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【第十九章】弟帝様と男妃

 顧軒は男妃だ。とは言え、妃というのは肩書だけで、実際彼は皇帝の顔すらよく知らない。彼は後宮に顔を見せる事はないし、儀式の時ですら顔を隠している。いくら顧軒でも、見た事のない顔は覚えられない。

 しかし、そもそも彼はそんなにのは興味がない。そっちの趣味はないし、向こうがこちらに興味を微塵もないと言うのは寧ろ好都合なのだ。

 後宮の壁は割と簡単に超えられる。他の脚がか弱い女妃達には申し訳ないが、顧軒にとっては直ぐにだって遊びに行く事が出来きる。労働せずとも自分と、遠く離れた故郷にいる家族を養える程稼ぐことが出来る、とっても優良な仕事なのだ。

 しかし、今少それが揺らいだかもしれない。

「んー。小清、今のもう一回言ってくれるか?」

「は、はい」

 首を掻いた顧軒が視線を向ける。その先の凌清は、いつもの小清呼びを訂正する余裕もなく、おずおずと手にした書面に目を移し、再びその内容を告げた。

「皇帝様の弟君――簫和念様が、明日、顧軒様にお会いしたいようです。明日は予定を開けておくよう、お達しが来ております。恐らく、先程の儀式を見られての事だと思われます……」

 凌清が恐る恐るとしているのは、主の事を良く知っているからだろう。普通、妃の御付であれば、このような報告は嬉々として行うだろうし、いつもお淑やかにしている妃もここぞとばかりにガッツポーズをするに違いない。

 しかし、残念な事に顧軒は違う。男の趣味はない、ストレートだ。同い年の女の子、一緒にバカもしてくれるようなノリの良い奴がベストな、ごく普通の趣味の野郎だ。そう、野郎なのだ。

「まー、確実に迎秋祭だよなぁ。それって、俺側が拒否ったら問題になるやつだよなぁ?」

「ま、まぁ。噂では、弟君はお優しい少年であるとの事ですので、首が飛んだりはしないとは思いますが……断らない方が、賢明かとは……」

 顧軒は考えた。しかし、その弟君とやらは昼にやって来るそうだ。という事は、いきなりそう言う事を申し付けられる訳ではないだろう。

「そもそも、まだ妃として目ぇ付けられたかってのは分かんないしな……。よし、分かった。小清、明日はしっかり茶を淹れろよ。お偉方なんて、持て成せるだけ持て成して損はないんだから」

 話すだけ話してみて、細かい所はそこからだ。ただ友達になりたいとかだったら別になったって良いのだから。

 顧軒は明日に不安と、ちょっとしたワクワクを感じながら息を突く。

(皇帝様の弟君ねぇ……どんな御仁なんだろうな)

 これから出会う顔も知らぬお偉いさんを想像してみる。皇帝の血筋という事は紫色の髪である事は確実だ。まだ少年と言える年齢だと聞いた事があるし、政権争いを避ける為か、どうやらいつもは田舎の方にいるそうだ。これは、本人の意思らしい。

 加えて優しい人という噂まである。ここまでの噂から、嫌な奴ではないと予感はしている。

 いつも通り、凌清を五時に上がらせる。他の妃の御付は四六時中妃の傍に控えているようだが、凌清はまだ十五と言う年齢だ。子どもに夜中までの労働をしてもらう訳にはいかない。国としては認められているが、顧軒が嫌なのだ。

 とは言え、同じ宮の隣の部屋だから会いに行こうと思えば行けるし、どうしてもの用事があるなら直ぐに来てもらえる。なんなら、夜は主としてではなく隣人、もしくは友として顔を出してやる事もあるのだ。あまり家に帰ったという感じではないだろう。

 この宮はそんちょそこらの一軒家より狭く、サイズを例えるのであれば「一人暮らし用の戸建て」といったイメージだが、この一軒全体が顧軒の家。ついでに、凌清だけではなく顧軒の使用人は基本ここに住んでいる。

