「……祐介くん、君の職務経歴書を見させてもらったよ。派遣会社での評価もAだし、スキルも申し分ない。面接に立ち会った広瀬さんなんて、すぐにでも君を社員にしたいと言っていたくらいだ」
そう言いながら、蓮さんは腕を組み、祐介をまっすぐ見つめた。
「一番驚いたのは、大手の外資系IT会社に新卒で入社したという職歴だね。でも、2年で辞めている。──君のお姉さんの婚約者という立場で聞いてもいいかな。どうして退職を?」
祐介は、鍋から肉じゃがを器に盛りつつ、「蓮さん、肉じゃがはつゆだく派?」と軽い調子で尋ねた。
私は心の中で「祐介! まずは質問に答えなさい!」と念を送り続けたけれど、蓮さんは気にする様子もなく、「つゆは少なめでお願いします」と答えた。
祐介は肉じゃがと副菜の小鉢を蓮さんの前に置くと、カウンターに手をついて、少し間を取るように「んー」と短く唸った。
「辞めた理由は……もっと面白いことをしたかったから、かな?」
「それは、お笑い芸人を目指すということ?」
蓮さんの切り返しに、祐介はニヤリと笑い、「ささ、温かいうちに食べてくださいよ!」と話題を変えた。
おばあちゃんの秘伝のレシピで作った肉じゃがは、案の定、蓮さんの口にも合ったようだった。
「へぇ、しらたき入りなんだね。味に深みがあるのは……もしかして、少し味噌を入れてる?」
祐介は嬉しそうに頷く。
「正解っ! これ、自家製味噌なんですよ」
「なるほど。これは美味しいね」
蓮さんは、満足気に箸を進める。その様子をしばらく見ていた祐介だったが、ふと真剣な表情になり、口を開いた。
「ねぇ、蓮さん。さっきの質問の答えなんだけどさ……」
蓮さんが顔を上げると、祐介もまっすぐにその視線を受け止めた。軽い口調とは裏腹に、祐介の目には真剣な光が宿っていた。
「俺、20年後に今を振り返ったときに、自分自身ににがっかりするのが嫌なんですよ。だから、安全な港なんてさっさと出ちゃってさ、帆をバーンって思い切り広げて、この体中に貿易風をブワーって受けながら、大海原を進んで行きたい──そう思ってるんです」
祐介は照れ隠しのように親指を立て、「まあ、人からの受け売りなんすけどね」と言いながら、わざとらしいウィンクを投げた。
「俺ってロマンチックな男でしょ? キャプテン祐介って呼んでいいよ」
蓮さんは箸を置き、祐介を見つめ返す。それから静かに息をつき、落ち着いた声で呟いた。
「──Explore. Dream. Discover. なるほど、それが君の座右の銘なんだね」
祐介は一瞬、動きを止め、それから手をぎゅっと握りしめた。それは彼が狼狽したときに見せる、昔からの癖だ。
そんな自分を見抜かれないようにと、祐介はすぐに手を緩め、いつもの軽い調子を取り戻した。
「蓮さん、英語上手いですね! でも俺、全然わかんないっすから! ジャパニーズ・プリーズでお願いプリーズ!」
蓮さんはくすっと笑い、再び箸を手に取って言った。
「シェフ祐介の次はキャプテン祐介か……君の肩書きはまだまだ増えそうだね」
* * *
翌朝、蓮さんが出社したあと、私は祐介に「ちょっと話があるんだけど」と切り出した。祐介はリュックにパソコンやノートを詰め込みながら、
「今日はカフェでネタ作ったりするから、姉ちゃんも一緒に行こうぜ。伊吹も寄れたら寄るって言ってたし」
そうして私たちは駅前にあるシアトル系コーヒーショップに入り、バーカウンターに並んだ。私は迷わず「本日のコーヒー」を選んだが、祐介はレジ横の黒板を真剣に読んでいる。
「姉ちゃん、この新作の『フラフィークリーム&ベリーショコラ』って絶対美味いやつだよね。『ふんわりホイップと濃厚ショコラに、甘酸っぱいベリーソースを贅沢にトッピング』だって。俺これでお願い!」
そう言って、祐介はそそくさと席へ向かった。私は仕方なく注文を済ませ、代金を支払う。
「ちょっと、図々しさが加速してない?」
ドリンクを持って席に着くと、祐介は「ゴチでーす」と満面の笑みを浮かべて、ドームリッドが付いたプラスチックカップを受け取った。それでも、自分は通路側の椅子に腰掛け、私に壁側のソファを譲るあたりが、祐介の憎めないところだ。
「で、話って?」
祐介はラップトップを開き、タッチパッドを操作しながら、軽い調子で聞いてくる。
「祐介、蓮さんに対するあの態度はなに?」
祐介はパソコンから顔を上げ、ドリンクを手に取りってクリームをひと口味わい、「うっまぁ!」と声を上げた。
「『口の中に食べ物がある限り、とりあえずすべての問題は解決している』ってカフカは言ったけど、いやそれ本当だな」
