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第65話

 ボートを返却して、私たちは池畔沿いの道を少し急ぎ足で歩く。泣き叫ぶ女の子とその母親の姿が見えたちょうどそのとき、彼らに歩み寄る一人の男性が目に入った。


 黒いロングコートを纏った背の高い男性は、まるでランウェイを歩くモデルのように、周囲の視線を惹きつけていた。上質なウールで仕立てられたコートが、一歩踏み出すたびにさりげなく光を反射して、深い青みを帯びた陰影を描き出している。そして風に揺れるマフラーは、彼の落ち着いた歩調を優雅な動きで彩っていた。


 シャープなフェイスラインと切れ長の瞳が印象的なその顔立ちは、美しさとミステリアスな雰囲気が絶妙なバランスで調和して、知的な色気を漂わせている。まるで……自分の魅力を心得た上で、それを余裕たっぷりに楽しんでいるみたいだ。


 彼は子どもの前で膝を軽く曲げ、「ちょっと待ってて」と声をかけてから、視線を枝の方へ向けた。


 動きやすいようにコートの裾を整えてから、一歩下がって軽やかにジャンプする。伸ばした長い指が風船の紐を絡め取った瞬間、男性に目を奪われていたギャラリーから小さな歓声が漏れた。


 風船を受け取った子どもはそれをしっかりと抱きしめ、母親が頭を下げて感謝を伝える。男性は片手を挙げて笑顔でそれを制し、コートの襟を整えながら、マフラーをふわりと巻き直した。


 その一連の動きがあまりにも優雅で、まるで映画のワンシーンを見ているような気分だった。手元にポップコーンがないのが物足りないくらいだ。私は蓮さんの方を見て「かっこよかったね!」と言った。


「うん。まるで俳優さんみたいだね」


 蓮さんも同意する。その言葉が聞こえたのか、男性がこちらを振り返り、柔らかな微笑みを向けた。


「ありがとう。君みたいな素敵な女性に褒められるなんて、光栄だな」


 思わぬ返答に一瞬戸惑うと、男性は口元に笑みを残したまま、わずかに首を傾けて私を見つめた。


「そんな驚いた顔をするなんて。こんなに綺麗な子なら、褒められることには慣れてると思ったけどね」


 余裕たっぷりの物言いに言葉を返せずにいると、男性の長い指が私の髪に伸びてきた。


「な、なに?」


 思わず身を引きそうになると、彼は「じっとしてて」と微笑みながら、私の髪を一房持ち上げた。乾いた小さな音がして、彼は指先に摘まれた枯れ葉を私に見せた。


「髪についていたよ」


「あ、ありがとう……」


「いや、こちらこそ。この枯れ葉のおかげで、君の髪に触れる理由ができたんだから」


 ……生身の人間で、本当にこんなセリフを言う人が実在するんだ。


 彼の飄々とした物言いに、私は軽く現実感を失いかける。そのとき、視界の端で蓮さんが一歩前に進み出るのが見えた。


「気づいていただいて、ありがとうございます」


 その声は穏やかで礼儀正しかったが、微かに張り詰めた響きを含んでいた。見ると、蓮さんは静かに微笑んでいるものの、その瞳にはどこか挑むような光が宿っている。


 ──これ、ビジネスモードの蓮さんだ。……いや、それよりもさらに好戦的かも。


 蓮さんは微笑みを崩さず、柔らかいトーンで牽制するように続けた。


「次からは、僕が気をつけますので」


 男性は蓮さんの反応を楽しむように肩をすくめ、指先で枯れ葉をくるくると回した。


「そんなに怖い顔をしないで。ほら、他人の目を通して彼女の魅力を再確認するのも、悪いことじゃないだろう?」


 そしていたずらっぽく目を細めると、軽やかにコートを翻し、「それじゃ」と笑顔を残して去っていった。


 ──なんだか、ドラマのキャラクターとして使えそう。


 私はバッグから手帳を取り出し、さっきの男性の特徴を急いで書き留める。2ページにわたってぎっしり書き込んでから顔を上げると、蓮さんがわずかに眉を上げながらこちらを見ていた。


