退院する義彰を、清隆は迎えに来た。
三ツ矢が祓われた後、エルモールを覆っていた結界はすぐに消えた。自力で脱出した人も大勢いたが、中には体調不良を訴え、自力で動けない人も多かった。義彰もその一人だ。救急搬送され、一日の入院を経て、今に至る。入院中、警察が一度だけ話を聞きに来た。義彰はあるがままを喋ったが、それが本気だと伝わったかどうか、定かではない。一応、茶々を入れられることはなかったし、笑われることもなかった。その証言がどう報告書にまとめられるのか、それはわからない。
「集団幻覚ってことになると思う」
入院しなかった清隆は、義彰の荷物を半分持って、病院を出たところで言った。
「こういう大規模な、一般人にも認知される形で事が起きてしまった場合、大抵それで片付くんだと」
「それでいいのか?」
「本当のところは、警察も把握しているよ。報告書に書かないといけないから集団幻覚としているだけでさ。警察と一緒に、誰か来ていなかったか」
「来た。警察官二人と、名乗らなかった一人の三人で病室に来た」
「それ、多分俺の父親だ」
「え」
「この辺一帯の陰陽師、霊媒師、修験者、そういう人達のとりまとめだから、警察に協力を仰がれたんだと思う。今回も、俺たちが動かなければ誰か、プロが動いて三ツ矢を対処したんだろうさ」
「自分がプロじゃないみたいな言い方するね」
義彰の軽口めいた言い方に、清隆は沈鬱な表情で返す。
「俺なんてプロじゃない。自分があんなに弱いなんて、知らなかった」
「弱いって……清隆が勝ったから僕たちは生きているんだろ。強いじゃないか」
「勝ったとは、とても言えない」
清隆は、鞄から和綴じの本を取り出した。
「もう何も入っていない。俺は、蓮牙と宵目を父親に返した」
「どうして」
「使えなくなったからだ」
清隆は本をパラパラと捲る。それは、全てが白紙のページになっていた。
「本来、安倍家は式神を、本というか、封じた紙を通じて使役する契約を結ぶ。本人と直接は契約しないんだ」
「そうすることで、糸が適度に細く保たれて、何体も使役できるって話だったね」
「そのセオリーを、破った。致し方なかったとはいえ、リスクの高い方法を取って、サカグラシと契約した」
義彰が表情を曇らせる。
「どうなったの」
「サカグラシとの糸が太くなりすぎて、他の式神を使えなくなった」
吐き捨てるように言ったその声は、泣いているようにも聞こえた。
涙は見えない。
「安倍家の式神を使えなくなった。それは即ち、安倍家の家督を継げなくなったことと同義だ。俺は、陰陽師になるのを、失敗した」
清隆は、あーあ、と空を見上げる。
「卒業したら、ちゃんと仕事手伝わせてもらえるはずだったんだけどな」
トボトボと歩く。午前十時の空気は、もう清々しさなんてない。排ガスの匂いがする道を、小さくない荷物に苦戦しながら、何も背負っていない学生二人が進む。
「けどさ、サカグラシは鬼も倒せる強い式神なんだろ。失ったものばかりじゃない」
「安倍家相伝の式神フルセットがあれば、鬼なんて目じゃなかった。できることも多いし、精度も高い。家督を継いだ方が、よっぽど優秀な陰陽師になれた。長期的に見たら、やっぱり失ったものの方が多いよ」
「経験は?」
「痛みを伴わない経験に意味が無いのだとしたら、痛みが強すぎて取り返しがつかなくなった経験は意味があるんだろうか」
あるんだろうか、と言われても、義彰は答えることができない。何を言っても当事者でない以上、空虚な言葉でしかないことはわかっている。共感してやれるバックグラウンドもない。
無言の時間が続き、義彰はいたたまれなくなって話題を変える。
「結局、唐傘はエルモールにいなかったんだよな」
「いなかった。俺たちを誘い込むための、ただの口実だ」
「和田さんが筋書きを書いていたってこと?」
清隆は首を振る。
「和田さんも駒の一つだ。裏で全てコントロールしていたのは、最初から最後まで三ツ矢薪人だったんだ」
