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第62話

 数日後、今度はランチタイムに祐介と待ち合わせた。


「いろいろと相談に乗ってくれたから、今日は奢るね。好きな店を選んでいいよ」と伝えると、祐介は『古美多』を指定した。仕事帰りに祐介と来たとき以来で、ランチで利用するのは初めてだった。


「いらっしゃい──あら、祐介くんのお姉さん。えっと、薫さん、だったよね」


 カウンター越しに京花さんが笑顔で声をかけてくれる。名前を覚えてくれていたのが嬉しくて、私も「こんにちは、京花さん」と微笑み返した。


 店内はほぼ満席で、カウンター席は会社員風の男女で埋め尽くされていた。祐介は二人がけの小さなテーブル席から私に向かって手を振った。


「お待たせ」


「お疲れ、姉ちゃん。ランチメニューはいくつかあるけど、京花さんが作るのに手間がかからないように、同じものでいい?」


「もちろん。今日は祐介が好きなのを選んでいいよ」


 祐介は「アジの南蛮漬け丼二つ、一つは大盛りで!」と京花さんに注文した。


 アジの南蛮漬けは私の大好物だが、祐介は昔からカツ丼派だった。私の好みに合わせてくれたのだと気づいたが、そこには触れず、彼のさりげない優しさを黙って受け取った。


 隣の席のスーツの女性が「はい、祐介くんのお連れさん」と、セルフサービスの水を持ってきてくれた。お礼を言って受け取ると、祐介も彼女に向かって「ありがとう、女神さま!」と親指を立てる。どうやら常連同士の顔なじみらしい。


 この店に来るたび、まるで家に帰ったような温かさに包まれるな……そう思って、私は自然と笑顔になった。


「それで、祐介。エルネストEPでの仕事はどう?」


 祐介はおしぼりで手を拭きながら、「控えめに言って、かなりいい会社だね」と答えた。


「ずっと観察してるんだけど、上層部に余裕があるからか、みんな誠実に仕事をしてるんだよね。いいものを作ろうって意識が自然に共有されていて、社員同士のフォローもスムーズ。職場の雰囲気も抜群だよ。何より、フリーランスの外注さんを尊重しているのが良かった」


 それから祐介は、満足げな笑みを浮かべながら続けた。


「姉ちゃんの彼氏が働いてるって聞いて、何かの縁かなと思ってあの会社を試してみたんだけど、大当たり。これでと思う。ありがとう、姉ちゃん」


 私は頷いた。「どういたしまして」


 祐介は少し間を置いてから、言葉を続ける。


「俺さ、こう見えて派遣ではそれなりに評価されてて、正社員登用の話もよくもらうんだ。でも、エルネストEPから打診されたとき、初めて素直に『嬉しい』って感じた。この会社の人たちとずっと一緒に仕事がしたいって、心から思ったんだ。ただ……」


「ただ?」


 祐介は、少し残念そうに口を開く。


「……広瀬さんだけは、俺のことあまりよく思ってないっぽいんだよね」


 私は苦笑しながら答えた。


「知里さんは勘が鋭いから、祐介の企みを嗅ぎ取ってるのかもね。でも大丈夫。あんたの内面を知れば、きっと好きになってくれるよ」


 その時、京花さんが明るい声で「お待たせっ」と言いながら丼をテーブルに置いた。甘酸っぱいタレの香りがふわりと漂い、私の食欲をそそる。


 実家でそうしていたように、私と祐介は両手を合わせて「いただきます」と声を揃えた。一口食べると、醤油と酢の絶妙なバランスに、ほんのりとしたごまと出汁の香りが重なり、驚くほど美味しい。


「で、姉ちゃんはどうするか決めた?」


 揚げたてのアジの香ばしさと、シャキシャキした玉ねぎの食感を楽しんでから、私は小さく笑って祐介を見た。


「うん。クレジットは諦めて、独立することにした」


 予想していた答えだったのだろう。祐介は驚いた様子も見せず、「それは、社員の人たちのため?」と尋ねた。


「最近ね、私が脚本を書くときに大切にしていることを、同僚に教えてるの。彼──航っていうんだけど、すごい勢いで吸収してくれて、彼の書くオリジナルドラマを見たいって思った。そっちのほうが……クレジットよりも大切かなって思うようになったの」


 それに、今回は『田舎の生活』の時のように、クレジットに他人の名前が載るわけではない。会社名が記載されるのなら、納得できるような気がした。私だって、マンサニージャの一員なのだから。


 祐介は私の話を黙って聞いていたが、ふっと柔らかく笑った。


「ヘルマン・ヘッセが言ってたよ。『しがみつくことで強くなると考える人もいるけれど、時として、人は手放すことで強くなる』って」


 祐介は、箸でアジを持ち上げながら、小さく頷いた。


「姉ちゃんはさ、手放して強くなれる人だと思う。だから、思うように行動しなよ。俺、応援してるから」


 彼の言葉がじんわりと胸に染み込んで、鼻の奥がツンと痛くなる。私は慌てて箸を持ち直し、最後のご飯を口に運んだ。


「……ありがとう、弟よ」


 その時、テーブルに小鉢が二つ置かれた。見上げると、京花さんの化粧っ気のないチャーミングな笑顔が目に入る。


「祐介くん、今週末、オーディションなんだって? はちみつレモンゼリー、サービスしちゃう」


「おお、ありがとう京花さん! はちみつで癒してレモンでヒリヒリと刺激する、この黄金比で審査員をノックアウトしてきますね!」


「祐介くんたちが有名になったら、『ねこつぐらゼリー』って名前にして、お店の看板商品にするから!」


『ねこつぐら』は、祐介と伊吹くんのコンビ名で、私たちの故郷で農閑期に作られる工芸品に由来している。


 京花さんが笑顔で去ったあと、祐介はゼリーをスプーンですくって口に運び、「うめぇ」と満足そうに呟いた。「これ、俺たちが落ちても看板メニューにしてもらわないと」


 私も一口食べる。国産レモンなのだろう、鮮やかな緑色のレモンゼストが入っていて、レモンそのものを味わっているかのような爽やかさだった。


「うん、これはいいね。今度、蓮さんと知里さんにも教えてあげよう」


 私がそう言うと、祐介は思い出したように顔を上げた。


「あ、広瀬さんといえば、さっき会社で気になることを言ってた」


「なに?」


「──広瀬さん、今度、春木賢一朗とデートするってさ」

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