「須賀さん」
蓮さんは冷静な声で言葉を続けた。
「広瀬さんのプライベートな交際に口を挟むつもりはありません。ただ、彼女には春木氏のデビュー作をドラマ化したいという強い情熱があります。あなたに対する誤解が続くことで、その夢が遠のくのではと心配しているんです」
須賀さんは軽く首を振り、蓮さんに向けてゆっくりと微笑んだ。その表情にはどこか色気が漂い、これが彼の「とっておき」の笑顔なのだろうと私は思った。
──この人も、このシチュエーションも、まるでドラマのネタの宝庫だ。今すぐ手帳を開いてメモしたい!
私は誘惑に勝てず、膝の上にこっそりと手帳を広げる。そして、視線は須賀さんに向けたまま、ペンを走らせ始めた。
「出雲くんは、曖昧なまま放っておくのが苦手な性格なのかな? 君はきっとモテるだろうけど、飽きられるのも早そうだ」
須賀さんは年上の余裕を見せつけるように足を組み、言葉を続ける。
「申し訳ないけれど、君の恋人も、さっきから僕の一挙一動に釘付けのようだよ」
蓮さんはちらっと私に──そして私の膝の上の手帳に──目をやると、小さく笑みを浮かべた。
「……確かに、そのようですね」
その返事を都合よく解釈した須賀さんは、さっきの魅惑的な笑みを、今度は私に向けてきた。確かに、大人の余裕に満ちた美しい笑顔だ。
「薫くん、僕の周りには洗練された大人の女性が多いから、君みたいなタイプと付き合うのはどんな感じなのか、ちょっと興味があるな。どうだい? 僕なら、もっと心躍るような恋愛を経験させてあげられるし、記念日には君が望む限りのジュエリーをプレゼントする。それが僕のスタイルだからね」
蓮さんが誤解していないのはわかっている。それでも須賀さんに、私が彼を魅力的だと思ってると、誤解されたままなのは悔しい。
私は須賀さんをまっすぐ見て答えた。
「私は蓮さんにしかドキドキしないし、贈られてうれしいのはジュエリーよりも、アンセル・アダムスの写真集なんです」
須賀さんの笑顔がすっと消え、今度は私を観察するように見つめた。
「星空を見上げていて、街灯に目がいかないのと同じです。私には蓮さんしか見えないし、生涯の恋人も、蓮さんだけで十分です」
隣の連さんが小さく動く気配を感じ、そちらを見る。彼は片手で顔を覆い隠しながら、反対側に顔をそらしていた。耳まで赤く染まっている。
「……なるほど」
怒り出すかもと思ったけれど、須賀さんは静かに、だけど興味深げな目で私を見つめる。その視線には、まるで面白い題材を発見したかのような好奇心が垣間見えた。
静かな空気を破るように、軽やかな足音が近づいてきた。
「お待たせ。少し時間がかかっちゃったわ」
知里さんは椅子に腰を下ろし、柔らかな笑顔を浮かべながら言った。
「それで、何の話をしていたの?」
須賀さんはさっきまでのミステリアスな笑顔を浮かべ、さらりと答える。
「春木作品について、彼らの意見を伺っていたんですよ」
またしても、自分が春木賢一朗だと誤解されてもおかしくない言い回しだ。
知里さんがふと時計を見て、言った。
「そろそろ行きましょうか。須賀くん、この後も時間は大丈夫?」
「もちろん。もし飲み足りないなら、特別に僕の行きつけの隠れ家バーにお連れしますよ」
「まあ、魅力的な提案ね。案内役があなたなら、期待してしまうわ」
会計を済ませ、私たちは店の外へ出た。
「あ、出雲くん、ちょっとだけ仕事の話をしてもいい? さっきの電話なんだけど……」
知里さんと蓮さんが話し始めると、須賀さんはさり気なく私の隣に歩み寄り、小声で尋ねた。
「薫くん、君、口は固い方?」
「……固いですけど」