「最初から最後まで? 具体的にはどこからどこまで?」
清隆は、俺の推測も混じるけど、と言って荷物を肩にかけ直す。
「三ツ矢は元々、人間に擬態する鬼だったんだ。鬼の擬態は非常に優秀で、蓮牙やサカグラシの鼻でも見破れない。まあ、そういう血統が淘汰されて生き残ったといった方が正しいかもしれない」
「人間に擬態して、大学に通う鬼がいるってこと?」
「いる。人間を喰らい、人間に擬態するタイプの妖は、社会に当たり前みたいに馴染んでいる。三ツ矢は上手くやってのけていた。だが、約一年前、それに暗雲が立ち込め始めた」
義彰も、一年前というキーワードで閃くものがあった。
「僕たちが開業した」
「そう。俺たちが陰陽師として仕事を始めた。三ツ矢にとっては脅威でしかない。身近な大学という空間内に、自分を殺す陰陽師が存在する噂が流れてくるようになったんだから。三ツ矢が大学内でどれだけ捕食していたのかはわからない。ひょっとしたら、誰のことも喰らっていなかったかもしれない。だが、鬼は存在するだけで人間の脅威だ。文句なく、ノータイムで判断する討伐対象。いつ誰が三ツ矢の正体に気付いて俺に知らせ、祓われるかわからない。そんな不安を抱えながら大学生活を送らないといけなくなった」
「そして三ツ矢は、隠れるのではなく、一計を案じた。攻めに転じた」
「そこにどんな考えがあったのかはわからない。一年は身を隠し続けたが、殺した方が早いと思ったのかもしれないし、いずれ見つかると思ったのかもしれない。実際、俺の父親がいたら占いの応用で見つけられたかもな。とにかく、三ツ矢は攻勢に出ることにした。まずは俺たちの連絡先を入手。依頼を出せる状態にする。そして、偶然か必然か、多分後者だろうが、使える妖が家にいる人間を恋人にした」
「和田さんのこと? 僕たちを嵌めるために付き合ったの?」
「付き合い始めたタイミングは、聞いてみないとわからない。偶然恋人の家に唐傘がいて、利用したのかもしれない。いずれにせよあの唐傘も被害者だ」
「被害者っていうの、よくわからないな。唐傘は元の持ち主の所に帰りたがっていて、家を出ようとして動き回ったんじゃなかった?」
「それはあの時点での俺たちの認識だ。ここに三ツ矢という鬼が絡むと様相が変わる。疑問もあったはずだ。和田さんの家を出たとして、どうやって瀬戸さんの元に辿り着くのかっていうな」
「ああ、そうだったね。唐傘の知能では思いつかないのかと思っていた」
「本当は動くつもりなんてなかったんだよ。大人しく、和田さんの傘として存在し続けるつもりだったんだろうさ。それが、三ツ矢に命じられて目立つ動きをさせられた」
「命じられて?」
「エルモールでお前に憑いた女の霊、覚えているか」
「そりゃもちろん。憑かれている間、ずっと意識はあった。宵目の視力も通じていたから、姿も見えていたしね」
「和田さんの内側に潜んで不意打ちするなんて方法、普通の悪霊がやることじゃない。しかも、俺という陰陽師がいる前でやったらすぐに祓われる。あれは明らかに、三ツ矢が俺を殺すという前提で行われた行動だった。言い換えると、三ツ矢は悪霊と連携していた。おそらく、上下関係があるんだと思う。鬼は他の怪異に対して優位を取れて命じることができる、みたいな」
「唐傘も命じられて動いていた? 何のために」
「端的に言って、噛ませ犬だ。三ツ矢は俺の能力を調べたかったのさ。俺もまんまと、蓮牙と宵目の能力を披露して唐傘を退治した。見えない振りが上手いやつだよ。蓮牙かサカグラシか、どちらかでも反応してくれたら気づけたかもしれないのに」
悔しそうな口調と裏腹に、清隆の声は諦めたように力が無い。
「思えば、三ツ矢が場を引っ張っていた。和田さんの家に行くことを提案したのは三ツ矢だったし、行き詰まりかけたとき傘の話題を出したのも三ツ矢だった。さりげなく唐傘の死体を引き取って、後の俺たちを呼び出す口実を作ったのも三ツ矢だ。俺たちは、自分たちが解決したように思わされて、その実、三ツ矢のいいようにコントロールされていたんだ。ああ、くそ、和田さんに守護霊の一体も憑いていないことも、不審に思えばよかった。あれは三ツ矢に霊が消滅させられた後だったんだ」