 顧軒はこう見えて、後宮では結構上の地位だ。どうやら、男妃というのは貴重で数が少ない分、王宮からしても大事にしたいみたいだ。数多といる女妃と比べて最初から優遇されているのだ。

 優遇されている、と言うのもあるが。まぁ男妃も男な訳だ。女の集合住宅にぶち込む訳にはいかないだろう。万が一でも男妃が女妃とそういう事をしようモノなら、それは後宮にとっては一大事だ。この後宮の隅の方という配置も、だからだろう。

(ついでに言えば、冷宮の直ぐ近くでもあるんだよなぁ)

 後宮の中で最も冷宮に近しい場所に位置する宮は、顧軒のこの家だろう。広い庭に一際高い壁一つ挟んであるが、直ぐ向こうが冷宮の女院か男院だ。

 顧軒はこの立地を「いつでもお前も冷宮にぶち込めるんだぞ」と言う脅しだと受け取っている。

「明後日にでも、会いに行ってみるか」

 勿論その壁に門の類は備え付けられていないが、屋根を伝って行けば簡単に向こうに入る事が出来るだろう。

(試しに、超えられそうかだけ見てみるか)

 ふと思い立った顧軒は、椅子方立ち上がり外に出る。他の使用人に悟られぬように、足音を鎮めて木の回廊出ると、柵に飛びのり、そこから屋根に飛ぶ。このように建造物の高所を飛び渡れば、簡単に壁の上にまで立てるのだ。

(さて、冷宮はどんな酷いもんなのかねぇ……)

 好奇心ついでに、顧軒は壁の上から中を覗き見た。

 しかし、そこに広がっている光景は、彼の想像とは全く違った。

「は、え……?!」

 真っ先に目に飛び込んだのは、庭に流れる川だろうか。おまけに自分の立っている真下辺りには、小さな滝まであるではないか。自然にある川を模したように、周囲には植物も植えられ、ゆっくりと茶でも飲めそうな亭もある。そして、なんと畑のようなモノまであるではないか。何が植えられているかはここからでは分からないが、しっかりと育っているであろう青々しい葉が伺える。全体的に、大人しくもありながらも居心地のいい庭を形成している。

 顧軒はその視線を段々と上げていき、全体を眺める。そうして目に映ったのは、北側の離れのような建物だ。中から湯気が漏れ出ているのを見る限り、あそこは風呂場なのだろうか。

 そうして、視線は向かい側の壁まで辿り着く。それが見えた時、顧軒は目を見開いた。

(待て、あそこ。壁が通れるようになっていないか……!? 男院と女院は繋がっていなかったはず、あれじゃ自由に行き来出来るじゃないか!)

 見えた光景の、全部が驚きだった。

 冷宮と言うのは、如何にもずさんな環境なはずだ。どうせ手入れなんてロクにしてないだろうから、雑草なんて生え放題だろう。まぁ、住む事になる以上雑草は抜くだろうが。顧軒だって、冷宮に入ったらまず庭の雑草を抜く所から始める。

 しかし、これは可笑しい。だって、こんなの庭造りガチ勢も良い所だろう? いや、ガチ勢だとしてもだ。冷宮にそんな資材があるのか? 申請して通るとも思えないし、そもそも申請をする権利すらないだろう。何せ冷宮は、名前を変えた牢獄みたいなモノのはずだから。

 驚きながら庭を眺めていると、離れから間を繋ぐ廊下に人影が出て来た。気付かれる前にと、顧軒は即座に壁から飛び降りて立ち去る。

「ん。今、誰かいなかった……?」

 そんな気配にほんの少しだけ気付いた秦景楓は、一瞬にして消えた気配に首を傾げていたのだった。



 次の日の朝、顧軒はやはり昨日の事が気になって、もう一度壁を登った。ワンチャン昨日のが夢の可能性もあったから。しかし、見えた光景は結局同じ、昨日の記憶とまんま一致する庭だ。

(やっぱり、見間違いじゃないよな。これ。かなり作り込んでいる)

(秦景楓、一体何者なんだ……?)

