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第71話

「姉ちゃん、今夜さ、須賀さんは館詰で原稿やるって言ってたじゃん? もし……広瀬さんも来られるなら、ぜひ誘ってよ」


 クリスマスイブの朝、家を出ようとすると、エプロン姿の祐介が玄関先までついてきてそう言った。彼は今日、有給を取ってクリスマスディナーの準備をしてくれるのだ。


 祐介が知里さんのことを気にかけてくれているのが嬉しくて、私はコートを羽織りながら頷いた。


「そうだね。蓮さんも、人数が増えても大歓迎って言ってくれたし、聞いてみる」


 今日は私も有給を取っていて、これからいつものコワーキングカフェで知里さんとランチをする予定だった。ダブルデートのあと、須賀さんの印象を聞かせてほしいと、知里さんが予約してくれたのだ。


 外に出ると、澄んだ冬の空気が心地よく頬を刺激した。ふと、昨日の須賀さんとの会話を思い出し、知里さんに会うのがさらに楽しみになる。須賀さんが館詰から戻るまではお預けだけど、知里さんの想いが通じる日が来るのを、まるで自分のことのように嬉しく感じていた。


 カフェのフリースペースで会うのかと思っていたが、知里さんから届いたメッセージには個室の番号が記されていた。少し意外に思ったものの、仕事の合間なのかもしれないと考え、私は指定された個室へと向かった。


 ドアを開けた瞬間──知里さんの雰囲気が、いつもと違うことに気がついた。普段の飾らない表情は影を潜め、どこか思い詰めたような緊張感が漂っている。いつもなら、私の顔を見るとクールな微笑みで迎えてくれるのに、今日はそれすらなかった。


「知里さん……こんにちは」


 戸惑いながらも、私はいつも通りに挨拶をした。


「薫、来てもらって悪いわね」


 知里さんは、さり気なく目を逸らしながらそう言った。どうしたんだろう……目を合わせないなんて、彼女らしくない。私は少し困惑しつつ、彼女の斜め向かいの椅子に腰を下ろした。


 知里さんは、テーブルの上を見つめたまま、しばらく沈黙していた。だけど私が席につくと、何かを振り切るように小さな笑顔を作ってこちらを見た。少しこわばった表情ではあったけれど、それは「いつも通りに接して」という彼女なりのサインのように思えて、私は少しだけ安心する。


「この間は、ダブルデートに付き合ってくれてありがとう」


「私も楽しかったです。夢だった公園のボートにも乗れましたし」


 知里さんは再びテーブルに視線を落とし、細い指先でコーヒーカップの縁をなぞりながら、静かに息をついた。


「それで……須賀くんのこと、どう思った?」


 本題だ。どう答えるかは、もう決めてあった。


「正直にお答えします。まず、彼は……春木賢一朗ではないと思うので、春木作品の映像化については、別を当たったほうがいいと思います。でも、人間的な魅力のある方だと思うので、もし知里さんが彼とお付き合いするのなら、全力で応援しますよ」


 私は明るく答えた。須賀さんは、知里さんに本当に惹かれているようだったし、館詰から戻ったらすべてを話すと言っていた。もうすぐ知里さんの夢が次々と叶うはずだ──そう思うと、私までワクワクしてくる。


 知里さんは、何も言わずに私の顔を見つめた。さっきよりも少し表情が和らいだように見える。彼女に何があったのかわからないけれど、元気を出してほしいと思いながら、私は言葉を続けた。


「知里さん、私の誕生日の夜に『いいことがたくさん起こるといいね』って言ってくれましたよね。きっと知里さんにも、これから素敵なことが次々と起こるんじゃないかなって、そんな気がするんです」


 彼女は小さく微笑んだ。


「根拠はなに? 薫の勘?」


「はい、豪雪地帯育ちの勘です。結構当たるんですよ」


 私も笑いながら答えた。


 知里さんは、私の顔をしばらく見つめたあと、少し息をついて口を開いた。


「ねえ、薫、昨日──」


 そのとき、テーブルの上に置いた知里さんのスマホから『虹の彼方に』の着信音が響いた。ふと画面が目に入り、私は目を見開く。そこには「ダークレイス社 三浦」と表示されていたのだ。


 知里さんは画面をちらりと見て、ため息をついてスマホをテーブルに戻した。


「ダークレイスのミウだわ」


 私は少し驚いて尋ねた。


「知里さん、ダークレイス社に知り合いがいるんですか?」


 振動し続けるスマホを冷めた目で見つめながら、知里さんはゆっくりと背もたれに寄りかかった。


「元はうちの社員で、ダークレイスに引き抜かれたのよ。どうせ、何かマウントを取りたいだけでしょうから、出る必要はないわ」


 着信音がふと途切れ、静寂が広がる。しかし、3秒もしないうちに再びスマホが振動した。


「もう、なんなのよ」


 少し苛立った様子でスマホを取り上げ、知里さんは画面をタップする。


「はい、ええ、久しぶりね。……春木作品? もちろん今でも映像化したいと思ってるわよ。……え? ちょっと待って、どういうこと?」


 一瞬、スマホの向こう側から楽しそうな笑い声が漏れ聞こえ、その直後に通話は突然切れたようだった。


 知里さんはスマホを見つめたまま、しばらく動かなかった。彼女の表情には、明らかな動揺が浮かんでいた。


「……知里さん?」


 私がそっと声をかけると、彼女はわずかに首を横に振った。信じたくない──そう訴えるような目をして、かすれた声で呟く。


「ダークレイス社で……春木賢一朗の次回作の映像化が決まったって……」


 私は息を呑む。驚きすぎて、言葉が出てこない。


 部屋の空気が、私たちの間に重く沈み込んだ。しばらくして──知里さんがゆっくりと視線を上げ、まっすぐに私を見た。その瞳には、疑惑と失望が複雑に絡み合っている。


「薫……祐介くんのお笑いコンビ、ダークレイス社のオーディションに通ったんですってね。昨日、祐介くんから聞いたわ」


 話の意図がつかめず、私は戸惑いながらも「ええ……」と曖昧に頷いた。


「昨日……祐介くんとあなたが、須賀くん──私が春木賢一朗だと信じている人物と会っているのを見かけたの。……ずいぶん楽しそうだったわね」


 心臓が跳ねるのを感じた。私は息を呑み、知里さんの顔を見つめた。


「祐介くんが社内を探るようにしていたこと、オーディションに合格したこと、あなたたち二人が私に黙って須賀くんに会っていたこと。それから、さっきあなたが『須賀は春木じゃない』と、やけに強調したこと──まるで、私を信じ込ませようとしているみたいに」


 彼女の言葉に含まれる疑いの色が、次第に濃くなっているのがわかった。


「そして……あんなに映像化を拒んでいた春木が、突然態度を翻して、ダークレイス社のオファーを受け入れたこと──」


 知里さんの声が、かすかに震えた。


「……私が信じたくない仮説に当てはめれば、すべて、説明がついてしまうのよ」


 唇をきゅっと噛みしめ、彼女は私の目をまっすぐに見据えた。私は何も言えず、ただその視線を受け止めることしかできなかった。


「祐介くんは……そして、もしかしてあなたも……」


 その視線は、悲しみを湛えながらも、今や揺るぎない疑念の色を帯びていた。


「ダークレイス社のスパイだったの?」

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