食事が始まってしばらく経ってからも、私は心の中でずっと問い続けていた。
──ダブルデートって、こういうものだっけ?
これまでも、カップルを含む友人たちと食事をしたことは何度もあった。でも、そのときはみんなで笑い合い、和やかに過ごしていたはずだ。ところが……今日の空気はまるで違っていた。
「あなたの目標は春木賢一朗の作品を映像化することなんですね。……でも、どうしてだろう。あなたの口からほかの男の名前が出るたびに、僕は少し心穏やかでいられなくなる」
「ふふ、そんなことを言って、私をからかって楽しんでるんでしょう? もしあなたが春木賢一朗だとしたら、私はあなたの手のひらで踊らされているコマね。でも、今日くらいは特別に踊ってあげてもいいわ」
「それは感謝しなくては。あなたが踊る姿をこんな特等席で楽しめるなんて、贅沢なひとときですね」
二人のやり取りについていけず、私は横に座る蓮さんの顔をそっとうかがった。蓮さんも私に視線を返し、礼儀正しい微笑みを浮かべて小首をかしげる。その表情はまるで「この会話、どこに向かっているんだろうね」と問いかけているようだった。
これは──ダブルデートというより、バーカウンターで繰り広げられる大人の駆け引きの観察会だ。
料理が一段落したころ、知里さんのスマホが軽く振動した。彼女は画面を確認すると「広告代理店から。ちょっと失礼するわ」と言い残して席を立つ。テーブルには、私たち三人だけが残された。
須賀さんは、ワイングラスのフットに指を添え、ゆっくりと回した。それに合わせて、中のメルローがグラスの内側に艶やかな軌跡を描く。──本当に、エレガンスという言葉を体現しているような人だ。
私は思い切って、祐介にこのデートの話を聞いてから心に抱いていた疑問を、彼に投げかけてみた。
「須賀さん、どうして……自分は春木賢一朗じゃないって、知里さんに伝えないんですか?」
須賀さんはグラスから視線を上げ、柔らかな微笑みを浮かべながら私を見つめた。
「君こそ、どうして僕が春木賢一朗じゃないと断言できるんだい?」
「それは……」
私は言葉に詰まった。彼は楽しげに微笑むと、ワインを一口含んで言葉を続けた。
「僕は、否定も肯定もしていないだけなんだ。君は素直でまっすぐな女性のようだけれど、世の中には白黒はっきりさせられないことも多い。曖昧な余白を楽しむのも、大人の余裕だと思わないかい?」
──春木作品に出てきたセリフだ。少なくとも、彼は春木作品を熟読しているらしい。
そのとき、蓮さんがゆったりとした笑顔を浮かべながら口を開いた。
「須賀さん、大人ならではの独自の価値観をお持ちのようですね」
蓮さんはリラックスした動作で両手を軽く伸ばし、テーブルの上で静かに組んだ。
「もし座右の銘がありましたら、ぜひ伺いたいのですが」
その語り口は冷静で余裕に満ち、どこか挑戦的なニュアンスも含んでいた。そんな連さんに、私は思わず目を奪われる。いつもの穏やかな蓮さんも素敵だけれど、ビジネスモード寄りの、少し強気な蓮さんもまた魅力的だ。
須賀さんは少し考える素振りを見せ、さらりと答えた。
「そうだね『自分を愛することは、一生続くロマンスの始まりである』かな」
蓮さんは軽く頷き、穏やかな笑みを浮かべながら言葉を返す。
「オスカー・ワイルドですね。須賀さんらしい詩的な
須賀さんの表情に、ほんの一瞬、驚きが走る。そして私も……思わず息をのんだ。
「春木賢一朗の作品には、小説の内容に関係なく、必ず記されている言葉がありますよね」
須賀さんは黙っている。私は喉が渇いて、水を一口含んだ。
──蓮さん、そんなことにまで気づいていたんだ。
「それは、マーク・トウェインの言葉です。デビュー作にはタイポグラフィックの箔押しで、2作目以降ではカバーを外した本体表紙に筆記体で印刷されています。誰も気づかないような場所に同じ言葉を刻み続けているということは、それが彼にとって、特別な意味を持つ言葉であると僕は思うのですが」
須賀さんはわずかに笑った。
「僕は海外の児童文学が好きでね。マーク・トウェインもオスカー・ワイルドも、どちらも僕にとって特別な存在なんだ」
蓮さんは微笑みを浮かべたまま、言葉を継いだ。
「そういえば、春木氏がデビューして間もない頃に、料理雑誌にエッセイを寄せていましたね。実家のカレーが好きだと書かれていたのを覚えています。レシピも掲載されていましたが、仕上げに欠かせない自家製調味料があるとか。それって……何でしたっけ?」
須賀さんの目がわずかに泳ぐ。私も口には出さなかったが、心の中で、蓮さんの言葉に首を傾げた。……好きな料理が、カレー? どうして?
「ええと……自家製調味料といえば、味噌かな?」
「ええ、確かにそうでした」と、蓮さんが満足げに微笑む。その笑顔があまりにも魅力的で、私は一瞬、その笑顔を向けられた須賀さんに嫉妬してまった。
須賀さんが得意げに肩をすくめる。
「ずっと慣れ親しんできた実家の味だからね。さすがに間違えることはないよ」
蓮さんは穏やかな表情のまま、小さく首を振った。
「ああ、失礼。僕のほうが間違えていました。カレーはむしろ、春木氏が苦手だと書いていたメニューでした」
須賀さんの顔に動揺の色が浮かび、それから蓮さんを睨みつけた。