家に帰ると、蓮さんはまだ戻っておらず、祐介が一人で夕食の準備をしていた。今日のメニューは、生姜をたっぷり使った鶏団子鍋らしい。
土曜日に、知里さんたちとランチをすることになった話をすると、祐介が目を大きく見開き、歓声を上げた。
「ええっ、姉ちゃん……春木賢一朗とダブルデートすることになったわけ!?」
彼の目は、面白くて仕方がないと言わんばかりに輝いていた。その姿はまるで、何か楽しいイベントを嗅ぎつけた大型犬のようだった。
「なんてことだ! 俺も春木賢一朗のダブルデートに参加したかった! ああ、でもその日は運命のオーディションが……!」
「オーディションがなくても、知里さんから『祐介は連れてくるな』って言われたよ。春木賢一朗の話を立ち聞きしてたのがバレバレで、警戒されてるみたいだった」
祐介の目がさらに大きく開く。今度は純粋に驚いているようだった。
「え、もしかして俺……広瀬さんに本格的に嫌われちゃった?」
彼の表情を見て、少し胸が痛んだ。根は優しい弟を傷つけたくはなかったが、彼にも非がある以上、真実を伝えるしかない。
「知里さんは鋭い人だから、あんたが会社を観察していることにも気づいてたよ。……エルネストEP社に決めたのなら、早めにオファーを受けちゃいなよ。そのほうが誤解も解けるし、スパイ容疑も晴れるでしょ」
「……会社を観察してるのはバレてないと思ったのに。ほんと、鋭いな、広瀬さん」
祐介は、おばあちゃんからもらったアメリカ土産の「Alaska」とプリントされたエプロンに目を落とし、静かに息をついた。
「──『何よりもまず、おのれに対して正直であれ』、か」
「それ、誰の言葉?」と尋ねると、彼は小さな声で「シェイクスピア」と答えた。
祐介は鍋に蓋をしてからダイニングチェアに腰掛け、頬杖をつきながらぽつりと呟いた。
「正直に言うと……姉ちゃん、俺、今、ちょっとショック受けてる」
私は祐介の隣に座り、その横顔を見つめた。
「俺にとって広瀬さんは、すごく信頼できる仕事仲間だし、会社からのオファーを受けたあとも、いい関係でいたいと思ってるんだ。だからこそ、この会社をちゃんと理解しておきたいと思って……つい、じっくり観察しちゃった」
彼の声には、誠実さが滲んでいた。
「広瀬さんってさ、厳しいし愛想もないし毒舌だしたまに鬼だけど、俺みたいな派遣もフリーランスの外部クリエイターも、もちろん社員も、みんな平等に大切に扱う人だよね。だから尊敬してるし、俺も……そんな広瀬さんに仲間として信頼されたい」
「わかるよ」と、私は頷いた。
「まだ派遣で入ってそんなに経ってないけれど、みんな信頼できる仲間だし、あの会社の人たちと働くのが好きなんだよね。だからこそ、オファーを受けた後も、ちゃんと認めてもらえるように頑張りたい」
祐介は気を取り直したように立ち上がり、手を叩いて明るい声を上げた。
「よし、とりあえずオファーの返事は週末のオーディションが終わってからするよ。正直、稽古は全然できてないし、お笑い芸人の夢はここまでかなって思ってる。でも、伊吹にはシルベストレ製菓があるし、俺にはエルネストEP社からのオファーがある。解散しても、それぞれの道を行けばきっと大丈夫!」
いつもの明るい笑顔を浮かべる祐介を見て、私は安心した。彼なりに気持ちを整理して、前向きになれたのだろう。
「祐介、姉ちゃんも応援してるからね」
私はそう言って、祐介の肩を軽く叩いた。
そして、土曜日がやってきた。
さすがの祐介も、今日は少し緊張した面持ちで、オーディションの時間よりずっと早く家を出ていった。伊吹くんと待ち合わせて、公園で稽古の仕上げをするらしい。
一方、私と蓮さんは、知里さんたちとのダブルデートに向けて準備をしていた。
実を言うと、私は内心かなり浮かれていた。その理由はシンプルで、久しぶりに蓮さんと出かけられるから。マンサニージャに新しい社員が入るまでは残業と休日出勤が続いていたので、デートする余裕すらなかったのだ。
少し早めに家を出た私たちは、待ち合わせ場所近くの公園に立ち寄った。
