桜子は重い体をなんとか動かして寝返りを打った。コンクリートのような固く冷たい床に触れている面が痛い。腕一本が普段の十倍になったかのごとく動かしにくい。
上に目をやると、圧し掛かっている悪霊の姿が目視できる。腕が四本、足も四本。顔は三つでそれぞれが独立に表情をくるくると変えながら桜子を見ている。
どこが胴体なのかわからないくらいに人の形を保っていない。おそらく数人の魂が折り重なって生まれたのだろうと桜子は推測するが、そんなことを考えても役に立ちそうにない。それは、桜子の手足を掴んでなお余りある四肢パーツで桜子にしがみつき、動けないほどの重みをかけてくる。
手錠でも鎖でも、拘束するならやりようはいくらでもあっただろうが、よりによってこんな方法を選ぶなんて、趣味が悪い。重くて体が痛いことに加えて、体を触られている感触が気持ち悪い。ずっと何かを探すように全身をまさぐってくる。顔も胸も関係なく触られてくすぐったいと思う余裕もなく、ただただ不快だし、純粋に怖い。
今は取り押さえるように命を受けているからそれで済んでいるのだろうが、いつ気まぐれに桜子を殺そうとするかわからない。そうなったとき、桜子に対抗する手段は無い。せめて視えない、感じない状態なら無視して動くことができたのだろうが、狐塚に付与された霊感のせいでそうもいかない。今のところ、霊感が消える兆候もない。
悪霊を見続けるのも疲れるので、目を閉じた。為す術なく桜子を見送った、清隆と海人の眼差しを思い出す。
今日の予約は、平日にしては珍しく八割方埋まっていた。雑誌『アンダーストリート』に掲載されてから「後ろの真実」の予約件数は跳ね上がり、忙しい日々になっていた。口コミも順調に広がっているようで、来客と少し話してみると、「友だちに聞いて」、「ネットで見て」という声も聞かれる。ネットの予約サイトの平均評価点も、2.5に達した。桜子が入った頃は0.5だったので、大躍進しているといっていいだろう。
「皆に何かご褒美をあげないといけませんね」
今日最後の客が入口に入っていった後、桜子は受付の隣に座る清隆に話しかけた。
「ご褒美?」
清隆はそんな単語初めて聞いたかのような顔をした。そういうところに気が回らないから、この人はいけない。
「給料というか、ボーナスというか。浅田さんたちって、給料を貰っても使えないわけじゃないですか。でも、何らかの形でお礼をした方がいいと思うんですよね」
清隆は、ああ、とぼやいて腕を組んだ。
「何がいいだろう。というか、何なら渡せるだろう。物はだめだよね。彼らは持ち上げることすらできないんだから」
「個室とか、どうです?」
「どこにそんな部屋があるんだよ。アパートでも借りるの? その経費は馬鹿にならないよ」
「ボーナスの範囲じゃなくなっちゃいますか」
「だいたい、彼らは寝ないし、疲れも感じない。休むための場所はご褒美にならないと思うな」
「じゃあ、食べ物、も、同じか。食べられないんだから」
「そうだね」
「幽霊でも触れるものとか、あればいいんですけど。そういう術は無いんですか」
「霊が物を動かすって現象はあるけど、物の側を霊が触れるようにする術は聞いたこと無いな。多分、用途が無かったんだと思うけど」
「あれ、でも清隆さんの昔の話の中では、式神が実体に触れられるようになっていませんでしたか」
「契約している式神ならそういうことができる。サカグラシも同じようにできる。でも、それはあくまで式神の側にかかっている術であって、物体側は普通の物なんだよね。鈴木さんたちと契約するわけにもいかないし、同じようにはできないな」
「サカグラシさんとしか契約できないんでしたっけ」
「そう。しかも解除不可」
うんうんと唸るが、なかなか妙案が浮かばない。お供え物でもするか、という解決策にも満たないアイデアが出たところで、中から悲鳴が聞こえてきた。
「海人君かな」
「そうでしょうね」
首が伸びるろくろ首のインパクトは絶大だ。二人はほくほく顔で出口を眺める。間もなく、男女四人グループが出口のドアから転がり出てきた。
