「あの子は真面目で、想像力があって、一度だって私たち家族を困らせるようなことはしない子でした。そりゃあ、小さいころはぐずることもありましたけど、そんなものは迷惑だなんて思いません。後の成長のために必要なステップなわけですから。
幼稚園に入ってからはピアノに真剣に取り組んで、一日だって練習を欠かしたことがなかったんです。風邪をひいても、熱を出しても、ピアノを触っていました。私はそんなゆりかを支えるために仕事を辞めることにしました。良い教室に連れて行くために車が必要でしたし、一人で練習させるよりも私が付きっ切りで教えた方が絶対にいいはずですから。その甲斐もあって、ゆりかはどんどん上達しました。先生の教え子の中でも一番上手くて、私の技術だってもうすぐ追い越しそうなくらいでした。私だって音大を出ていますから、今弾いたって相当な腕があると自負しています。それでも、ゆりかは私程度の才能とは違いました。練習量だけじゃありません。その質も、教わる先生も、用意している道具も、どれも私のときとは全くレベルが違いますから。そこにあの子の真面目さが加わって伸びないわけがありません。あの子は完璧でした。弱点なんか無かった。唯一上げるとしたら、強気さ、それだけが足りませんでした。自分が最も上手い、負けるわけがない、そんな気持ちが小さいことが、惜しむべきところだったと言えるかもしれません。
でも、欠点も弱点も無い人間なんていませんから。プロのピアノ奏者だって同じです。誰もが何か、自分には足りないものがあると思うから腕を磨くんです。全て満たされている人間は必死になりません。自分は劣っているかもしれない。そんな不安があるから、ゆりかは必死になっていたんだと思います。だから、私もピアノだけではなく、心理学を勉強したり、スポーツ選手の講演を聞きに行ったりして、なんとかあの子の精神面の弱さを支えられるように、そして一人でもやっていけるように鍛えてきました。音大に入れば、この家からは通えません。一人暮らしをさせることになりますからね。練習する習慣が無くならないように染みつかせる必要もありましたし、悪い遊びに引っ掛からないよう、監督する必要もありました。自分で判断できるようになるまで、私が面倒を見てあげないといけないですから。親ですから、当然です。
手塩にかける、という言葉がありますが、私とゆりかの関係はまさにそれです。夫は仕事一筋人間で、子どもたちのことは全然構ってくれません。私がその分、時間と愛情を注いできたんです。それが、あんな、あんな形で……」
長澤ゆりかの母親、みどりは在宅だった。平日の夕方だというのに、ゆりかの弟の
娘さんのことで訊きたいことがあると正直に言うと、意外にもすんなり家の中に上げてもらえた。インターホンを押したのは桜子で、清隆よりは口が回るとはいえ、もっと警戒されるだろうと思っていたので拍子抜けした。ダイニングに通され、お茶を出されたとき、尊は隣のリビングでテレビを見ており、首だけで桜子たちをうかがい、元の姿勢に戻った。
何か妙だ。そんな感想を桜子が抱きながらも話を切り出そうとすると、みどりはいきなりまくし立て始めた。尊の大きなため息が聞こえる中、みどりは唾を飛ばしながら一気に喋る。ゆりかの生い立ち、どんな性格か、ピアノにどれだけ真摯に向き合ってきたか。呆然と聞くしかなかった桜子たち相手に、一人で五分ほど口を動かし続け、そして泣いた。
宥めるべきか、どうするべきかもわからず、尊に視線を向けてみるが、尊はテレビだけを見てこちらを見もしない。仕方なく、「大変でしたね。ご愁傷様です」と通り一遍の言葉を掛けてなんとか顔を上げさせた。隣の清隆を見ると、わかりやすく引いていた。肘で突いて、慰めに参加させる。
ともあれ、聞きたいことがだいたい聞けたのはたしかだった。そして、家に上がれた理由もわかった。みどりは娘のことを話したかったのだ。話せる相手を求めていた。たとえ相手が陰陽師を名乗る胡散臭い男女でも構わない。というか自分のペースで話を進めるから騙されることもない。
