「姉ちゃん、今夜さ、須賀さんは館詰で原稿やるって言ってたじゃん? もし……広瀬さんも来られるなら、ぜひ誘ってよ」
クリスマスイブの朝、家を出ようとすると、エプロン姿の祐介が玄関先までついてきてそう言った。彼は今日、有給を取ってクリスマスディナーの準備をしてくれるのだ。
祐介が知里さんのことを気にかけてくれているのが嬉しくて、私はコートを羽織りながら頷いた。
「そうだね。蓮さんも、人数が増えても大歓迎って言ってくれたし、聞いてみる」
今日は私も有給を取っていて、これからいつものコワーキングカフェで知里さんとランチをする予定だった。ダブルデートのあと、須賀さんの印象を聞かせてほしいと、知里さんが予約してくれたのだ。
外に出ると、澄んだ冬の空気が心地よく頬を刺激した。ふと、昨日の須賀さんとの会話を思い出し、知里さんに会うのがさらに楽しみになる。須賀さんが館詰から戻るまではお預けだけど、知里さんの想いが通じる日が来るのを、まるで自分のことのように嬉しく感じていた。
カフェのフリースペースで会うのかと思っていたが、知里さんから届いたメッセージには個室の番号が記されていた。少し意外に思ったものの、仕事の合間なのかもしれないと考え、私は指定された個室へと向かった。
ドアを開けた瞬間──知里さんの雰囲気が、いつもと違うことに気がついた。普段の飾らない表情は影を潜め、どこか思い詰めたような緊張感が漂っている。いつもなら、私の顔を見るとクールな微笑みで迎えてくれるのに、今日はそれすらなかった。
「知里さん……こんにちは」
戸惑いながらも、私はいつも通りに挨拶をした。
「薫、来てもらって悪いわね」
知里さんは、さり気なく目を逸らしながらそう言った。どうしたんだろう……目を合わせないなんて、彼女らしくない。私は少し困惑しつつ、彼女の斜め向かいの椅子に腰を下ろした。
知里さんは、テーブルの上を見つめたまま、しばらく沈黙していた。だけど私が席につくと、何かを振り切るように小さな笑顔を作ってこちらを見た。少しこわばった表情ではあったけれど、それは「いつも通りに接して」という彼女なりのサインのように思えて、私は少しだけ安心する。
「この間は、ダブルデートに付き合ってくれてありがとう」
「私も楽しかったです。夢だった公園のボートにも乗れましたし」
知里さんは再びテーブルに視線を落とし、細い指先でコーヒーカップの縁をなぞりながら、静かに息をついた。
「それで……須賀くんのこと、どう思った?」
本題だ。どう答えるかは、もう決めてあった。
「正直にお答えします。まず、彼は……春木賢一朗ではないと思うので、春木作品の映像化については、別を当たったほうがいいと思います。でも、人間的な魅力のある方だと思うので、もし知里さんが彼とお付き合いするのなら、全力で応援しますよ」
私は明るく答えた。須賀さんは、知里さんに本当に惹かれているようだったし、館詰から戻ったらすべてを話すと言っていた。もうすぐ知里さんの夢が次々と叶うはずだ──そう思うと、私までワクワクしてくる。
知里さんは、何も言わずに私の顔を見つめた。さっきよりも少し表情が和らいだように見える。彼女に何があったのかわからないけれど、元気を出してほしいと思いながら、私は言葉を続けた。
「知里さん、私の誕生日の夜に『いいことがたくさん起こるといいね』って言ってくれましたよね。きっと知里さんにも、これから素敵なことが次々と起こるんじゃないかなって、そんな気がするんです」
彼女は小さく微笑んだ。
「根拠はなに? 薫の勘?」
「はい、豪雪地帯育ちの勘です。結構当たるんですよ」
私も笑いながら答えた。
知里さんは、私の顔をしばらく見つめたあと、少し息をついて口を開いた。
「ねえ、薫、昨日──」
そのとき、テーブルの上に置いた知里さんのスマホから『虹の彼方に』の着信音が響いた。ふと画面が目に入り、私は目を見開く。そこには「ダークレイス社 三浦」と表示されていたのだ。
知里さんは画面をちらりと見て、ため息をついてスマホをテーブルに戻した。
「ダークレイスのミウだわ」
私は少し驚いて尋ねた。
「知里さん、ダークレイス社に知り合いがいるんですか?」
振動し続けるスマホを冷めた目で見つめながら、知里さんはゆっくりと背もたれに寄りかかった。
「元はうちの社員で、ダークレイスに引き抜かれたのよ。どうせ、何かマウントを取りたいだけでしょうから、出る必要はないわ」
着信音がふと途切れ、静寂が広がる。しかし、3秒もしないうちに再びスマホが振動した。
「もう、なんなのよ」
少し苛立った様子でスマホを取り上げ、知里さんは画面をタップする。
「はい、ええ、久しぶりね。……春木作品? もちろん今でも映像化したいと思ってるわよ。……え? ちょっと待って、どういうこと?」
一瞬、スマホの向こう側から楽しそうな笑い声が漏れ聞こえ、その直後に通話は突然切れたようだった。
知里さんはスマホを見つめたまま、しばらく動かなかった。彼女の表情には、明らかな動揺が浮かんでいた。
「……知里さん?」
私がそっと声をかけると、彼女はわずかに首を横に振った。信じたくない──そう訴えるような目をして、かすれた声で呟く。
「ダークレイス社で……春木賢一朗の次回作の映像化が決まったって……」
私は息を呑む。驚きすぎて、言葉が出てこない。
部屋の空気が、私たちの間に重く沈み込んだ。しばらくして──知里さんがゆっくりと視線を上げ、まっすぐに私を見た。その瞳には、疑惑と失望が複雑に絡み合っている。
「薫……祐介くんのお笑いコンビ、ダークレイス社のオーディションに通ったんですってね。昨日、祐介くんから聞いたわ」
話の意図がつかめず、私は戸惑いながらも「ええ……」と曖昧に頷いた。
「昨日……祐介くんとあなたが、須賀くん──私が春木賢一朗だと信じている人物と会っているのを見かけたの。……ずいぶん楽しそうだったわね」
心臓が跳ねるのを感じた。私は息を呑み、知里さんの顔を見つめた。
「祐介くんが社内を探るようにしていたこと、オーディションに合格したこと、あなたたち二人が私に黙って須賀くんに会っていたこと。それから、さっきあなたが『須賀は春木じゃない』と、やけに強調したこと──まるで、私を信じ込ませようとしているみたいに」
彼女の言葉に含まれる疑いの色が、次第に濃くなっているのがわかった。
「そして……あんなに映像化を拒んでいた春木が、突然態度を翻して、ダークレイス社のオファーを受け入れたこと──」
知里さんの声が、かすかに震えた。
「……私が信じたくない仮説に当てはめれば、すべて、説明がついてしまうのよ」
唇をきゅっと噛みしめ、彼女は私の目をまっすぐに見据えた。私は何も言えず、ただその視線を受け止めることしかできなかった。
「祐介くんは……そして、もしかしてあなたも……」
その視線は、悲しみを湛えながらも、今や揺るぎない疑念の色を帯びていた。
「ダークレイス社のスパイだったの?」