黒装束の男が、秦景楓を呼んだ。最初反応が出来なかったが、この場で「お妃様」に該当するのは自分しかいない。忘れがちだが、自分は列記とした「男妃」だ、お妃様と呼ばれても可笑しくはない。
「はい、なんでしょうか」
「我が皇帝がお世話になっております。長らく治療をしてくれていたようで、感謝申し上げます。こちら、李公公殿からです。お受け取りください」
「差し入れ……? わざわざありがとうございます」
渡されたのは平たく黒い箱だ。重さは、まぁそこそこと言った所だろうか。一体何が入っているのだろうか、そう思っていると、口にせずとも黒装束の彼が答えた。
「服です。王宮に出向かれる際は、そちらをお召しになってください」
「え?」
そんな声が出て来たのも、無理はないだろう。
廃妃が王宮に出向くような事はないだろう。皇帝の御付がわざわざ服を見繕って渡してくるなんて、まず有り得ない立場だ。
「僕、廃妃ですけど……」
間違いではないのかと、恐る恐ると告げる。しかし彼は平然とした様子で首を縦に振る。
「えぇ、知っています」
「そ、そうですか……えっと、ありがたく頂戴いたしますね」
王宮に出向かれる際はというフレーズは、彼なりの冗談だったのだろう。そう思う事にして、秦景楓はそっとはにかんだ。
男は長く居座る事はせずに立ち去った。まるで瞬間移動をしているかのような身のこなしで窓から退散し、思わず「おぉ……」と感動の声が漏れ出る。
「ちょっと気になるな……」
いなくなって直ぐ、渡された服がどのようなモノか気になり箱を床に置いた。開けてみれば、なんとも仕立ての良い、白い布に金糸の刺繍がされた、見た目だけでも大分高そうな衣装だ。触ってみれば、更に分かる。無駄な突っかかりのないなめらかな肌触りに、全く薄っぺらくない生地、これは所謂「たっかいやん」だ。
しかも、畳み方ですら生地に気を使っているのだろうなと分かる丁寧さ。全体はしっかしと絹布に包まれていたし、これは高級品に間違いないだろう。
「なっ……しかもこれ、絶対たっかいヤツじゃん」
「まぁ、ある程度の値は付くだろうな。李公公は、贈り物に安物を選ばない」
「え、どうしよ、こんなん着る機会ないよ……」
思わぬ貰い物に戸惑う秦景楓。まさかこれを着て日曜大工をする訳あるまい。それでこそ天帝からの天罰が下される。日常使いをするようなモノでもない、それでこそ、廃妃という身分は一旦置いて、王宮に足を踏み入れる時に纏うべき格好だ。
困ったと眉を下げる秦景楓。
「ま、近い内に機会は来るだろう」
そんな彼に、簫司羽はたった一言そう告げ、窓の外を見た。既に夜は更け、真っ暗になった空に星月が輝いていた。
彼の含みある言葉に首を傾げたが、深くは追及しないでおいた。
(どうせいつか分かる事なら、今じゃなくてもいいや)
そう思って、あえて訊かなかった。
「秦景楓。明日から、俺は暫し王宮に戻る」
「ぅえ?」
本日何度目の間抜けな声だっただろうか。しかし、無理もないだろうそれはもう、突然のご発表だったのだから。驚く事くらいは許してやって欲しい。
まぁ、先程「政権」という言葉が聞こえたくらいだ。本人からの声明もなしに休み続けているせいで、大人達から訝しがられているのだろう。政治の事はよく知らなくとも、想像は容易い。
「そ、そっか。仕事に戻るんだね。分かったよ。頑張ってね」
これに関しては、一友達が何かを言うべきでもない。だから秦景楓は、微笑んでそれを応援した。
だが、簫司羽は文句ありげにジト目になった。もっと言うべき言葉があっただろうか、それともがんばれという言葉が嫌いなタイプの人間だったか、そう考えて手を固まらせる。考えても分からなかったから、本人に尋ねた。
「えっと、どうした?」
「なんでもない」
尋ねたら尋ねたで、ふいっと顔を逸らしてしまった。
なんだか、掴めない子どもを相手しているような感覚になりながら、秦景楓は貰った服を掛けるために自室に戻る。
「待て」
「ん、今度は何?」
呼び止められ、振り向いた。簫司羽はいつものような、見ようによっては不機嫌に見える表情で彼を見て、一つ付け足す。
「服をかけたら、戻って来い。俺は、暇だ」
その要望に、秦景楓は一瞬ぽかんとしたが、直ぐに彼の意図が分かって笑みを零す。
彼は、端的に言えば構ってほしいのだ。それでこそ、退屈をしている子どものように。先程のジト目も、本当はもっと行かないでとか言って欲しかったのだろう。
「あぁ、なるほど。うん、分かったよ」
彼の可愛らしさに、秦景楓の中のある訳のない母性本能か疼いた気がした。しわにならないよう服を掛けて戻って来ると、寝台横の椅子に座る。
「こっちに来い」
すると、自分の隣を叩いて催促してきた。寝台で彼の隣に座ると、どことなく満足気だ。
(簫司羽って、こんなに子どもっぽい奴だっけ? ふふっ、僕に心開いてくれたって事かな。それはそれで嬉しいなぁ……)
そんな彼に秦景楓はそんな風に呑気に思っていた。
明日帰らないといけないから、今のうちに楽しんで行こうという算段だろう。
「ねぇ、司雲。教えちゃダメな事だったら別に答えてくれないでいいんだけどさ。さっきの男の人、何て言ってたの?」
看病した吉見、という訳ではないが。訊いても大丈夫な気がして、秦景楓はそれを尋ねた。本人としては、修学旅行の夜に好きな人を訊くのと同じようなノリだった。
「まぁ、別に良いだろう。お前は知らお前ないだろが、叔父とその一味が長らく政権を狙ってきていてな。前代から小競り合いが続いていたのだが、今、奴は和念を皇帝にさせる事で、実権を我が物にしようとしているのだ」
「長らく休み過ぎてな、付け狙った簫凌派が、明日李公公と会談を申し込んできたそうだ。恐らく、そこで俺の不在を咎め、一時的に和念に代理をさせるよう申しこむだろう」
しかしまぁ、そのノリで尋ねたからと言って同じテンション感の回答が出される訳ではなかった。
「な、なるほど」
答えてくれた事を意外に思いながらも、如何にも皇族らしい政権争いの一部にどういった反応をするのが正解か分からず、微妙な返しになってしまう。
現皇帝が不在の今、その席を狙う絶好の機会だろう。
だが、お偉いさんの椅子取りゲームをしに嫌でも参加しないといけない立場の簫司羽だ。そんな彼に対して、友達である自分ができる事は、また遊びに来た時に最高のおもてなしを用意している事だろう。
そう考え、秦景楓は彼を慰めた。
「お偉いさんも大変だね。もしまた遊びに来るなら連絡してね、司雲の好きなご飯用意して待っているからね」
明日からの彼のモチベーションに、少しでも貢献できれば。そんな気持ちだった。