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第72話

 ホールのピアノには、なぜか桜子が座っていた。

「どうして私なんです?」

「俺じゃあ、ピアノを弾けないからだ」

「私だって専門じゃないですよ。ていうか、ピアノは真っ先に弾いてみて、特に何も起こらなかったじゃないですか」

「あれは弾いたうちに入らない、と俺は思う。ただ触っただけだ」

「そうかもしれませんけど」

 客席にはみどり、尊、そして館長が最前列に座っている。さっきまでみどりと館長は社交辞令的な挨拶を交わしていた。状況からして依頼人が館長だと言っているようなものだが、まあ、この際構わないだろう。簡単に推測できたことだ。

「桜子さん、何か一曲弾いて」

 ピアノを挟んで反対側に立った清隆がピアノを弾くジェスチャーをした。

「え、今ですか? 弾けませんよ」

「猫踏んじゃったくらい弾けるでしょ」

「まあ、それくらいなら」

 それはピアノの技術云々というより、遊びの範疇で覚えたことだ。簡単なので、知っていれば誰でも弾ける。

「でも、ここで? 皆さんにお聞かせするの恥ずかしいんですけど」

「大丈夫。誰も桜子さんの演奏に期待なんてしていないよ」

「そう言われるとやる気無くなりますね」

「やる気なんていらないから、早く」

 私は何を急かされているのだろう。説明の一つでもしてほしいものだが。

「確証が無い。間違ったとき恥ずかしいから言わない」

「代わりに私が無駄に恥をかくリスクを負っていませんか」

「助手なんだから恥くらいかいてよ」

 返す言葉が出なかった。そう言われてしまうと反論できない。私は助手で、できることは限られている。それなら、言われた通りにするしかない。

 特大の溜息を吐いて、指を解した。

「じゃあ、いきますよ」

「よろしく」

 ジャカジャンジャンジャンと弾き始める。いつ振りかわからないが、単純な進行だし、出来の良し悪しも関係ないとなれば、つまずきながらでも弾いてみせることはできる。

 こんな感じだったっけ、と適当な進行で一通り弾いて、終わりにすることにした。正式な楽譜なんて見たこともないから、仕方ない。

「弾きましたよ、清隆さん」

 これがどうした、と言おうとしたところで喉が詰まったように声が出なくなった。

 清隆の後ろ、舞台袖に隠れるように立つ女の子が見えたからだ。長い黒髪、真っ黒のワンピースドレス。前髪は垂れ、顔を伺い知ることはできない。顔色が異常に白く、生気を感じない立ち姿。

 死者。長澤ゆりか。

「見えた?」

 清隆が桜子の目線を追う。カクカクと頷く桜子と、客席の三人に向かって声を張る。

「長澤ゆりかさんと会うための条件の一パターンは、ここのピアノで演奏することだったんです。まあ、職員はたまに波長が合って会えたらしいですが、それは別パターンですね。発表会に来て、弾いた子たちは、発表後の舞台袖や戻った客席でゆりかさんを目撃したわけです。だから最初、俺がピアノを適当に触ったときは会えなかった。今、まがりなりにも演奏した桜子さんは見えています」

「弾けば、ゆりかに会えるの?」

 みどりが立ち上がった。ステージに来ようとするのを、清隆が手を突き出して止める。

「見ることはできると思いますが、今日の目的はそれではありません。今はただの準備です」

「ゆりかに会わせて!」

「駄目です」

「どうして」

 みどりは発狂しそうなほど声を高くするが、清隆はきっぱりと止める。

「ゆりかさんの望みとは関係ないからです。今回の依頼人はあなたではない。あなたの願望を叶えるのは、依頼に含まれていません」

「人情ってものがないの?」

「ありますよ。でも、あなたのためではなく、ゆりかさんのために使います」

「ゆりかは、私に会いたがっていないって言うの?」

「あなたに会いたいなら家に出ますよ。ここに出た理由があるんです」

 清隆は背負っていたリュックからお猪口を二つと、小さな瓶を取り出した。

「本来は、ステージ上で飲酒なんてマナー違反でしょうが、お目こぼしください。俺の術の都合上、酒が必要なので」

 お猪口に酒を注ぎ、手をかざす。

「清隆さん、それは?」

「『譲二』っていう日本酒だ。サカグラシの力を注いだ酒を飲めば、トランス状態、簡単に言うと、霊媒になれる状態、霊が憑りつきやすい状態になれる。そして、『譲二』は、俺から相手に譲る能力を引き出せる。今回は、ゆりかさんを譲る」