私の故郷とは違い、東京では冬でも手漕ぎボートが営業している。上京してから、「いつか恋人ができたら一緒に乗ってみたい」と密かに願っていたささやかな夢を──時間はかかったけれど、蓮さんというこれ以上望めないほど素敵な人と叶えられたことが、本当に特別に思えた。
「気をつけて」
蓮さんがさり気なく手を取って、私をボートに座らせてくれる。その優しさが嬉しくて、でも手袋が邪魔をして彼の手の温もりを感じられないのが、ほんの少しだけもどかしかった。
私たちは向かい合って座り、目が合うたびに照れ笑いを浮かべ、恥ずかしさでどちらからともなく目をそらした。──こういう「照れ」も含めて憧れていたはずなのに、想像以上に恥ずかしくて、胸が甘くくすぐられるようだった。
蓮さんが漕ぐボートは、静かな水面をゆっくりと進んでいく。薄い銀色の光を湛えた池は、凍えるほど透き通っていて、冷たいガラスのように輝いていた。
「寒くない?」
蓮さんが尋ねる。その声は思いやりに満ちていて、それだけで私の心は少し温かくなる。でも……。
「少し、寒いかも」
バランスを崩さないように注意しながら、そっと彼の方へ近づいた。蓮さんは迷うことなく自分のカシミヤのマフラーを外し、私の首にふんわりと巻いてくれた。その瞬間、急に蓮さんの温もりに包まれて、胸が高鳴るのを感じた。
「まだ寒い?」
マフラーの両端を優しく持ちながら、蓮さんが微笑む。目の前にいる彼の優しい顔を見ていると、その胸に飛び込んでしまいたい衝動が湧き上がったけれど、もちろんそんなことはできない。転覆するかもしれないし。
微笑み返しながら「ありがとう。もう大丈夫」と答えると、蓮さんは安心したように、マフラーの端を整えてくれた。
「蓮さん、話があるの」
マフラーの温もりに背中を押されるように、私は意を決して口を開いた。そして、独立することと、『記憶の片隅にいつもいて』のクレジットが会社名義になることを彼に伝えた。
蓮さんは何も言わず、ただ静かに私を見つめながら耳を傾けてくれた。
「……最初は納得できなかった。でも、祐介に相談しているうちに気持ちが整理されて、今ではそれが一番いい選択だと信じてる。これが、私の正直な気持ちです」
話し終えると、蓮さんは小さく息をつき、静かに言葉を紡いだ。
「この間、珍しく落ち込んでいたときの話だよね。──祐介くんに相談して、薫は倉本先生の提案を受け入れようと決心したの?」
私は少し考えてから訂正した。
「ニュアンス的には、私がベストだと思う方法が、祐介と話しているうちに引き出された、って感じかな。祐介とは昔から、そうやってお互いに相談相手になってきたの」
「……そうなんだ」
蓮さんは目を伏せて、何か思い巡らせるような表情を浮かべた。その様子に少しだけ違和感を覚えた私は、彼の顔を覗き込むようにして尋ねた。
「もしかして、クレジットを諦めない方がよかったと思ってる?」
蓮さんは小さく笑いながら首を横に振った。その笑みには、少しだけ自嘲の色が混ざっていた。
「そんなことないよ。──僕としては薫の名前を入れたいけれど、倉本さんの言う通り、会社が傾く可能性はゼロではないからね。薫がそれを望まないということはわかってる」
そう言いながら蓮さんは静かに手袋を外し、私の髪にそっと触れた。指先が髪をなぞるように動くと、呼吸が乱れそうになる。
「君が決めたことなら、僕はそれを尊重する。『ときに人は、手放すことで強くなれる』──そんな言葉もあるからね」
その言葉に、思わず笑みがこぼれた。
「祐介も、まったく同じことを言ってた。ヘルマン・ヘッセだよね?」
髪を撫でていた蓮さんの指が止まった。それから小さく頷いて、少しためらいがちに口を開いた。
「ねぇ、薫。たまには祐介くんじゃなくて、僕に──」
その時、不意に、岸辺で小さな女の子が大声で泣き出した。
何事かと目を向けると、どうやら風船を手放してしまったらしい。風船は葉を落とした桜の枝に引っかかり、頼りなげに冬の風に揺れている。
蓮さんは目を細めて枝を見つめ、呟いた。
「あの高さなら取れそうだ。岸に戻ってみよう」