声で答えた。


「祐介シェフのディナーは、おばあちゃん直伝の和食ということで間違いないんだよね?」


 ……そうだ、そうだった。蓮さんもおばあちゃんのファンだった。


「もちろん! 俺の料理は、ばあちゃんの歴史そのものと言っても過言じゃないっす!」


 祐介は嬉々として即答し、自信たっぷりの笑みを浮かべる。その様子を見て、蓮さんの口元にも笑みが浮かんだ。


「分かった。おばあちゃんの味をぜひ教えてもらいたい。僕にとっての『プルーストのマドレーヌ』──いや、走馬灯の片鱗になるかもしれないしね」


* * *


 祐介がシャワーを浴びるためにバスルームへ向かったあと、私は蓮さんの隣に座って謝った。


「祐介があんな態度を取って、本当にごめんなさい」


 蓮さんは優しく首を振りながら、気遣うような微笑みを浮かべる。


「大丈夫だよ。最初は驚いたけど、嫌われているわけじゃなさそうで安心した。でも……理由はわからないけれど、少し試されている気はするね」


 確かに、私もそれは感じていた。泊めてもらう分際で蓮さんを試すなんて、失礼にもほどがある。あとでしっかり言い聞かせておかないと。


「うん。祐介には、ちゃんと言っておくから」


 その時、蓮さんの手がそっと私の頬に触れた。指先から伝わる温もりに、鼓動が少し速くなる。少し照れながら、蓮さんは続けた。


「祐介くんとは、仲良くなりたいと思ってるよ。……そのうち、僕の弟になる人だしね」


 突然の言葉に、心臓の音が速くなる。恥ずかしさをごまかすように、私は慌てて目を伏せた。


 恋愛ドラマの脚本をいくら書いていても、いざ自分が当事者になると、何も言葉が出てこない。……そうだ、こういう場面用のセリフ集を作って、持ち歩くのはどうだろう。


「薫、何か面白いことを考えているときの顔をしてるね。今、何を考えてるの?」


 私の頬を優しく撫でながら、蓮さんが楽しそうに尋ねた。


「こういうときに気の利いたセリフがすぐに出てくるように、単語帳を作ろうかと思って。『ワンフレーズで覚えやすい! ロマンチック返答集』みたいなの」


 蓮さんは小さく吹き出して、「まったく、君は……」と言いながら、顔をそっと近づけた。


「そんなのいらないよ。照れてる薫も見たいから」


 私はドキドキしながら、ゆっくりと目を閉じる。唇が触れそうになったその瞬間──


「ああー、気持ちよかったアアア! 蓮さん、風呂までなんかハイスペなんすね! 俺、シャワー浴びながら、ハリウッド映画に出ている気分になりました!」


 廊下から祐介の脳天気な声が響いて、私たちは慌てて離れる。


 それからふたりで目を見合わせて……同時に深い溜め息をついた。

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