放心するように明るい照明を眺め、笑顔の清隆と桜子と目が合う。
「あ、あの、首が……」
その内の一人が呂律の回らない声で出口ドアを指さして震えながら言いかける。桜子は慣れた口ぶりで応えた。
「企業秘密です」
「本当にお化けじゃないんですよね」
「企業秘密です。でも、ウチはお化けに会えるお化け屋敷ですから」
その後も凄い、凄いと口々に感想を述べながら帰っていく。満足してもらえて、非常に良かった。口コミを広げてくれたり、感想をネットに書き込んでくれたりすればなお良い。ネタバレ抜きで。
「趣向を変える必要もありますよね。いつまでも同じ配置だと、リピーターが増えませんし」
「どうだろう。お化け屋敷って滅多に内部構造を変えないイメージだけど」
「ううん、まあ、たしかに」
大きな敷地を使ったお化け屋敷ほど、構成を変えることは難しい。建物自体がそのために作られている場合は、大工事が必要になる。「後ろの真実」の場合は、コースは短いわりに、使っている施設は大きい。元学校であるという特性上、壁や柱も非常に頑丈だ。おいそれと壁を取っ払うわけにもいかない。ただ、通路を細くして入り組ませれば、複雑にできないこともない。高校の文化祭で開かれるお化け屋敷が意外と大きく感じられるように、やりようはある。
「仲間が増えれば、いずれ今のコースだけだと足りなくなるかもね。三階や別棟、体育館なんかも使わないといけなくなるかも」
「私の計算では、あと二、三人は余裕で配置できますよ」
「じゃあ、頑張ってキャストを集めないとね」
いつも通り陰気な調子でそう言って、清隆が受付テーブルの上を片付けようとしたとき、来た。
「こんばんは、ワイにも体験させてくれへん?」
狐塚。半分金髪、半分黒髪。ジャラジャラとアクセサリーを着けたその自称霊能力者の男が、サングラスを外しながら現れた。
まっとうにエントランスドアを潜り抜けて来たことに、まず桜子は驚いた。何かしてくるとしたら、奇襲だと思っていた。前回は桜子がコンビニから出てくるところを接触してきて、一時的な霊感を付与することで危ない目に遭わせた。ちなみに清隆いわく、そのときの悪霊は狐塚か小間が桜子になすりつけたものの可能性が高いという。何が祓ってやる、だ。ただのマッチポンプじゃないか。
「ウチは完全予約制です。飛び込みは受け付けておりません」
清隆はやる気の無い目で追い払おうとする。
「だから割り込まんように営業時間の最後に来たんやろ」
「本日の営業は終了しました」
「一人くらいええやん。ほら、ワイめっちゃ口コミ広げたるで。SNSでバズらせたる」
「結構です」
「なんでや、客を差別すんなや。それでも経営者か」
「店側にも、客を選ぶ権利がありますから」
「ワイが何か迷惑かけたか?」
「小間を送り込んで営業妨害しておいてよくもぬけぬけと」
「そんな昔のこと持ち出されても困るわあ」
「せいぜい二か月前のことを昔って言うな」
「小間のことは謝るわ。この通り、申し訳ない。ワイはここを潰す気なんてなかったんや。小間が誤解して乗り込んでしまっただけでな」
「この通りって言うならせめて頭下げてくださいよ。目がばっちり合うんですけど」
「頼むわ。ワイにも巷で噂のお化け屋敷体験させてえな。楽しみで昨日から眠れんかったんや」
「霊能力者が楽しめるものじゃないですよ」
「ちょっと」
桜子は思わず割り込んでしまった。核心を外して嘘くさい会話を延々と繰り広げるのは性に合わない。
「あなたを通したら、全員消滅させるでしょう」
狐塚は桜子に目を遣ると、胡散臭い笑みを深めた。
「それはリクエストか? そう依頼されたらしゃあないな」
「どこをどう聞いたらそう解釈できんの」
「だって、お姉さんに憑いとる男が中におるやろ? それを祓うついでに他何体か消しても、まあ、悪くないわな。どれがターゲットかわからんわけやし」
「やる気か?」
清隆が殺気立った。半身で狐塚に向かい、右手が構えられる。足元にはサカグラシも来ていた。
「桜子さん言うたな。あんたが来るならやめといたるわ」
「させるわけないだろ」
清隆が跳ねた。