「それでは、お楽しみください」
男女二人組の客が入口ドアに入っていくのを見届けて、桜子は受付に座り直した。
狐塚の襲撃から、三日が経っていた。
一足鶏と狐塚にしこたまボコボコにされた海人は、アルバイトらしからぬプロ意識で翌日から働くと言っていたが、全員から止められて休暇となった。今日から復帰し、巾木に代わってトリを務めている。
清隆は事務作業があると言って三階の事務スペースに引っ込んだ。今、受付には桜子だけがいる。
受付テーブルに開いたノートPCには、今日の予約情報が表示されている。雑誌「アンダーストリート」に載ってから予約率は上昇を続け、この土日は稼働率90%という初めての数字を叩き出していた。疲れを感じない幽霊たちはともかく、生身の海人は休憩を取らせないといけない。今までは考えなくてよかったが、これからはそういうことも検討する必要があるだろう。
幽霊たちだって、毎日同じ行動を続けていたら飽きてしまう。客も然り、リピーターを獲得するには、趣向を変えていくか、新しい要素を足す必要がある。キャストはまだ足せるし、使っていない部屋も多い。なんなら丸ごと一つ使っていない棟がある。体育館は、どう使ったものだろう。
演出として、「後ろの真実」の社員として、まだまだ考えることは沢山ある。やるべきことも多いし、まともな会社として経営するなら二号店、三号店の展開だってあり得る。そうなったら私は副社長だろうか。代表があれだから、対外交渉は全面的に引き受けないといけないだろう。ただの若造なのだけれど、そうも言っていられない。
やれやれ、大変だ。
ほどよい充実感が心を満たす。先々の苦労は脇に置いておいて、とりあえず今は現状で稼ぐことが重要だ。それで実績を作ったら銀行から融資を受けて……
「こんにちは、オバサン」
思考を遮った声に顔を上げる。まだ次の客が来るには少し早いが。というか、その声と言い方は。
「小間じゃん」
「お久しぶりです」
にこやかな小間がエントランスに立っていた。咄嗟に警戒心がマックスになる。こいつが来るときはろくな目に遭っていない。
「なんでいるの。狐塚の復讐?」
「復讐? 何のことですか」
「何って……」
私たちが狐塚を殺したから。
そう言うことが正解かわからず、言葉を濁した。ひょっとして、小間は何も知らない?
「師匠があなたたちごときに殺されるわけないじゃないですか」
「そこまでワイは言うとらん」
小間の後ろから、半分金髪、半分黒髪の、アクセサリーをじゃらじゃらと身に着けた男がゆったりと現れた。
狐塚。
「あんた、どうして」
殺したはずだった。清隆が「鬼ごろし」を飲んで、肉体を破壊し尽くしたはずだ。それを、たしかにこの目で見ていた。
狐塚は戸惑う桜子の様子を愉快そうに見て、エントランスをずかずかと上がってくる。
「あれは変わり身っちゅうか、分身っちゅうか、人形なんや。本体は今、ここにあるワイ」
狐塚は自分の胸を指で突いてウィンクした。
「とはいえ、負けること見越しとったわけやないけどな。保険の保険としてかけとった仕掛けが功を奏したっちゅうことや」
「負けたことは認めるんですね」
「そうやな。あれは完璧にワイの負けやろ。まさか鬼をピンポイントで殺す手段を持っとるとは思わんかったわ」
「あなたが鬼だってこと、小間は知っているんですね」
「もちろん聞いていましたよ。それ込みで師事しています」
「鬼は人を食べるんだよ。それでも?」
「師匠のことを何も知らないで、推測で勝手なことを言わないでください」
小間の目が鋭くなる。桜子は、抱えていた違和感を吐き出すことにした。
「狐塚さん、あなた、人を殺したこと無いんじゃないですか」
狐塚が無表情になる。当たりを引いたと確信した。
「おかしかったんですよ。私を拘束したとき、殺してしまわない理由が無かった。悪霊に抑えさせるなんて面倒な真似はせず、さっさと私を殺して、後で食べるなり、遺体を処分するなり、すればよかったはずです。そうすれば、少なくともいくらかは手間が省けました。あなたは私を「後ろの真実」の核だと言うくらいには私を警戒していた。脱出されたときに厄介なことになると想像しなかったわけがありません。清隆さんたちと戦うときもそうです。自分のホームなのに、武器の一つも用意していなかった。素手に拘り、海人君も殺さず気絶させるに留めた。それで充分だと考えた、という説もありますが、どうにも舐め過ぎているような気がします」
桜子は受付の椅子から立ち上がり、狐塚の正面に歩み出る。
「あなたは、私たちのことを殺す気が無い」
無表情の小間と狐塚が、老木のように動かず桜子を見つめる。居心地の悪さを覚えながらも視線を外さずにいると、狐塚が唇を緩めた。
「正解や。ワイは人を殺したことも、食べたこともない鬼やねん」
小間が、言っちゃうんですか? と狐塚を見上げる。
「ええよ、もう話したっても。ワイはお祖母ちゃんっ子の鬼でな。人間に育てられた。いろんな術を教え込まれながら、普通の人間と同じように育ち、生きてきた。人間を食べたいと思ったことは一回もあらへん。あんたも知っとると思うけど、鬼は生まれつき強い力を持っとる。それを活かして、霊媒師として生きていくことにした。鬼でありながら妖を祓うっちゅう、まあ、ある意味よくある構図やな」
「よくあるんですか?」
「漫画とかではよくあるやろ。同族から見れば裏切り者やな。まあ、せやから、ワイは人間びいきの鬼やねん。人を守るために霊媒師をやっとる。だから、あんたらのやっとることは見過ごせんかったんや。悪霊を成仏も消滅もさせず、一般人に見える形でお化け屋敷なんてもんやっとるあんたらを。いくら管理しても、連中は元悪霊や。きっかけ一つでまた悪霊に戻る。そんな危険物を放置できんかった」
「じゃあ、また私を攫うんですか。まだ営業中なのでやめてほしいんですけど」
「いやいや、もうやらんよ。義務や責務と命を比べたとき、ワイは命を優先する
「小間はどうするんです? 連れて行くわけにもいかないでしょう」
「今は何でもオンラインの時代やで。ネット通話で修行をつけられる。大学生になれば、どこでも住めるやろしな」
ネット通話でつける修行というものがどういうものか、桜子には想像できなかったが、気にすることでもないか、と疑問を追いやった。
「清隆さんに会っていきます? そこの内線電話をかければすぐ飛んできますよ」
「あかんあかん。あかんよ。今は本体やねんから、殺されたら死んでまう。今日はあんたに挨拶に来ただけや。迷惑かけて悪かったな。もう会うこともないやろけど、何かあればよろしゅうな」
ほな、と、慌てたように出て行く姿を笑いながら眺めて、桜子は受付に座った。内線を取って、事務スペースの清隆にかける。
知らず、鼻歌を歌っていた。