ランチタイムを少し過ぎた頃、私は待ち合わせ場所のベーカリーカフェの扉を開けた。その瞬間、香ばしく温かな香りが、冬の冷たい空気の中に溢れ出した。
「コーヒーも自家焙煎なのよ」と知里さんが言っていた通り、焼きたての小麦の香りに、ローストされたコーヒーのビターな薫香が混ざり合っている。私は思わず目を閉じて、深く息を吸い込んだ。
入口付近はパンの売り場で、奥がカフェスペース。手袋を外しながら店内を見回すと、白いシルクブラウスを着た知里さんが手を降っているのが見えた。
首元のバーガンディのスカーフが、元々のシャープな印象にクラシカルな柔らかさを添えていて、今日も彼女は人目を引く美しさだった。
私は知里さんのテーブルに座り、彼女と同じシナノゴールドのアップルパイとオリジナルブレンドコーヒーを注文する。知里さんと会うのは、あの誕生日の夜以来だ。
「あら、幸せそうにニマニマしながら現れたら、パイのくずでも投げてやろうと思ったけど、そうでもないみたいね」
「……知里さん。私をどれだけ単細胞だと思ってるんですか」
私は恥ずかしくなってうつむき、両手で顔を隠した。
「あ、やっぱりニマニマしてるじゃない」
顔が緩むのを必死で抑えようとしたけれど、無理っぽい。私は開き直って笑いながら尋ねた。
「知里さんは、最近どうですか?」
「どうって、合コンの話? それなら成果はゼロよ」
知里さんはフォークでパイを一刺しし、皮肉げに口角を上げた。
「クリスマスに七面鳥の丸焼きを食べるなら、私も招待してよ」
「わかりました。プレゼント交換もしましょう。音楽が鳴っている間、ぐるぐる回すタイプのやり方で」
ちょうど運ばれてきたコーヒーとパイを受け取った。パイから立ち上る濃厚なバターとりんご、そしてマグカップいっぱいに注がれたコーヒーのほろ苦い香りが混ざり合い、食欲を刺激する。
「それで、仕事の方はどうですか?」
知里さんは、パイを一口頬張り、「うん、美味しい」と満足そうに呟いてから、少し意味ありげに微笑んだ。
「スタジオ・マンサニージャに、ドラマ脚本の仕事を二本依頼したの。葵ひかり先生の『ワケあり女優さんは恋をする』と、雫石しま先生の『眠りの小鳥』。薫は読んだことある?」
私は驚いて、コーヒーの香りを楽しんでいたマグから顔を上げた。
「えっ、すごい! どちらも大好きな小説です!」
知里さんは長い指先を組んで、にっこりと笑った。
「薫は絶対好きだと思ったわ。実は私もなの。年が明けてから取り掛かってもらうことになるけれど、あなたの脚本、楽しみにしているから」
その言葉に、ふと我に返る。そうだ、今日は伝えたいことがあって、知里さんに時間を作ってもらったのだった。
深呼吸をして背筋を伸ばし、私は知里さんをまっすぐ見た。
「知里さん、そのことなんですが──私、独立を考えているんです」
アップルパイを刺したフォークを止めて、知里さんがじっと私を見つめる。
これが知里さんのことをちゃんと知る前だったら、「また辛辣な一言が飛んでくるかも」と身構えたかもしれない。でも今は違う──彼女ならきっと、私の背中を押してくれる。
しばらくして、知里さんはふっと小さく笑い、言った。
「なに、やっと決心したの?」
やっぱり。そう言ってくれると思っていた。私は小さく息をつき、「はい」と答えた。
「薫から話があるっていうから、てっきり『結婚します』とか、そんな話かと思ったわ」
顔が熱くなり、慌ててコーヒーを飲むふりをする。またしても緩んだ表情が見られたかもしれないが、もういいや。気づかないふりでやり過ごそうと決めた。
「いえ、そういうのは……全然、まだです」
知里さんはしばらく無言で私を見つめたあと、柔らかく笑った。
「あなたって、思いつきで大胆に生きているように見えて、そういうところは意外と慎重派よね」
……長野の明日香ちゃんにも、友記子にも言われた。どうやら知里さんにも見抜かれてしまったらしい。
「まあ、あなたの実力なら、フリーになったほうが絶対にいいわ。倉本さんにはもう話したの?」
「いえ……でも、今週中には話そうかと思っています」
私がお茶を濁すと、知里さんは「ああ、横領の件で言うタイミング逃したか」と、サラリと口にした。
私は目を見開いた。横領のこと……知里さんがどうして?