須賀さんはジャケットの内ポケットから名刺を一枚取り出し、長い指で挟んで私に差し出した。
「君に頼みたいことがある。近いうち……できれば早めに、連絡をくれないか」
訝しみながら須賀さんを見上げると、その視線は真剣そのものだった。下心があるようには見えない。
「さっきはすまなかった。変な意味はない。広瀬さんたちには言わずに……連絡がほしい」
それでも受け取るのをためらう私を見て、須賀さんは名刺を私のバッグにそっと滑り込ませた。そして、小さな声で「待ってる」とだけ言い、踵を返した。
知里さんたちと別れたあと、蓮さんが「もう少し散歩しようか」と提案してくれた。私たちは再び公園へと向かう。
恋人とボートに乗るという夢は、今日叶った。でも、もう一つだけ願いを叶えてもらったら……贅沢すぎるだろうか。
「連さん」
思い切って、声をかけてみる。
「私……恋人ができたら、してみたかったことがあるの」
「なに?」
優しい笑顔で、蓮さんが答える。
「……手を繋いで、歩きたいです」
私がそう言うと、蓮さんはわずかに目を見開き、それから静かに微笑んだ。手袋を外すと、彼の大きくて温かな手が、私の手をそっと包みこむ。熱が、指先から体中に広がっていくのがわかった。
「……俺のしたいことも、叶えてくれる?」
低く柔らかな声が耳に響いた。顔を上げると、蓮さんの目がまっすぐに私を捉えていた。
──蓮さん、「俺」って言った。
周りを素早く見回し、誰もいないことを確認すると、彼は視線を少し伏せて、私の顔にそっと近づいてきた。優しく触れるだけのキス。それはまるで一瞬の夢のように、甘く儚い感触だけを残して離れていった。
でも、それで終わりではなかった。蓮さんはもう一度唇を重ね、今度は私の下唇を軽く甘噛みしながら、ゆっくりと時間をかけて離れてゆく。
胸の鼓動が速くなるのを感じた。恥ずかしさに蓮さんの顔を直視できず俯いていると、彼の小さな声が耳元に届いた。
「さっき、嬉しかった」
繋いでいない方の手が、そっと私の髪を撫でる。
「ずっと、君の星でいられるように……頑張るよ」
深い色をした瞳に吸い込まれるように、私は顔を上げる。彼の指が触れるたび、心の奥に小さな灯火がともるような気がした。
ゆっくりと手を伸ばし、彼の頬にそっと触れてみる。
「頑張らなくても、連さんのままでいてくれるだけで、それが一番うれしい」
蓮さんの顔に、穏やかな微笑みが広がる。私たちの間に流れる静かな空気が、何よりも愛しく感じられた。
「ねえ、薫」
しばらくして、蓮さんがゆっくりと口を開いた。
「明日は日曜だし……このまま新幹線に乗って、熱海か伊豆の温泉に行かない?」
思いがけない提案に驚き、私は蓮さんを見つめる。
「スウィートルームならどこかしら空きはあるだろうし、必要なものは現地で揃えればいい。……どうかな?」
なんて魅力的なお誘いだろう。蓮さんの期待を込めた眼差しに、胸が高鳴った。二つ返事で新幹線駅へ直行したい気持ちが胸をよぎる。
「……だめ?」
期待と不安が入り混じった蓮さんの声が、私の心を甘く揺さぶった。だめなわけない。
「うれしい」と答えようとしたその瞬間、ポケットのスマホが無情にも振動した。連続するメッセージの通知音に、私は一瞬だけ現実へと引き戻される。
「ちょっとごめんね」と蓮さんに断りを入れ、スマホを取り出して画面を見た。 画面には祐介の喜びが溢れる文字が並んでいた。
──姉ちゃん、信じられるか!?
──ねこつぐら、合格!!!!!
──オーディション突破!!!
──古美多で祝賀会やろうぜ!
──17時に集合な!
──もちろん、蓮さんも連れてきてくれよ!
祐介……せめて明日にしてくれればよかったのに。