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第60話

 玄関前でいつまでも立ち尽くしていたら、不審者に思われるかもしれない。私は小さく息をついて、鍵を開けた。


 リビングからは、祐介と蓮さんの楽しそうな声が聞こえてくる。


「──登場人物が困難から立ち直るきっかけとして描かれることも多いよね。主人公がボロボロになったところで飲む一杯のスープは、ただの食事以上の意味があったりするように」


「うん、それわかる。なんていうかさ、状況とか登場人物の心情を伝えるための万能ツールみたいに機能している感もあるよね。だからいろんな形でストーリーに組み込まれて──あ、姉ちゃん、おかえり」


「ただいま」私はできるだけ平静を装って答えた。「楽しそうね。何の話をしてるの?」


 二人は顔を見合わせ、同時に言う。


「スープ」


「……そう」


 ちょっと聞こえた話からして、文学に登場するスープについて語り合っていたのだろう。でも、この二人が言うと、妙に美味しそうに思えるから不思議だ。


「ちょっとお腹が空いちゃった。夜ご飯なに?」


 またしても二人の声が重なる。


「スープ」


 ……いつの間にこんなに仲良くなったんだろう。まあ、なんだか微笑ましいからいいけれど。


「蓮さんが教えてくれたレシピで作ったポタージュがあるよ。今温めるね」


 そう言いながら祐介がキッチンに向かったので、私は彼が座っていたカウチに腰を下ろす。すると蓮さんが、少し心配そうに私の顔を覗き込んできた。


「薫……何かあった?」


 私は慌てて笑顔を作る。


「何もないよ。ただ、ちょっと疲れちゃっただけ」


「そう、ならいいけれど」


 蓮さんはそう言い、そっと私の髪を撫でた。


 祐介が来て一週間、キスさえしない健全な日々が続いている。それでも今日は、祐介がいてくれてよかったと心から思った。


 もし彼がいなかったら、私は蓮さんにすがりついて泣き出していたかもしれない。「姉」という立場だけが、かろうじて私を支えてくれている気がした。


 私の様子が普段と違うことに気づいたからか、蓮さんは再び私を気遣うような視線を向けてきた。彼をこれ以上心配させたくなくて、私は「本当に、大丈夫だよ」と微笑んでみせる。


 すると、不意に蓮さんが言った。


「薫、口に何かついてるよ」


「え、嘘!」慌てて口元を拭う私に、彼は穏やかな笑みを浮かべながら言う。


「じっとしてて」


 蓮さんの手が一瞬ためらうように動き、軽く握った親指と人差し指で、私の下唇を優しく挟んだ。その瞬間、唇に触れる柔らかな感触に、まるで甘噛みされたような刺激が体中を駆け抜ける。突然の出来事に、私は息を止めたまま動けなくなった。


「姉ちゃん、お待たせー! シェフ祐介の新境地、かぼちゃのポタージュですっ!」


 祐介がスープカップを手にキッチンから現れた。それを合図に、蓮さんは照れたように「取れたよ」と短く言い、指を離した。


 ……嘘だ、絶対に何も付いてなかったはず。私は耳まで赤くなるのを感じながら、心の中で呟いた。


 これは──きっと、私を励ますためのキスだ。「元気を出して」と、言葉の代わりに伝えてくれたのだろう。でも、今はその優しさが私を不安にもさせる。頼ることを覚えてしまったら、自分の足で立てなくなるような気がして。


 私は蓮さんから視線をそらし、スプーンでポタージュをすくって口に運んだ。祐介が作ったそれは、驚くほど蓮さんの味と同じだった。


「これ、蓮さんと一緒に作ったの?」


 祐介は得意げな顔になって、人差し指を横に振って「チッチッチ」と答える。


「レシピとコツを教えてもらって、俺が作ったの。どう、完コピでしょ?」


「うん、すごいね。同じ味だよ」


 スープはとても美味しかったけれど、やっぱりまだ食欲は戻らなかった。祐介が「おかわりは?」と聞いてきたのを笑顔で断り、食べ終わったカップを片付けようとした。


 だけど、横から蓮さんがすっと手を伸ばし、優しく私を制した。


「疲れてるみたいだから、僕が洗うよ。薫は休んでて」


「でも、上げ膳据え膳じゃ、さすがに……」


 言い終わらないうちに、蓮さんは素早くカップを手に取り、そのままキッチンへと向かってしまった。


 残された私は、ほんの少し気まずい気持ちで座り直す。すると今度は、祐介が小声で尋ねる。


「姉ちゃんさ、なんかあったでしょ?」


 絶対に知られたくないと思ったのに……私はそんなにわかりやすいのだろうか。気づかないうちに、顔に「心配事あります」って大書きされているのかもしれない。


「大丈夫」と言いかけて、私は言葉を飲み込んだ。ここまで顔に出ているのなら、無理に取り繕ってもきっと無駄だ。むしろ、胸の中でぐるぐると渦巻くこの気持ちを、誰かに聞いてもらうべきなのかもしれない。


 甘えるつもりなんてさらさらない人──そう、祐介みたいな人に。


「……祐介、明日時間ある?」


 祐介は頷いた。「17時に退社するから、どっかで待ち合わせる?」


「ありがとう、助かる」


 そう言ってから、私は気付いた。話すことで「助かる」と思うくらい、自分が追い詰められているのだということに──。

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