 彼の中に、好奇心と興味が湧きたった。

 それは、知りたいと言う欲求だ。秦景楓という男妃の存在、自分なら絶対もっと早くに友達になろうとしただろうに、顔も名前すら知らなかった数少ない男仲間。しかも、冷宮なんて場所でこんな整った庭を作った奴だ。これは、普通ではない。

 と、平然と壁に飛び乗れるような男が言えた事ではないかもしれないが。

(っと、起きて来た。朝早いな、畑があるからか)

 昨日は反射で逃げてしまったが、気付かれたって問題はないだろう。しかし、こうして壁の上で観察していると、なんだか悪い事をしている気分になる。

 そんな自分に内心微苦笑を浮かべていると、突如聞こえた鶏の声に一驚し、「おぁ」っとほんの少し声を漏らす。

 本当に微かな音だったはずだ。しかし、鶏舎に入ろうとしていた秦景楓はそれに反応するかのように、顧軒のいる方に振り向いた。

「あっ、顧軒!?」

「あ、気付かれた」

 顧軒は頬杖をついていた顔を上げ、笑みと共に手を振る。それに応えて秦景楓も手を上げ、壁の下まで歩み寄ってくる。

「こんな朝っぱらから何してるの? そんな簡単に壁登っちゃって」

「ははっ、まぁ散歩がてらな」

 ひょいと飛び降りて、秦景楓と顔を合わせる。

 約束の時間まではまだあるから、少し話すくらいであれば問題ないだろう。顧軒は地上の視点から改めて庭を眺め、「おお~」っと感嘆の声を漏らした。

「すっげぇな、お前。これ自分で作ったんか?」

 川沿いを歩き、しっかりと流れている水流に視線を流す。

 やはり、しっかりと川だ。一体どんな仕組みなのだろうか。気にならなかった訳ではないが、恐らく説明されても分からないだろうから、訊く事はしなかった。

「あ、うん。まぁ、僕がやってるね。桃源郷みたいなの目指してるんだ」

「おー、桃源郷か! いいな。ほんじゃあ、桃の木がないとな!」

「桃かぁ、育てられるかなぁ」

 秦景楓はむず痒そうに頬を掻き、微苦笑を浮かべる。

 そんなほんのり複雑そうな彼の反応に、顧軒は褒められ慣れていないのかなと解釈していたが、実際は違う。

(あー、どうしよ。凄く愛想のいい兄ちゃんで話しやすい……!)

 話してて楽しい反面、ポイントの事が頭の肩端にチラついて、素直に会話を出来ていなかったのだ。

 顧軒のような人間は、所謂陽キャの類だろう。しかも、ただテンションが高いだけど陽キャ「擬き」ではなく真なる陽キャだ。そう、話しててとても楽しい、友達に一人はほしい系統人間。話していると勝手に好感を持ってしまう。

 そりゃドラマでは正ヒーローな訳だ。秦景楓だって「秦景楓」なのだから、相性は良いに決まっている。普通に接していたら、自分の中での顧軒の好感度はうなぎ登りになる事間違いないだろうと。

 どうしようか悩みながらも、彼は上手くそれを隠せていた方だろう。

 少し話すと、顧軒は屋根を通して壁を越えて帰っていく。

「本当に、運動神経ヤバいな。びっくり人間かよ」

 壁ジャンプを出来る人間が現実にいるなんて。まぁ、言うて秦景楓もやろうと思えば出来るのだか。

 秦景楓は笑みを浮かべながら彼を見送り、壁の向こうに姿が消えると同時に振った手を降ろした。そうしてまた考え始めるのだが、鶏共の催促により一旦中止せざるを得なかった。

