祐介との待ち合わせ場所に選んだのは、知里さんに教えてもらったエルネストEP社近くのコワーキングカフェだった。
以前、知里さんと利用したのは個室だったが、コワーキングルームも広々としている。テーブルとチェアが程よい間隔で配置されていて、プライバシーを確保しつつ、落ち着いて話せそうな空間だった。
約束の19時を少し過ぎて、私は到着した。受付でドロップインの料金を払いコワーキングルームに入ると、祐介は窓際の席でラップトップを開いて作業をしていた。
「祐介、遅くなってごめん」
声をかけると、祐介は画面から目を離して軽く伸びをした。
「おお、姉ちゃん。ちょうどお笑いのネタをブラッシュアップしてたところだから、全然大丈夫だよ」
「オーディションの準備はどう?」
私が尋ねると、祐介は少し困ったように額をさすった。
「うーん、やっぱり伊吹が稽古の時間を取れなくてさ。シルベストレ製菓って大手だけど、昔ながらの体質みたいだね。今日も残業だって」
「そっか……」
私はこの間カフェで会ったときの、伊吹くんの真剣な表情を思い出した。ダークレイス社のオーディションに懸ける彼の決意が伝わってきただけに、この状況は歯がゆいだろうと想像できた。
「あいつは念願の企画部に配属されたんだから、自分が考えたお菓子を形にしたいんだと思う。ただ、何度も企画案を却下されて、だいぶ心が折れてるみたいなんだよね」
祐介はため息混じりに呟いたあと、気を取り直したように椅子に座り直して、私の顔を覗き込んだ。
「で、姉ちゃんこそどうしたのさ。昨日、めちゃくちゃヘコんでたじゃん」
自分では隠せているつもりだったのに、やっぱりバレていたか。私は昨日、倉本先生に言われたことを祐介に話した。
「はぁ? 姉ちゃん、それ認めちゃうわけ?」
祐介は身を乗り出し、不満げに声を上げた。……その反応こそが正解なのだろう、多分。
「わかってるけど、あの案件はそもそもマンサニージャに依頼されたもので、私は途中から加わった以上、ルール上はこうなることも理解できるんだよね……もちろん、悔しいけど」
「そんなの、蓮さんとか広瀬さんに相談すれば、なんとかなるだろ?」
「私が声を上げることで、マンサニージャとエルネストEP社との間に軋轢が生まれたら……社員のみんなに迷惑がかかる」
私がそう言うと、祐介は「なるほど、それが理由ね」と大げさにため息をついた。
「チャーチルは『人は得るもので生計を立てるが、与えるもので人生を築く』って言ったけど、姉ちゃんの場合、与えすぎて自分の生計すら怪しくなってるよ。ほんと、姉ちゃん、要領悪すぎ。さっさと蓮さんに頼みなよ」
私は首を横に振る。
「蓮さんには甘えたくないの。自分の力で何とかしたい……たとえ、クレジットを諦めることになっても」
祐介は、まったく理解できないというように眉をひそめた。
「なんで? 姉ちゃんさ、困ったときには人に頼れるタイプだったじゃん。頼っても、ちゃんと自分の足で立ってるし、寄りかからないだろ。姉ちゃんのそういうところ、俺的にはカッコいいって思ってたんだけど」
私は椅子の背にもたれて、両手で顔を覆った。
「……だって、蓮さんに頼ると、甘えて寄りかかっちゃうかもしれなくて、それが怖いの」
その言葉に、祐介は頬杖をつきながら呆れたように首を振った。
「遅い初恋ね……ああ、めんどくさいねぇ。でもまあ、参考にはなる」
「ちょっと、参考って何よ? まさかお笑いのネタにでもするつもり? それとも──」
ムッとして言い返そうとしたところで、スラリとした女性がエントランスから入ってくるのが視界に入った。
「あれ、知里さんだ」
思わず手を上げると、知里さんも私たちに気づき、にっこり笑いながら近づいてきた。
「薫、祐介くん。来てたの」
たった一週間で「祐介くん」と呼ばれるようになるとは……祐介のコミュニケーション能力には感心させられる。
「ここ、いい?」
知里さんは返事を待たずに横のソファ席に腰を下ろした。
「出雲くんに聞いたわよ。あなたたち、姉弟なんですって? ……すごい偶然ね」
偶然じゃないんです……そう思いながらも、祐介に口止めされているので言えない。私は恐縮して言った。
「弟が、ご迷惑をおかけしていないといいのですが」
「……彼は、今までの誰よりも優秀なWEBデザイナーよ。それにキャッチコピーやボディコピー案も出してくれるし、すぐにでも社員になってほしいという意見も多いわ」
「いやいやいや、広瀬さん。いくら俺がイケメンだからって、褒めすぎですって」
祐介はヘラヘラと笑いながら言った。
「イケメンとは言ってないし、褒めてもいないから。でも、愛されキャラなのは事実ね。ほとんどのチームメンバーにとって、すでに欠かせない存在になっているみたい」
祐介は得意げに肩をすくめてニヤニヤしながら、「姉ちゃん、聞いた? 俺、社内では蓮さんと双璧をなすモテ男らしいよ」とおどけてみせる。
けれど……祐介も本当は気づいているはずだ。周りの社員からの評判は確かに良いのかもしれないが、知里さんの、祐介に対する言葉にはどこか引っかかるものがある。その微妙な距離感──まるで祐介を探るような──が、彼女の本音を物語っているように感じられた。
私は話題を変えることにした。
「知里さん、今日はまだ、お仕事ですか?」
彼女は首を振り、バッグから一冊の単行本を出した。春木賢一朗のデビュー作だ。
「最近、ゆっくり読書する時間がなかったから、久しぶりに読み返そうと思って」
そのとき、彼女のスマホから着信のメロディが響いた。「ちょと失礼」と言って、彼女は電話に出る。
「
話しながら、彼女は深々と頭を下げた。
「はい、良いお返事をお待ちしております」
通話を終え、彼女はため息をつきながらスマホをテーブルに置く。その姿は、いつも冷静沈着な彼女のイメージとは少し違って見えた。
「春木賢一朗作品のドラマ化の件、ですよね?」
私が尋ねると、知里さんは軽く頷く。
「ええ、根尾頁出版の編集者、譲原さんから」
彼女は私と祐介を交互に見つめ、話を続けた。
「春木賢一朗の作品って、すごくクールな視線で描かれながら、その裏に込められた情熱がすごいの。ミステリとしての完成度も高いけれど、サブプロットにみずみずしくて切ない恋愛が絡んでいて……それがものすごく、心に響くのよ」
彼女の声には次第に熱が宿っていく。私のプロットを次々とゴミ箱に放り投げた知里さんとはとても結びつかないが、この本に対する思いを聞いているうちに、彼女はとてもロマンチストなのかもしれないと思えてきた。スマホの着信音は『虹の彼方へ』だし。
「このデビュー作はね……特に素晴らしいの」
著者が敬愛するという児童文学者の言葉が金箔であしらわれた表紙を、知里さんはそっと撫でた。その指先からは、作品に対する静かな愛おしさが自然と滲み出ているようだった。
それから彼女は、静かな決意をたたえた目で前を向き、はっきりとした声で言った。
「この作品を、必ず映像化する。絶対に、諦めたりなんてしない」