「何驚いてるの。同じ業界内なんだから、噂は自然と耳に入ってくるわよ。まあ、それほど多額じゃないし、会社は大丈夫だろうって聞いたわ。倉本さんが怒り狂っていることを除いては」
「噂……そういうもの、なんですね」
知里さんは食べ終えたパイの小皿をテーブルの端に寄せ、少し真面目な表情になって続けた。
「でも、あなたのおかげで、マンサニージャには世界的ストリーミングサービスで配信される『記憶の片隅にいつもいて』という大きな実績ができたわ。これからも依頼はどんどん増えるはず。あなたが独立しても、会社は大丈夫よ」
そして、思い出したように付け加える。
「あなたが好きな『ワケあり女優さん』と『小鳥』の脚本は、倉本さんに任せることになっちゃうのが、ちょっとだけ残念ね」
「倉本先生の脚本は大好きですから、ファンとして楽しみにします」
知里さんは、元気づけるように拳で軽く私の肩を叩き、「春木賢一朗の小説をドラマ化するときには、あなたに任せるから」と言って立ち上がった。そしてカシミアのコートを羽織り、伝票を手にする。
「午後は面接の立ち会いがあるから、もう行くわね。あなたの誕生日には出雲くんに奢ってもらったから、今回は私に払わせて」
──面接、か。
何だか申し訳ない気持ちになって、私は知里さんを見た。
「……すみません」
「なに、らしくないわね。こういうときは『すみません』じゃなくて『ありがとう』でしょ?」
知里さんの言葉に、私は少し罪悪感を覚えながらも頷いた。
「ありがとうございます。ご馳走さまです」
「姉ちゃん、おかえり!」
20時を回って帰宅すると、まるでペットホテルから解放された大型犬のように、祐介が大喜びで玄関まで飛び出してきた。
「せっかく肉じゃが作ったのにさ、姉ちゃんも蓮さんも遅いんだもん。さみしくて、俺、一人で半分くらい食べちゃったよ」
「ハイハイ」
私は適当にあしらいながら、リビングへ向かう。ガラス戸を開けた瞬間、おばあちゃんが作るのと同じ肉じゃがの匂いが鼻をくすぐり、急にお腹が鳴りそうになった。
「いい匂い。そんなにお腹すいてなかったけど、いただこうかな。蓮さんの分もあるの?」
「もちろん。半分食べたけど、あと10人分はあるよ」
祐介はそう言いながら、肉じゃがと副菜を器によそい始めた。ほうれん草のおひたしに、ひじきの五目煮──どちらも、私と祐介が小さい頃から慣れ親しんだ味だ。さらに、祐介は手際よく湯を沸かし、私の好きなほうじ茶を淹れてくれた。
「ありがとう」
湯呑みを受け取りながら礼を言うと、祐介がふいに顔を輝かせ、ガッツポーズを作った。
「姉ちゃん、俺、面接合格したよ! 来週から仕事。また忙しくなるけど頑張るよ」
その瞬間、玄関の鍵が回る音がして、「ただいま」と声が聞こえた。祐介は嬉々として、再び玄関へと走る。
「連さん、おかえりいいっ! ご飯にする? お風呂にする? そ・れ・と・も?」
楽しそうに笑う祐介に、蓮さんは困惑した表情で「……祐介くん」と呟いた。
「今日、即戦力になりそうな派遣の人が面接に来たって、広瀬さんから聞いたんだけど……」
祐介は得意げにニンマリ笑うと、胸を張って言った。
「即戦力になりそうな優秀なイケメンが面接に来たと、あの美人さんが言ってたって? ええっ、一体誰だそいつは!? ──そう、それは何を隠そう」
そこで彼は「ドコドコドコドコ……バイーン」と派手なアクション付きでドラムロールを決め、誇らしげに叫んだ。
「そう、そのイケメンこそ、ここにいる祐介くんです! 蓮さん、来週からよろしくお願いしまっす!」