 相変わらずうるさ、ではなく。賑やかな鶏達に餌をやり、鶏舎の掃除諸々をしてやる。丁度よく卵もあったから、こっそりと拝借しておいた。

 その後、ふと気になった秦景楓は、ポイント履歴を表示する。

「ちょっと話しただけでマイナス五十かよ……っ!」

 見えた履歴に落胆し、さてどうするかと頭を悩ます。だが、それで解決策が見つかる訳もない。何故なら、不可抗力だからだ。

 秦景楓は重めのため息を突き、気を切り替えた。今日は青菜達の収穫をすると決めていたのだ、その作業に移ろう。

 そんな彼の気苦労は知らない顧軒は、見事な動きで屋敷の前庭に着地し、何事も無かったように部屋に戻る。

「あ、顧軒様! またどこか出かけていましたねっ、お出かけなさる時は事前に言ってくださいと、再三申しているでしょう!」

 すると、部屋でウロウロとした凌清が振り向き、プンプンとしながら詰め寄ってきた。

「ははっ、悪い悪い。ちょっと秦景楓の様子見に行ってたんだ」

「なるほど、秦景楓様にですか」

 という事は、冷宮のあの壁を超えたと言う事になるのだが。今更驚く事でもあるまい、顧軒の持ち前の運動神経による意図も容易い壁越えは、仕え始めた当初からの事だ。

 その事も含め、凌清は特に意外に思っている様子もなかった。

「そんな事よりです! 顧軒様、朝餉の準備が整いましたよ、早いトコ食べちゃってください。食器を片せません!」

「はいはーい、分かったよ。ほんじゃ、食いに行くか」

 食事の為に部屋を出て、彼等は居間へと向かう。顧軒の宮は他と違い、使用人や下男含め、基本皆でご飯を食べている。堅苦しい関係は顧軒の好みではないのだ、だから、どちらかと言えば同居人という表現の方が近しいかもしれない。

 自分含め、宮にいるのは十人ほど。身分問わず男達が円卓を囲い食事をするその光景は、一見後宮での光景には思われないだろう。談笑をしながら朝食を済ませ、下働きの者達は仕事に戻っていく。

 特に今日は、彼等は大忙しになる事だろう。何せ、皇帝の弟が訪問してくる日なのだから。チリ一つ残さず掃除をし、高貴な舌を満足させるような茶と茶菓子の準備が必要なのだ。

「頑張れよー」

 顧軒はそんな彼等に小さく手を振って見送ると、少し後ろに立っている凌清に視線を向ける。

「そんで、弟君はいつ頃に来るんだ?」

「はい、巳の刻との事です」

 巳の刻と言うと、大体午前十時くらいになる。要に、大体四時間後だ。

「了解。じゃあそれまで、大人しく待っているとするか……小清、部屋の掃除手伝ってくれないか?」

 流石に、そのたった四時間で「じゃあそれまで出かけていよう!」とは成らなかったようだ。顧軒は自室に引き返して、若干引きつった苦笑で言う。

 顧軒の部屋は、率直に言えば散らかっている。到底、皇族の御仁を招けるような部屋ではないのだ。故に、彼がこれからする事は決まっているようなモノだ。

「言われなくてもそのつもりです! いらっしゃるまでに、綺麗に整理整頓しておきますよ!」

「へいへーい」

 凌清の押しを軽くいなしながら、部屋の戸を開ける。扉一つ向こうには、汚部屋と言う程ではないが、様々な小物やら何やらが散乱している空間が広がっている。

「もう、おでかけなさる度に色々買ってくるから……」

「だって、欲しくなるんだもん」

 年下相手にジト目で刺され、誤魔化すように目を逸らす顧軒。しかし、出かける度にいらないモノを買ってくるのは事実だからか、反論はしなかった。

 さて、そうして二人は力を合わせて、この部屋を綺麗に整えた。その頃には時刻は大体午前九時、約束までの一時間の余裕を、顧軒は自室でどっしりと構えて待ち構えていた。

(実際、なんの用なんだか……色々と、それ次第なんだよなマジで……)