清隆が悔しそうに舌打ちする。
「そして、エルモールの事件を起こすことを決めた。つまり、清隆に勝てると思ったんだな」
「そしてそれは正しかった。俺は、三ツ矢に勝てなかった。ただ一つ、サカグラシという不確定要素が紛れ込まなければ、俺たちは死んでいた」
「サカグラシは、ここにいるの?」
「いる。下を歩いている」
義彰の霊感は、何かの存在を感知していた。それは蓮牙や宵目のときに感じた圧倒的な存在感とは全く違う、薄い感覚だった。
格が違う。霊としては、清隆が失った式神たちの方がよっぽど強かった。
だけど、鬼を倒せた。
「どうする」
義彰の家に着いたとき、清隆が死んだような表情で発した言葉の意味が、義彰にはわからなかった。
「何が」
「霊障相談サービスを続けるのかってこと」
「辞めるのか」
もしも清隆が辞めるなら、続けることはできない。この商売は清隆あってのものだ。義彰だけではどうにもならない。
「だって、俺は使えないと示された」
「最後は勝った」
「式神を失った」
「新しい式神も得た」
「未熟だって証明されたようなものだ」
「誰だって成長途中だ」
「もう、自信が無い」
「それは……」
どさりと荷物を床に下ろし、肩を回す。
「自信が無くても仕事はできる」
「そうだろうか」
「本当はな、勇気も元気もない方が困らない」
「不思議なことを言うな、お前」
「藤原基央より」
「引用かよ」
「勇気が無い人間は挑戦しない。元気が無い人間は最低限のことしかしない。でも、それでも生きていける。自信も同じだ。無いならないで、なんとかなるのさ」
清隆は呆然と立ち尽くし、中空をぼんやりと見る。
「それは、辛いよ」
「失った自信は、取り戻せる。いつになるかわからないけど、それを取り戻した清隆は、きっと、もっといい男になっているはずだ。一人が不安なら、僕が支える。清隆が無理だと思うなら、僕がそんなことないと言ってやる」
だから、と義彰は久しぶりの自宅の匂いを吸い込む。
「もう少しだけ、頑張ってみよう」
空間を割るような泣き声が「後ろの真実」のエントランスに響き渡る。清隆は久しぶりに聞く子どもの泣き声を、悲しいというよりむしろ新鮮なものとして聞いていた。
「ああ、ごめんね。怖かったね。もう怖いものはいないよ」
桜子があやすように子どもを撫でながら苦笑する。
「すっごく面白かったです。あれは何ですか、井戸みたいなところに落ちたやつ」
「き、企業秘密です」
泣いている子どもの母親ははしゃいで清隆に至近距離で詰め寄り、父親も目を輝かせて子どもをおざなりに慰めていた。
父親、母親、小学生の娘の三人が来店したのだが、子どもが本気泣きをするくらいに怖がってしまった。どうも夫婦はお化け屋敷愛好家らしく、「後ろの真実」の演出にご満悦なのだが、娘は堪えられないくらい怖かったらしい。今日の夜は眠れないかもしれない。トラウマになっていないことを祈るばかりだ。
大の大人でも悲鳴を上げることがあるのに、小学生には辛かろう。
ぎこちない笑顔を浮かべ、親子を見送る。相変わらず接客は苦手だ。失礼が無いか、自分の一挙手一投足が気になって消耗する。
ふう、と静かになったエントランスで溜息をついた。
大学を卒業するとき、義彰は東京へと就職していった。清隆を一人にすることに、心配そうな顔は浮かべなかった。
辛くなったら、もう少しだけ頑張ってみてくれ。今日と明日を頑張れば、意外となんとかなるもんだ。
卒業式の日の義彰の言葉が脳裏を掠める。
そのもう少しだけが、思ったより長くなった。
「清隆さん、次のお客さんまで少し時間がありますね。皆も休憩させて、お茶にでもしません?」
桜子が返事も聞かずに立ち上がる。
「いいね」
新しい仲間たちと、息が続く限り行ってみようと思う。もう少しだけ。できれば、もうしばらくは。