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第67話

「須賀さん」


 蓮さんは冷静な声で言葉を続けた。


「広瀬さんのプライベートな交際に口を挟むつもりはありません。ただ、彼女には春木氏のデビュー作をドラマ化したいという強い情熱があります。あなたに対する誤解が続くことで、その夢が遠のくのではと心配しているんです」


 須賀さんは軽く首を振り、蓮さんに向けてゆっくりと微笑んだ。その表情にはどこか色気が漂い、これが彼の「とっておき」の笑顔なのだろうと私は思った。


 ──この人も、このシチュエーションも、まるでドラマのネタの宝庫だ。今すぐ手帳を開いてメモしたい!


 私は誘惑に勝てず、膝の上にこっそりと手帳を広げる。そして、視線は須賀さんに向けたまま、ペンを走らせ始めた。


「出雲くんは、曖昧なまま放っておくのが苦手な性格なのかな? 君はきっとモテるだろうけど、飽きられるのも早そうだ」


 須賀さんは年上の余裕を見せつけるように足を組み、言葉を続ける。


「申し訳ないけれど、君の恋人も、さっきから僕の一挙一動に釘付けのようだよ」


 蓮さんはちらっと私に──そして私の膝の上の手帳に──目をやると、小さく笑みを浮かべた。


「……確かに、そのようですね」


 その返事を都合よく解釈した須賀さんは、さっきの魅惑的な笑みを、今度は私に向けてきた。確かに、大人の余裕に満ちた美しい笑顔だ。


「薫くん、僕の周りには洗練された大人の女性が多いから、君みたいなタイプと付き合うのはどんな感じなのか、ちょっと興味があるな。どうだい? 僕なら、もっと心躍るような恋愛を経験させてあげられるし、記念日には君が望む限りのジュエリーをプレゼントする。それが僕のスタイルだからね」