こんなに会話のキャッチボールを無視して喋り続ける人間を騙すことなんてできない。何せ会話が成立しない。
「あの子は……」
一しきり泣いた後、みどりはもう一回ほぼ同じ話を繰り返した。さっきも聞きました。という言葉が口を衝きかけたが、それを言ったらおしまいだということもわかっていた。神妙な顔をして、そうですね、悲しいですね、と繰り返すだけの機械になった気分だった。
娘を失って精神に変調を来たしているとしか思えない。
また一通り喋って、みどりは泣き崩れる。どう反応されるかわからないが、ここで話を滑り込ませないと、同じループが始まってしまう。桜子は慎重さを捨て、思い切って切り込むことにした。
「ゆりかさんに会いたいですか」
「もちろんです」
「ゆりかさんの幽霊が出ています」
「ゆりかの、幽霊?」
尊が腰を上げた。
「霊感商法なら帰ってくれ。俺がいる限り契約は絶対にしない。それとも警察、呼ぼうか」
「いや、待って。私たちは何も売りつけないし、騙すつもりもない。約束できる。私たちはとある人から依頼を受けて動いているの。決して、あなたたちからお金を取りはしないから」
「じゃあ何の用だよ」
なるほど、興味が無さそうにしていたが、尊は番犬だったのだ。精神的に不安定な母親が妙なものにサインしないか、見咎めるためのゲートキーパー。
「私たちが知りたいのは、亡くなる直前のゆりかさんのこと。彼女がどうして成仏せずに留まっているのか、その理由を知りたい」
「成仏していない? 姉ちゃんがこの世にいるっていうのか」
「いるよ」
唐突に清隆が口を開いた。
「今は、この家に。俺に憑いている。心配しなくても、ゆりかさんが成仏できないのは君のせいではないよ。別の理由だ」
ただ、と清隆が眉を顰める。
「あまり気持ちのいい家ではなかったようだね」
ジャン、と音が鳴った。清隆以外の全員が顔を奥の部屋に向ける。桜子には直感的に音の正体がわかった。
ピアノだ。適当に叩かれた、ピアノの鍵盤が出した音。
「ゆりか?」
呆然とみどりが呟き、立ち上がって走り出す。後を追うと、蓋が閉まったピアノがある部屋に辿り着いた。
「ゆりか! ゆりか! どこなの」
半狂乱で部屋中を見渡すみどりを、清隆は冷めた目で見ていた。内心、桜子も同じ気持ちでみどりを眺める。
さっきのは、明らかに怒りが籠っていた。
尊が遅れて部屋を覗き込む。その目にもさすがに驚愕が表れていた。
清隆はそっとピアノに触れた。その手が微妙に震えている。
「清隆さん、大丈夫ですか?」
「うん。これはゆりかさんの影響だ。俺自身には、ピアノに何の思い入れもない。けど、触媒にはなったみたいだ」
「触媒?」
「この部屋とこのピアノは、ゆりかさんの意識がこびりついている。だから増幅して、意識が流れてくる」
意識が流れてくる、という状況が桜子にはよくわからない。ただ、清隆の目にいつもとは違う光が宿っている気がした。
「そっか。桜子さんより俺の方が性格が近かったんだな。波長が合ったんだ」
清隆はピアノの蓋を開けた。その手つきに妙に慣れたものを感じ、桜子は違和感を強める。
ゆりかさんが憑いているって言ったっけ。それって大丈夫なの。
人差し指でドの音を鳴らす。ただの澄んだ音が部屋に響いた。
「そうだな。俺じゃあ駄目なんだ。手も、耳も良くない。この部屋も良くない」
清隆は鍵盤から指を離し、桜子の方を向いた。
「だいたいわかった、と思う。ゆりかさんは話ができるタイプじゃないけど、憑いている今なら一方的なコミュニケーションが取れた。俺の言うことはわかってもらえないけど、ゆりかさんが言いたいことはわかったよ」
「どうするんですか」
「ベルホールに戻る。みどりさん、尊君、あなたたちも来てほしい。彼女がそれを望んでいる」
「ベルホール?」
みどりが反応した。突然耳馴染みのある場所の名前が出てきたら当然だろう。
「最後の発表会の会場です。そして、ゆりかさんが思いを残した場所でもある。そこで、彼女を送りましょう。それにはあなた方が必要だ」