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第63話

「春木賢一朗と知里さんが……デート!?」


 私は思わず声を上げ、祐介に詰め寄った。


「ちょっと、それどういうこと? ちゃんと説明してよ」


 祐介は、小鉢に残ったゼリーを口に運び、肩をすくめる。


「それ以上は知らないよ、小耳に挟んだだけ。詳しいことは、姉ちゃんが広瀬さんに直接聞けばいいじゃん」


 祐介は眉を上げ、ちょっと小憎らしい顔でにこっり笑った。本当に、それ以上のことは何も知らないのだろう。


「広瀬さん、春木賢一朗作品がドラマ化するときには姉ちゃんに頼みたいって言ってたし、こりゃビッグチャンスかもよ!」


 面白がるような笑みを浮かべた祐介の肩を、私は軽く小突いた。支払いを済ませ、京花さんの「オーディション頑張って!」という声に笑顔で応えながら店を出る。


「じゃ、広瀬さんのことは任せたから!」


 祐介は片手を挙げ、能天気に笑いながらエルネストEP社へと向かっていった。


 春木賢一朗とのデート……本当に知里さんに聞くべきだろうか。聞くにしても、どう切り出せばいいのか? 「祐介から聞いたんですけれど」なんて前置きしたら、祐介に対する警戒心を煽るだけかもしれない。


「まったく、祐介のやつ、面倒なことを押し付けて……」


 そう呟きながら、私はマンサニージャに戻った。


 クレジットを諦めて退職する意向を倉本先生に伝えた数日後、先生は新たに経験豊富なシナリオライターを二人雇い入れた。案件の増加を見込んでの増員なのだろう。制作部の負担は増えるどころか、むしろ軽くなっている様子で、私が抜ける影響はほとんどなさそうだった。それはいいことだけど、ちょっとだけ寂しい気もする。


 私自身はというと、引き継ぎ作業をほぼ終え、新しく入った社員に仕事を教えたり、友記子の業務を手伝ったり、航からの質問に答えたりと、実に穏やかな日々を過ごしていた。


「薫がいなくなっちゃうなんて、信じられないんだけど」


 顔を合わせるたび、友記子が本当に寂しそうに言う。そのたびに私は「これからも、いつでも会えるよ」と優しく声をかけ、彼女の肩を抱きしめた。




 午後ずっと考えた末、やはり知里さんに春木賢一朗のことを聞いておくべきだという結論に達した。家に着いたら、蓮さんが戻る前に彼女に連絡してみよう。


 どう切り出すかで悩んでいたけれど、その心配は杞憂に終わった。18時、私が退社するとすぐに、知里さんから着信があったのだ。


「薫、少し話せる?」


「大丈夫ですよ」と答え、近くの公園に足を向けた。ここなら落ち着いて話せそうだ。


 スマホからは、いつになく弾んだ知里さんの声が聞こえてくる。


「ちょっと信じられない話なんだけど、聞いてくれる?」


「もちろんです」


 クールな彼女にしては珍しく、高揚感が隠しきれていなかった。


「私ね……春木賢一朗を見つけたかもしれないの!」


 いきなり核心を突かれて、私は息を呑んだ。でも……「かもしれない」って言った?


「どういうことですか? 根尾頁出版の譲原さんから連絡があったんですか?」


「ふふ、もっとドラマチックな出会いよ」


 知里さんは楽しげに言葉を続けた。


 彼女の話はこうだ。一昨日、彼女はとある出版社のクリスマスパーティに参加した。そこで──彼女いわく「背が高くてセクシーで身のこなしが優雅な、30代半ばの美しい男性」に声をかけられたのだという。


 彼の名前は須賀すがはじめ。パーティ会場で会話が盛り上がり、その後二人でバーに移動して、さらに深く語り合ったらしい。


「あまりに場馴れした雰囲気だったから、最初はモデルか俳優かと思ったわ。でも、職業は作家だって言うのよ。だから筆名を聞いたの。そしたら彼、貴族みたいな笑顔を浮かべながら『筆名より、まずは僕という人間を物語だと思って楽しんでみませんか。きっと、僕の作品と同じくらい興味深いと感じてもらえるはずです』なんて言うのよ」


 一気にまくし立てたあと、知里さんは「どう? 春木賢一朗っぽくない?」と私に問いかけた。


「あの、すみません知里さん……具体的には、どのあたりが?」


 戸惑いながら私が尋ねると、知里さんは分かってないと言いたげな声音で「全部よ、全部」と言い放った。


「まず名前ね。賢一朗の『一』は彼の本名から取った可能性が高いわ。それに、知性と教養を感じさせる会話、昔のイギリス映画から抜け出してきたみたいな紳士的な振る舞い。エスプリが効いた駆け引きも、まさに春木賢一朗作品に出てきそうな感じだったのよ」


 さらに、彼女は優越感を滲ませた声で言った。


「まあ、恋愛初心者の薫にはわからないかもしれないけどね。須賀さんと春木賢一朗、私の中では違和感なく重なって見えるのよ」


「……はあ」


 曖昧な返事をしながら、私は少し安心していた。知里さんは春木賢一朗を名乗る詐欺師に騙されているわけではなく、突然現れた魅力的な作家を、自分が憧れる小説家だと思い込んでいるだけのようだった。


 それなら、私が口を出す必要はない。ここは「うまくいくといいですね」で会話を締めくくろう。


 私が口を開きかけた瞬間、知里さんがそれを遮った。


「そんなわけで薫。土曜にダブルデートでランチしましょう。彼が春木賢一朗かどうか、それから、結婚を前提に付き合う相手としてありかなしか、率直な感想を聞かせてほしいの」


「えっ?」


 驚きのあまり、スマホを落としそうになった。


「あ、薫の相手は出雲くんね。祐介くんは連れてこないでよ。彼は明るくて人気者だけど、たまに職場を冷静に観察しているようなところがあって、ちょっと信用しきれないの。今朝も、春木賢一朗とデートするって同僚と話してたら、祐介くんが『わー、たいへんだ! お茶をこぼしちゃったぞ!』って妙に熱心に机を拭き始めて、明らかに聞き耳を立ててる感じだったし……」


 そこまで言ってから、知里さんは少し申し訳なさそうに付け加えた。


「ごめんね、薫の弟の悪口みたいになっちゃって」


 私は「いいんです」と言った。祐介は、どう考えてもスパイ向きじゃないということはわかった。聞き耳を立てるなら、もう少し演技力を磨いてほしいものだ。


 それにしても……祐介に対しては鋭くて冷静で勘も働く知里さんが、須賀さんに関しては「恋は盲目」になっているようだ。どんな人なのか、会っておいてもいいかもしれない。


 私は小さく息をついてから返事をした。


「わかりました。今週の土曜のランチですね。蓮さんに聞いてみます」

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