清隆は椅子に座ったまま、みどりの上体が反れ、尻もちをつく格好で倒れるのを見ていた。
ゆりかはみどりに馬乗りになり、平手でみどりの顔を叩く。何度も、何度も叩く。ゆりかの顔は涙でぐちゃぐちゃで、口からは意味不明な音が漏れ出ていた。
長澤ゆりかは悪霊になりかけていた。思い残したことのために、放っておけば誰かの体を強引に奪ってしまうような危うさがあった。そして、その憎しみは、主に母親であるみどりへと向いていた。
それを、清隆は感じていた。こうなることを、予期していた。
尊がゆりかを止めに入る。後ろから羽交い絞めにしてみどりから引き剥がした。だが、暴れるゆりかはそれを振り解き、今度は尊を叩き始めた。尊はガードもせず、悲しそうな顔で叩かれる。
そうか、尊はわかっているんだ。
清隆はゆっくりと時間をかけて立ち上がり、尊とゆりかの間に割って入る。振り下ろされるゆりかの手を掴むのは簡単だった。両手を掴み、噛みつこうとする歯を避ける。
「もういいだろう」
「良くない」
「殺す気か」
「殺してやる」
ゆりかははっきりと口にした。
「どうして私ばっかり我慢しないといけないの。どうして、どうしてどうしてどうして」
どうして私ばっかり。それが、ゆりかの魂に渦巻いていた言葉だった。
ゆりかは、決してピアノが好きではないのだ。
「ごめん」
横を見ると、尊が額を床につけていた。
「わかるよ。俺が疎ましかったんだろ。姉ちゃんはピアノに縛り付けられているのに、俺は自由に遊んでいる。母さんから興味を持たれない代わりに、俺には義務も重責も無かった。姉ちゃんが嫌々ピアノを弾いていたのは知っていたよ。でも、俺たちは子どもで、母さんの言うことに逆らえない。俺が先に生まれていたら、俺が女だったら、逆の立場になっていたかもしれないんだ。姉ちゃんだってゲームしたかったよな。友だちと遊びたかったよな。本当は、あんな牢獄みたいな部屋にいたくはなかったんだよな」
尊はわかっている。みどりは、呆然と口を開けてその様子を見ていた。
「もう、ピアノに縛られなくていい。ミスしてもいいし、他人より劣っていてもいい。好きな場所に行っていいんだ。俺たちのことは忘れてくれ。こんな、どうしようもない家族のことなんて、もう思い出さなくていいんだ」
ゆりかが震え始めた。力が抜け、代わりに唸り声を上げ始める。
「ずるい。ずるいずるいずるいずるい」
「ごめん」
「大っ嫌いだ、みんな、みんな、全員死んじまえ」
ふっとゆりかの足から力が抜けた。清隆が支えると、ふらつきながらも立ち直した。その表情を見て、悟る。ゆりかの影が消えた。
そこにいるのは、ただ一人の桜子だった。
「清隆さん」
「うん。お疲れ様。ゆりかさんは行ったよ」
「未練が消えたのでしょうか」
「殺す気なんて、本当は無かったのさ」
「憎んでいる相手なのに?」
「家族って、たまに憎いものだろう」
桜子を客席に座らせる。桜子はハンカチで涙を拭った。化粧が乱れて大変なことになっている。
清隆は笑いそうになって目を逸らした。
「殺すことが未練だったんじゃない。嫌なことを嫌だと言えないことが未練だったんだ」
「それは、私も感じました。殺すほどの感情ではないというか」
「癇癪、だよな。子どもなら当たり前のその行動すら抑制されていた」
みどりを見る。まだ立ち直れないでいた。
「自分の夢なんて、子どもに押し付けるものじゃないんだよ」
今回は桜子も酒を飲んでしまったため、酒が抜けるまでベルホールで休ませてもらうことにした。
みどりと尊は帰宅した。みどりの教育方針に問題はあったが、尊は放任されているようだし、大きな問題は起こらないだろう。
「夢ってなんなんでしょうね」
ホールの廊下にあるベンチに座り、だらだらと時間を潰す。契約や支払いの書類手続きは終わってしまい、ただただ酒を抜くだけの時間だ。
「この前の、水泳をやっていた川木君は、死んでもひたむきに記録に挑みました。プールに通い、泳ぎ続け、記録更新したことを喜んだ。今回のゆりかさんは、本当はピアノなんて嫌いだったのに、技術が磨かれて、多分才能もあって。でも本人は不幸だった。何が違ったんでしょう」
「夢って、本当に自分が選んだものなのか、怪しいところあるよね」
「そうですか?」
「環境によるところって大きいと思うんだ。親がピアニストだった。スポーツに熱心だった。陰陽師の家系だった」
「清隆さんの夢は、与えられたものだったって言いたいんですか」
「どうかな」
外は暗くなり、ガラス越しに月が見える。綺麗だと素直に思えなくなったのは、いつからだっただろう。
「自分で選んだか、周りに決められたか。幸不幸を分けるのは、そんな単純で強力な要素なのかもね。最初は親の勧めで始めたものでも、途中で自分の意思に変わったか、そうでないか。川木君とゆりかさんの違いは、そんなところなのかな、と思ったり思わなかったり」
「どっちなんですか」
「どっちだろうね」
本当に。夢なんて無くても生きていける。なのになぜ、人は目標を立て、困難な道を行くのだろう。
どうせ失われるものなのに。
「清隆さんは、どうして夢を諦めたんですか」
「俺の夢って?」
「日本一の陰陽師になるって夢です。小さい頃はそう言っていたんですよね」
「ああ、まあ、それに見合う実力じゃなくなったってだけだよ」
「サカグラシは優秀じゃないですか。なのに、師である親御さんから陰陽師と名乗る許可すら貰っていないなんて」
桜子の視線を感じる。
「何があったんですか。どうして安倍家の式神を使えなくなり、サカグラシと契約することになったんですか。どうしてそんな、やさぐれちゃったんですか」
やさぐれた、か。言われように笑えた。
笑わされたので、話してもいいかと思えた。元々、隠すような大層な話でもない。ただ、機会が無かっただけだ。
「ろくろ首がいるなら、鬼もいる」
「鬼?」
「俺は、学生時代、鬼に遭った」