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第59話

 先週、コーヒーショップで祐介はこう言った。「彷徨うものすべてが道に迷っているわけではない」と。


 だけど、今の私は──まさに迷いの真っ只中にいる、彷徨うものだった。


 迷い度を1(全然迷ってない)から10(底なし沼)のスケールで表すとしたら、私は8か9あたり。ペンキが剥がれた古いボートで底なし沼を漕いでいるけれど、岸はどこにも見えない。そんな状態だった。


 20時を過ぎて、蓮さんのテラスハウスの前に着いた。窓から漏れる温かいオレンジ色の光を見て、私は蓮さんの笑顔を思い浮かべた。


 温かい部屋に入り、蓮さんに抱きしめてもらえたら……どんなに楽だろう。


 蓮さんの優しさに包まれて、さっきのことを、すべて忘れてしまいたい。でも、それができないことも自分でわかっていた。


 これまでは、友達や仲間に背中を押してもらいながら、それでも自分の足で踏ん張ってきた。


 だけど、今ここで蓮さんに甘えてしまったら、これからも何かあるたびに、彼を頼りにしてしまうかもしれない。──それが何よりも怖かった。


 今日の午後、倉本先生に言われた言葉が、脳裏で何度も繰り返される。


「独立したいというのなら、『記憶の片隅にいつもいて』のクレジットにあなたの名前は入れられない。スタジオ・マンサニージャ名義にするから」


 私は玄関前に立ったまま両手で顔を覆い、深いため息をついた。


* * *


 営業部長の横領事件がようやく落ち着き、会社が傾くこともなさそうだと分かったのは数日前のこと。そのタイミングで、私は倉本先生にアポイントを取った。


 そして今日の午後、予定通り先生のコーナーオフィスを訪れた。


 ブラックな環境ではあったけれど、シナリオライターとしての私を育ててくれたのは間違いなく先生だ。退社の意志とともにこれまでの感謝の気持ちを伝えようと、私は思っていた。


 先生のオフィスのドアをノックすると、すぐにドアが開く。


 今日の先生は、鮮やかなエメラルドグリーンのシルクブラウスに、大胆なレオパード柄がプリントされたスリムパンツを合わせている。まるでサファリツアーの案内人のようなファッションだ。


「椿井ちゃーん、入って入って」


 先生は満面の笑みを浮かべて私を招き入れると、銀のプレートに載せたボンボン・ショコラを差し出した。


「これはエスプレッソのガナッシュ、こっちがフランボワーズのフィリング入りよ。椿井ちゃんに食べてもらおうと思って、先生、デパ地下のショコラティエで張り切って買ってきちゃったわ」


 この声──甘えるように浮ついた猫なで声──は、先生が無理を通そうとするときの合図だ。エスプレッソ味のショコラには興味を引かれたが、私は少し警戒して「ありがとうございます」とだけ答えて、手は伸ばさなかった。


「先生、今日はお時間をいただきまして──」


「ああ、椿井ちゃんは庶民だもんね、高級品よりもこっちのほうがいいか! はい、ご当地土産のお菓子」


 そう言って先生は、今度は「北海道限定! じゃがバタ味」と書かれたスナック菓子を差し出した。それは北海道旅行に行った社員が全員に配っていたもので、同じものは私の引き出しにも入っている。


「あと、椿井ちゃんにあげられるものは……ええと……」


「先生、来月いっぱいで退社したいと思っています」


 引き出しをガサガサ物色している先生の横顔に向かって、私は告げた。先生はおそらく、大方の予想をつけたうえで、私に退社の話を切り出させないようにしているのだろう。


 先生の動きがぴたりと止まり、視線だけがこちらに向けられる。その目は永久凍土のように冷たい。


 それでも、先生は気を取り直したように顔に笑顔を貼り付けた。ただし、目だけは一切笑っていなかった。


「椿井ちゃんてば、エルネストEP社の仕事をやって天狗になっちゃったのね。でもね、あなたの実力なんてまだまだ中の下あたりよ。そうね、あと3年……いえ、2年でいいわ。マンサニージャで受け入れてあげるから、もっと精進しなさいな」


「……大変申し訳ありません。先生にはとても感謝しています。だけど、熟考した上で決めました」


 深々と頭を下げ、数秒後に顔を上げると──そこには目だけが異様に光る、無表情な先生がいた。


 ……これ、ホラー映画だったら間違いなく次の犠牲者は私だ。


 だけど、次に発せられた言葉は、その冷たい表情からは想像もできないものだった。


「分かったわ。有給も残っているんでしょう? いままでもほとんど有給を取ってなかったんだから、来月なんて言わないで、引き継ぎが終わったら、あとは有給扱いで大丈夫よ」


 驚いて顔を上げる。確かに、有給は毎年、ほとんど残していた。けれど、先生に限ってそんな提案をしてくれるなんて、信じられなかった。


「えっと……ありがとうございます?」


 思わず語尾が上がり、なんだか疑いを含んだ声になってしまった。先生は、目だけは笑わないまま、ニカっと笑みを浮かべた。……下からライトを当てれば、完全にホラー演出になりそうだ。


「いいのよ。でもね、椿井ちゃん。どうしても今、独立したいというのなら、『記憶の片隅にいつもいて』のクレジットにあなたの名前は入れられない。スタジオ・マンサニージャ名義にするから」


 自分の耳を疑った。私の名前が……入らない?


「そんな……あれは、私が書いたものです」


「ふふ、椿井ちゃんてば、何もわかってないのね。あれはね、マンサニージャの社員が書いたものなの」


 思わず息が詰まった。先生はにっこり笑う。


「ほら、クレジットにあなたの名前が載ったら、仕事がみーんなあなたの方に流れるじゃない? あなたにお給料を払ったのは会社なのに、そんなの公平じゃないわ。あなた、今までお世話になった事務所に仕事が来なくなってもいいというの?」


 それは……正直、そこまで考えていなかった。というか、自分に仕事が入ってくるのかどうかも未知数なのだ。


「仕事が入ってこなくなったら、安斎くんも、村杉さんも、他の社員のみんなも、とても困ると思うわぁ」


 その言葉とは裏腹に、先生はとても楽しそうに話す。


 私が言葉を失っていると、先生はボンボン・ショコラを自分でつまんで口に運び、「ふふ、やっぱり高級ショコラは美味しいわね」と含み笑いをした。そしてスナック菓子を私の手に握らせる。


「ご当地スナックでも食べながら考えなさい。事務所に残るか、『記憶の片隅』のクレジットを諦めて退職するか。社員のみんなの顔を思い浮かべて、後悔しない選択をするのよ。そう──みんなのためになる選択をね」

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