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第69話

 クリスマスイブを翌日に控えた夕暮れの街は、どこか浮かれたような賑やかさに満ちていた。その喧騒から逃れるように、私と祐介は、指定されたミーティングルーム付きの喫茶店へと足を踏み入れた。


 私は気が重かったが、祐介はむしろご機嫌だ。……少なくとも祐介が楽しそうでよかった。付き添いで来てもらっているのだから、楽しんでもらえてありがたいと思わなければ。


 オーセンティックな給仕服に身を包んだスタッフに案内され、店の奥へと進む。ミーティングルームのドアをノックすると、中から「どうぞ」とよく通る声が響いた。


 ドアを開けると、窓際に立つ長身の男性がシルエットとなって浮かび上がった。その影が、ゆっくりとこちらへ歩み寄ってくる。


「やあ、来てくれて光栄だよ」


 ミステリアスな切れ長の目、シャープなフェイスライン、よく通った鼻筋と魅惑的な唇。その整った顔立ちをさらに際立たせているのは、細いストライプの入ったダークネイビーのスリーピーススーツだ。バーガンディの織り柄タイと、同色のパフドスタイルのポケットチーフが、遊び心のあるエレガントさを添えていた。


 隣で祐介が「うわっ」と感嘆の声を漏らす。


「はじめまして、須賀さんですよね! なんか……ヨーロッパ映画に出てくる俳優さんみたいな方で、思わず声が出ちゃいました!」


 須賀さんは口元に笑みを浮かべながら、祐介に視線を向ける。


「君が、薫くんの弟、祐介くんだね。お姉さんとは違って、素直でいい青年のようだ」


 その言葉に、私は思わずムッとする。姑息な手段を使って私に連絡させてきたくせに、よくそんなことが言えたものだ。


 あの日、ねこつぐら祝賀会を終えて帰宅した私は、手帳を取り出そうとエディターズバッグに手を突っ込んだ。そのとき、指先に冷たい金属が触れた。取り出してみると、それは金色のリングに通された須賀さんの名刺だった。


 リングの裏側には「24K」の刻印がある。……万が一本物の金だとしたら無視するわけにもいかないし、かといって知里さん経由で返すと、モノがモノなだけに誤解を招きかねない。


 蓮さんに相談することも考えたけれど、須賀さんが最初に「口は固い方?」と確認してきたことを思い出す。きっと彼は、蓮さんや知里さんには知られたくないのだろう。


 悩んだ末に、私は深いため息とともに名刺の番号を押した。二人きりでは会いたくなかったので、「弟を連れて行く」という条件で、リングを返すためのアポイントを取り付けたのだった。


 ミーティングルームのドアが再びノックされ、注文していたメニューが運ばれてきた。私はコーヒー、祐介の前にはカラフルなプリンアラモードが置かれる。祐介はスプーンを手に取ると、目を輝かせながら「いただきます!」と満面の笑みを見せた。


「これ、お返しします」


 私は須賀さんの前にリングを置いた。彼はそれを人差し指に引っ掛け、くるりと回してから微笑む。


「ありがとう。ちなみにこれはアジアのナイトマーケットで千円くらいで買ったものだ。でもね、君からの着信は、純金どころかダイヤモンド以上の価値があったよ」


 その余裕たっぷりの微笑みに、私は思わず息をついた。


「……なんとなくそんな気はしていました。で、もう帰っていいですか?」


「まあ、少しだけ話を聞いてくれないか」


 須賀さんは真剣な表情になり、テーブルの上で両手を組んだ。


「……君の助けが必要なんだ」


 予想外の言葉に、私は思わず眉をひそめる。


「私の助け?」


 彼はゆっくりと頷くと、「これは、僕たち三人だけの秘密だよ」と前置きしながら、一冊の本を私の前に差し出した。


「雛野あさひ先生の『恋に免許はいりません』最新巻じゃん!」


 私より早く祐介が手を伸ばし、その本をぱっと取り上げた。


「すげぇ、サイン入りだ! 俺、雛野先生大好きなんですよ! 俺のハートをこんなにキュンキュンさせてくれるのは、高校の頃に片思いしていたゆめこちゃんと雛野あさひ先生だけです!」


 その言葉に満足げに目を細め、須賀さんは優雅に微笑んだ。


「祐介くん、君は本当に素晴らしくピュアな青年だ。そのゆめこちゃんの話も、ぜひ聞かせてほしいな」


「ええ、いいんですか? 俺、語っちゃいますよ!」


「ちょっと待ってください!」


 私は慌てて二人の会話を遮った。この二人のペースに巻き込まれたら、大事な話からどんどん逸れていってしまいそうだ。


「須賀さん、まず確認させてください。まさか、須賀さんが……」


 私の言葉に、彼は長い指を顎に当て、もう片方の手を宙に広げる。そして、自信に満ちた笑みを浮かべた。


淑女と紳士の皆さまレイディ アンド ジェントルマン、この場をお借りして、最高のピュアキュンノベリスト・雛野あさひをご紹介いたしましょう……この私です!」


 ……そういうことか。


 祐介は目を輝かせながら、立ち上がって拍手を送っている。


「雛野先生! 俺、ずっとファンでした!」


 須賀さんは片手を上げ、「静粛に、静粛に」と微笑む。


「薫くんには少し話したけれど、この洗練された外見と明晰な頭脳が少々災いしてね。僕の周りには知識、教養、そして美貌を兼ね備えた大人の女性ばかりが集まってくるんだ」


 ここで須賀さんは、同意を求めるように言葉を切る。祐介は期待を裏切らない力強さで「そうでしょうとも!」と相槌を打った。……祐介を連れてきて正解だった。


「ところが、だ。彼女たちが求める恋の駆け引きに応え続けているうちに、ピュアキュンの本質を見失ってしまった。そう、いわゆる……スランプというやつだ」


 祐介は「それは大変だ!」と声を上げて、最後のプリンを口に運んだ。そして店のタブレットを操作して、今度は宇治抹茶パフェを注文する。


「そこでだ。生涯の恋人は出雲くん一人でいいなどと、恥ずかしげもなくのたまえる君に、ぜひ取材をさせてもらいたい」


「嫌です」私は即答した。


「どうしてだい? 思い込みが激しそうな君の恋バナ、この僕がいくらでも聞いてあげると言っているのに」


「そうだよ姉ちゃん、俺にはすごく嬉しそうに、蓮さんのこと話してくれたじゃん! ちょっとうざいくらいにさ」


 ……祐介め、絶対に面白がってる。

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