「……ふぅん。薫、あの人に興味を引かれたんだ」


 彼の口調は穏やかだったが、どこか拗ねたニュアンスが混ざっている。私は慌てて首を振った。


「あの人が素敵だったからじゃなくて、キャラクターとして面白そうだったから、メモしたんだよ?」


 蓮さんは小さく笑い、「わかってるよ」と言った。そして私の背中にそっと手を添え、優しく促す。


「そろそろ行こうか」


 そういえば、さっき蓮さんが話を途中でやめたことを思い出し、私は声をかけた。


「蓮さん、ボートの上で何か言おうとしてたよね?」


 彼は一瞬足を止め、それから微かに視線を伏せた。


「……いや、いいんだ」


 少し寂しげな笑みを浮かべる蓮さんに、それ以上は聞けなかった。でも、なんだろう。ちょっとだけ違和感が残る。




 待ち合わせ時間が迫っていたので、私たちは知里さんが指定した、静かな路地裏に佇むビストロへと向かった。


 石造りの壁につたが絡まる一軒家風の店。ドアには手書きで「OPEN」と書かれた小さな看板が掛けられていて、素朴で温かい雰囲気を醸し出している。ドアを開けると、バターやハーブ、スパイスの香りに、グリルされた肉の芳ばしい匂いが混ざり合い、心地よく鼻腔をくすぐった。


 店内を見回すと、オープンキッチンの横にある4人がけの席で、知里さんがこちらに向かって手を挙げているのが見えた。


「知里さん」


 コートをハンガーに掛けて、私たちは知里さんのテーブルへ向かう。


「ボートに乗ってたら、時間ギリギリになっちゃいました。すみません」


「あなたたち、この寒空の下でボートに乗ってたの? まったく、ロマンチックもここまで来ると感心するわね」


 知里さんが唇の端を上げてからかうように微笑むと、蓮さんはちょっと照れたように私の方を見てから、穏やかに言った。


「少なくとも、僕はとても楽しめたよ」


「私も」


 私たちのやりとりを聞きながら、知里さんは苦笑いを浮かべて首を振った。


「聞いているだけで糖分過多になりそう。デザートはいらないわね」


 そのとき、彼女の前に伏せられた1冊の本に気がついた。今日は春木賢一朗作品ではなく、甘酸っぱいピュアキュン物語ストーリーで絶大な人気を誇る作家、雛野あさひの『恋に免許はいりません』だった。


 ──知里さんが、ピュアキュン小説?


 ギャップが大きすぎて、頭の中でうまく結びつかない。私の戸惑いの視線に気づいた知里さんは、一瞬ぎくりとした表情を見せると、急いで本を手に取り、バッグの中へと隠した。


 いやいや待って、知里さん。もしかして……須賀さんのこと、もうかなり好きになっちゃってるの?


「……それで、例の須賀さんは?」


 私が恐る恐る尋ねると同時に、知里さんの視線がふと私の背後へと逸れた。


 次の瞬間、私は見てしまった。いつも冷静で理性的な彼女の瞳が、驚くほど甘い光を帯び──まるで薄紅のバラが花開くように、彼女の美しい顔に輝くような笑顔が咲き誇るのを。


「須賀くん! こっちよ!」


 振り返ると、入口で黒いコートを脱ぐ男性と目が合った。


 シャープなフェイスラインに切れ長の瞳。高く整った鼻筋に、さりげない色気が漂う唇──堂々とした立ち振る舞いと洗練された仕草は、店の中でも彼の存在感を際立たせていた。


 ──さっきの男性だ。


 彼は私たちに気づくと、一瞬驚いたように眉を上げ、それから余裕のある微笑みを浮かべた。


「やあ、またお会いできるなんて、うれしいよ」


 私は知里さんに、さっき公園で彼に会ったことを伝えた。須賀さんは、知里さんの前の椅子に腰を下ろし、頬杖をついて、甘く神秘的な笑みを浮かべる。


「広瀬さんのご友人だったなんて……これも運命のいたずらかな?」


「ふふ、運命だなんて大げさね。でも、そう言われて悪い気はしないわ」


 その弾んだ声に、私はそっと彼女の横顔を覗き見る。そこには、これまで見たこともないほど夢見心地の表情で須賀さんを見つめる知里さんがいた。


 数日前に彼女から言われた言葉が、ふと脳裏をよぎる。


 ──彼が春木賢一朗かどうか、それから、結婚を前提に付き合う相手としてありかなしか、率直な感想を聞かせてほしいの。


 知里さん、ごめんなさい。率直に言うと……どっちもノーだと思います。

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