 蓮さんが誤解していないのはわかっている。それでも須賀さんに、私が彼を魅力的だと思ってると、誤解されたままなのは悔しい。


 私は須賀さんをまっすぐ見て答えた。


「私は蓮さんにしかドキドキしないし、贈られてうれしいのはジュエリーよりも、アンセル・アダムスの写真集なんです」


 須賀さんの笑顔がすっと消え、今度は私を観察するように見つめた。


「星空を見上げていて、街灯に目がいかないのと同じです。私には蓮さんしか見えないし、生涯の恋人も、蓮さんだけで十分です」


 隣の連さんが小さく動く気配を感じ、そちらを見る。彼は片手で顔を覆い隠しながら、反対側に顔をそらしていた。耳まで赤く染まっている。


「……なるほど」


 怒り出すかもと思ったけれど、須賀さんは静かに、だけど興味深げな目で私を見つめる。その視線には、まるで面白い題材を発見したかのような好奇心が垣間見えた。


 静かな空気を破るように、軽やかな足音が近づいてきた。


「お待たせ。少し時間がかかっちゃったわ」


 知里さんは椅子に腰を下ろし、柔らかな笑顔を浮かべながら言った。


「それで、何の話をしていたの?」


 須賀さんはさっきまでのミステリアスな笑顔を浮かべ、さらりと答える。


「春木作品について、彼らの意見を伺っていたんですよ」


 またしても、自分が春木賢一朗だと誤解されてもおかしくない言い回しだ。


 知里さんがふと時計を見て、言った。


「そろそろ行きましょうか。須賀くん、この後も時間は大丈夫?」


「もちろん。もし飲み足りないなら、特別に僕の行きつけの隠れ家バーにお連れしますよ」


「まあ、魅力的な提案ね。案内役があなたなら、期待してしまうわ」


 会計を済ませ、私たちは店の外へ出た。


「あ、出雲くん、ちょっとだけ仕事の話をしてもいい? さっきの電話なんだけど……」


 知里さんと蓮さんが話し始めると、須賀さんはさり気なく私の隣に歩み寄り、小声で尋ねた。


「薫くん、君、口は固い方?」


「……固いですけど」


 須賀さんはジャケットの内ポケットから名刺を一枚取り出し、長い指で挟んで私に差し出した。


「君に頼みたいことがある。近いうち……できれば早めに、連絡をくれないか」


 訝しみながら須賀さんを見上げると、その視線は真剣そのものだった。下心があるようには見えない。


「さっきはすまなかった。変な意味はない。広瀬さんたちには言わずに……連絡がほしい」


 それでも受け取るのをためらう私を見て、須賀さんは名刺を私のバッグにそっと滑り込ませた。そして、小さな声で「待ってる」とだけ言い、踵を返した。




 知里さんたちと別れたあと、蓮さんが「もう少し散歩しようか」と提案してくれた。私たちは再び公園へと向かう。


 恋人とボートに乗るという夢は、今日叶った。でも、もう一つだけ願いを叶えてもらったら……贅沢すぎるだろうか。


「連さん」


 思い切って、声をかけてみる。


「私……恋人ができたら、してみたかったことがあるの」


「なに?」


 優しい笑顔で、蓮さんが答える。


「……手を繋いで、歩きたいです」


 私がそう言うと、蓮さんはわずかに目を見開き、それから静かに微笑んだ。手袋を外すと、彼の大きくて温かな手が、私の手をそっと包みこむ。熱が、指先から体中に広がっていくのがわかった。


「……俺のしたいことも、叶えてくれる?」


 低く柔らかな声が耳に響いた。顔を上げると、蓮さんの目がまっすぐに私を捉えていた。


 ──蓮さん、「俺」って言った。


 周りを素早く見回し、誰もいないことを確認すると、彼は視線を少し伏せて、私の顔にそっと近づいてきた。優しく触れるだけのキス。それはまるで一瞬の夢のように、甘く儚い感触だけを残して離れていった。


 でも、それで終わりではなかった。蓮さんはもう一度唇を重ね、今度は私の下唇を軽く甘噛みしながら、ゆっくりと時間をかけて離れてゆく。


 胸の鼓動が速くなるのを感じた。恥ずかしさに蓮さんの顔を直視できず俯いていると、彼の小さな声が耳元に届いた。


「さっき、嬉しかった」


 繋いでいない方の手が、そっと私の髪を撫でる。


「ずっと、君の星でいられるように……頑張るよ」


 深い色をした瞳に吸い込まれるように、私は顔を上げる。彼の指が触れるたび、心の奥に小さな灯火がともるような気がした。


 ゆっくりと手を伸ばし、彼の頬にそっと触れてみる。


「頑張らなくても、連さんのままでいてくれるだけで、それが一番うれしい」


 蓮さんの顔に、穏やかな微笑みが広がる。私たちの間に流れる静かな空気が、何よりも愛しく感じられた。


「ねえ、薫」


 しばらくして、蓮さんがゆっくりと口を開いた。


「明日は日曜だし……このまま新幹線に乗って、熱海か伊豆の温泉に行かない?」


 思いがけない提案に驚き、私は蓮さんを見つめる。


「スウィートルームならどこかしら空きはあるだろうし、必要なものは現地で揃えればいい。……どうかな?」


 なんて魅力的なお誘いだろう。蓮さんの期待を込めた眼差しに、胸が高鳴った。二つ返事で新幹線駅へ直行したい気持ちが胸をよぎる。


「……だめ?」


 期待と不安が入り混じった蓮さんの声が、私の心を甘く揺さぶった。だめなわけない。


「うれしい」と答えようとしたその瞬間、ポケットのスマホが無情にも振動した。連続するメッセージの通知音に、私は一瞬だけ現実へと引き戻される。


「ちょっとごめんね」と蓮さんに断りを入れ、スマホを取り出して画面を見た。 画面には祐介の喜びが溢れる文字が並んでいた。


 ──姉ちゃん、信じられるか!?

 ──ねこつぐら、合格!!!!!

 ──オーディション突破!!!

 ──古美多で祝賀会やろうぜ!

 ──17時に集合な!

 ──もちろん、蓮さんも連れてきてくれよ!


 祐介……せめて明日にしてくれればよかったのに。

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