 言っている意味がよくわからない。嫌な予感だけはする。

「結果を言うと、俺に憑いているゆりかさんを桜子さんに移す」

「え、ちょっと待って。待ってください」

 冷や汗が流れる。清隆はお猪口を持って歩み寄って来る。

「体を貸すっていうか、乗っ取られるってことですよね」

 美術館の一件を思い出す。体を乗っ取られ、清隆にキスしてしまった記憶が蘇る。憑かれると、何をしでかすか制御できない可能性がある。

「大丈夫。やばいことになったら俺が止めるから」

 珍しく微笑んで清隆はお猪口を差し出す。その笑顔が信じられない桜子は首を振って受け取りを拒否する。

「嫌です。駄目です。いざとなったら清隆さんは裏切ります」

「心外だな。俺がいつ桜子さんを裏切ったっていうの」

「違法薬物の事件のときとか」

「裏切っていないよ。だからこうして二人とも無事でいるんじゃないか」

「それは結果論であってうが……」

 口に無理やり突っ込まれた。頭を掴んで上を向かせられ、開いた口に流し込む形で。サカグラシの身体能力を借りているからなのか、目にもとまらぬ鮮やかな手際だった。

 日本酒のアルコールが喉を流れる感覚があった。良い香りが鼻を抜ける。

「ちょっと、清隆さん」

 手を払いのけたときには、既に完全に呑み込んでしまっていた。

「往生際が悪いから」

 いけしゃあしゃあともう一つのお猪口から飲み、清隆は桜子の背に触れた。


 清隆の目に、桜子とゆりかが重なって見えるようになった。今、ゆりかはピアノに正対し、軽く指を曲げて鍵盤に乗せ、呼吸を整えている。

 ステージから飛び降り、客席のみどりの様子を見ると、表情が変わっていた。桜子の佇まい、仕草、醸し出す雰囲気、それらは今、ゆりかのものと酷似しているはずだ。

 尊の隣に座り、ゆりかを見る。

 その曲は静かな立ち上がりに思えた。優しく数個の音を奏でたかと思うと、右手が一気に盛り上がりを描く。目で追えないほどの勢いで両手が舞い、何度も盛り上がり、静かな瞬間を描き出し、そしてまた盛り上がる。

「スクリャーベンのエチュードだ」

 尊が呟いた。

「何度も聞いた。嫌でも聞こえてきた。これは姉ちゃんのエチュードだよ」

「発表会の曲、だろ」

「そう。散々練習していた。朝から晩まで、何度も何度も」

 ゆりかから伝わってきた情景の一つが、この場での演奏だった。ゆりかは弾きたがっている。でも、そのための体が無い。ずっとここで待っていたのだ。自分の手足となって、弾かせてくれる誰かが来るのを。

 だが、ゆりかと波長が合うのは、演奏を終えた人間だ。出番が終わった人間とどれだけ波長が合おうとも、ゆりかが弾く番は回って来ない。

 だから、器と出番を用意した。

 ここからだ。

 不意に不協和音が鳴った。素人の耳でもわかる、場違いな音。あ、というみどりの声が聞こえる。

 演奏は止まった。止まってしまった。ゆりかが憑いた桜子の顔が涙で歪む。

「ミスしたんです。本番で。発表会が終わった後、猛練習していた」

「発表会に、君も行ったの?」

「いえ、家での会話を聞いただけです。会話というより、母さんの声が聞こえてきただけだったけど」

 尊は嫌らしい笑みを口元に浮かべた。誰に対して向けられている笑みなのか、清隆にはなんとなくわかる。

「大丈夫」

 ホールに声が響いた。桜子の声だった。ゆりかの声ではなく、桜子の。

 そう。桜子さんなら彼女を導ける。暗がりにいる人間には、ときに桜子さんのような、陽の下にいる人間の言葉が必要なんだ。

「やり直そう。もう一度、最初から。大丈夫。まだ終わっていないよ」

 泣きながら、力強く語る桜子の表情はちぐはぐだった。だが、誰も笑わない。じっと事の成り行きを見つめる。

 再びゆりかが鍵盤に手を置き、呼吸を整える。そして、静かに弾き始めた。

 同じ曲、同じ弾き方。ピアニストは情感豊かに弾くが、それは決して即興やまぐれではない。いつ弾いても同じクオリティで弾けるように練習を重ね、あたかもそのときの感情が乗っているかの如く見せる技術があるのだと、清隆は素人ながら思い知る。

 曲は進む。右手が跳ね、左手はリズムを刻み、魂を震わせるようなエチュードがホールを揺らす。ときに静寂で満たし、再び燃え上がる。清隆には、下手ではないということしかわからない。だが、違和感なく自然に見える、聞こえることが、当たり前のことではないくらいはわかる。簡単に見えることこそ、技術が詰まっているのだ。

 ゆりかは、ミスすることなく弾き終えた。

 余韻がまだ空気中に残っているようで、誰も何も言わない。ただ、圧倒されていた。

 ふらりとみどりが立ち上がり、ステージに向かう。それを見たゆりかはステージから飛び降り、みどりの元に駆け寄り、

 殴った。


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