私は黙って待った。おちゃらけながらも、祐介がちゃんと向き合ってくれる人だということを、私は知っている。
一息ついたあと、彼はドリンクをテーブルに置き、まっすぐ私を見つめた。
「……昨日はごめんなさい。蓮さんが、姉ちゃんにふさわしいかどうか、見極めたかったんだ」
コーヒーのマグを口元に当てたまま、私は湯気越しに祐介を見つめ返す。
「姉ちゃんさ、小学生の頃から、ずっと和樹くんに片思いしてたじゃん。俺から見たら、和樹くんは友達としては最高にいい人だけど、彼氏としてはナシ。だって、彼女いない状態に耐えられない人じゃん」
ぐうの音も出ずに、私は祐介のドリンクのカップに付いた水滴が流れ落ちるのを見ていた。言い返す言葉が浮かばない。実を言うと、中学生の頃から祐介に何度も言われてきたことだった。
「だからさ、姉ちゃんの男の趣味って微妙なのかもって、ちょっと心配してたんだよ」
「それは……ありがとう」
祐介の言葉に、私は素直にお礼を言った。少し態度が過剰だった気はするけれど、彼なりに私のことを考えてくれているのだろう。
「ま、蓮さんは
「合格って……ちょっと祐介、何さまのつもり? それなら私も彼女として合格かどうか、聞いてみたいくらいだけど」
祐介は、意外だというふうに、眉を上げた。
「姉ちゃんは合格だよ。いつだって自分より周りを大事にしてるじゃん」
普段はふざけてばかりだけど、たまにこうやって、大切にしたくなる言葉をくれるのが祐介という人だった。まったく、祐介もなかなかの「人たらし」だ。
「確かに蓮さんはイケメンでハイスペだけど、それなら俺だってそうじゃない? でも、うん、蓮さんは姉ちゃんの彼氏として認めようジャマイカ!」
私の方には……まだ懸念事項がある。
「で、なんで派遣先がエルネストEP社なの? なにを企んでるの?」
祐介は唇を突き出して不満そうな顔を作った。
「俺だってさ、じきに25歳だし、そろそろ身の振り方を考えなきゃって思ってるわけよ。世知辛い世の中だしな」
「それで、エルネストEPが、あんたにふさわしい会社かどうかを試してるってわけ? 」
祐介はにっこり笑った。
「そういうこと。エルネストEP社に決めるとしたら長いお付き合いになるからさ、最初の見極めが肝心だしね」
「……絶対に、蓮さんにも広瀬さんにもほかの社員さんにも、本当に絶対に、迷惑かけたらダメだからね」
私は少し語気を強めて念を押した。
祐介は「はいはい」と軽く受け流しながら、ストローの先でクリームをすくって食べている。そのとき、ふと横に誰かが立つ気配がした。
顔を上げると、地元にいた頃より少し丸みを増した小林伊吹くんが立っていた。手には祐介と同じフラフィークリームのドリンクが握られている。
「伊吹くん!」
「薫ちゃん、久しぶり!」
伊吹くんは嬉しそうに微笑み、祐介の隣の席に腰を下ろした。学年は4つ違うが、小学校の頃からの知り合いなので、未だに「薫ちゃん」と呼ばれている。
「祐介から聞いたよ。今度、『笑いの
「笑いの芸品館」とは、キャリアの浅い芸人の登竜門とされるコンテストだ。規模はそれほど大きくはないが、大手メディア制作会社のダークレイス社が主催しているため、業界内では一定の注目を集めている。
そして──ダークレイス社は、エルネストEP社のライバルでもある。
祐介はストローでドリンクをかき混ぜながら、肩をすくめて言った。
「本当は、ダークレイス社のコンテストは出たくないんだ、商業主義がエグすぎて。でも、直近のオーディションがこれしかなかったから、とりあえず出て、落ちたら最後にしようって話し合ったんだ」
私は伊吹くんを見た。まだ10代にも見える幼い顔立ちに、緊張感が漂っている。彼は真剣な眼差しで頷いた。
「うん。これが最後だとしたら、何としてでも受からないとな、祐介」
伊吹くんと祐介は、これからネタの打ち合わせがあるのかもしれない。私もそろそろ会社へ向かおう。
「じゃ、私は行くね。伊吹くん、またね」
「うん、また!」
伊吹くんは笑顔で手を降る。祐介は「ちょっとトイレ行ってくる」と伊吹くんに告げ、ラップトップの画面を半分閉じてから、私の後を追ってきた。
「姉ちゃん、分かってると思うけど、さっきの話は蓮さんにも広瀬さんにも内緒だからな」
私は小さくため息をついた。蓮さんに隠し事をするのは気が引けるけれど、祐介の人生に関わる判断を、私が勝手にするわけにはいかない。
「分かった。でも、本当に迷惑はかけないでね」
「『
祐介はニッと笑い、親指を立てながら、またしても下手なウィンクをした。
だけど──その瞳の奥に一瞬だけ、揺らぎのない意思が浮かんでいた。