 緊張も抱えながら、進んで行く時を感じる。

 そうして十時の手前となった時、扉をノックした凌清が「いらっしゃいました」と控えめな声で伝えて来る。

 顧軒は小さく「っよし……」と声を漏らし、立ち上がりと同時に己の膝を叩く。

 そうして彼は、歩く流れで身なりを確認し、弟帝を出迎える為に宮の外へと出た。いつやって来ても問題ない、どんと来い! と、若干そうじゃない気合を入れたのと丁度だ、視界の端に、滅多にお目にかかれない鮮やかな紫色が映った。

 魅かれるように顔を向けると、そこには紫色の髪を持った若い少年が一人。きっと、この少年は数年後にはとんでもなく良い男になっているだろう。一目で意識を奪われそうになるその姿に、顧軒はほんの一瞬言葉を詰まらせてしまう。

「初めまして、顧軒殿。私は簫和念、今日は、個人的に貴方にお会いしたくやって来ました」

 そんな顧軒が挨拶するより先に、簫和念が先に声を掛けた。とても穏やかな笑みを見せた彼に、顧軒はしまったと焦りを覚える。こういう時、目下の自分が先に挨拶をすべきだっただろう。しかし、初手の失態を引きずっていると、印象は悪くなるばかりだ。急いで慣れない敬語で挨拶を返す。

「お初にお目にかかります、簫和念様。えっと、本日は、よ、よろしくお願いします……?」

 高貴な御仁に対する言葉使いが分からず、思わず疑問形のような口ぶりになってしまったが、簫和念がそれ等を気にしている素振りはなかった。

「はい。こちらこそ、よろしくお願いします」

「実は、先日の顧軒殿の催しを見て感銘を受けまして。私は音や舞に関しては覚えがあるのですが、武芸の方はそこそこで……是非、顧軒殿に教われたらなと思いまして」

 控えめな視線で相手を伺いながら願う簫和念を目に、顧軒は成程と頷いた。

 どうやら、危惧する必要はなかったようだ。弟帝様は遊芸を愛する者として、武芸も嗜みたくなっただけ。その教えを乞う相手がたまたま妃だっただけだろう。

 顧軒はそう判断して、迷う事無く彼の申し出を受け入れた。

「えぇ、俺でよろしければお教えしますよ」

 答えると、若干不安げだった簫和念の表情がパッと明るくなる。

「ありがとうございます! では、今日からよろしくお願いします。顧軒殿」

 見るからに喜んでくれているのが伝わる表情からは弟らしい愛嬌を感じ、顧軒は微かに頬を緩ませる。教えてくれと頼まれ、受け入れたら大袈裟だと思う程に喜ばれる、この感じ。商人時代の事を思いだす。武芸もそうだが、商売についても、教えを乞いたがる後輩同業者は何故だか沢山いた。

 そんな事を思いだしながらも、顧軒は微苦笑を浮かべて頬を掻く。

「顧軒と呼んでいただいて構いませんよ、殿なんて敬称が付けられる程大層な身分じゃありませんので。簫和念様のようなお方にそんな丁寧に接されると、むず痒いですし」

「ふふっ、そうですか。それならお言葉に甘えて、顧軒と呼ばせてもらいます。別に、私の事も和念と呼んでくれても構わないのですよ?」

 意地悪のような冗談のような、笑っている簫和念は嬉しそうだった。

「そんな事したら、不敬罪で俺の首が飛びますよ」

 笑い返した顧軒の言葉も、場の空気に合わせた軽い冗談ではあるが、半分ほどはガチでもある。実際、一介の妃が皇族を下の名前で呼び捨てにしようモノなら、次の朝日は拝めないだろう。

「大丈夫です、そんな事はさせないので」

 浮かべられた笑顔が本気なのか冗談なのか分からず、顧軒はとりあえず当たり障りのないような軽い一笑を返した。

 それから、顧軒は自分の宮の庭で、簫和念に剣舞を教え始める。

「それじゃあ、早速始めましょうか」

「よろしくお願いします。剣であれば、一応持ってきました。護身用の奴なのですが、全く使ってなくて。ほぼ飾り物状態だったのですけど、一応ちゃんとした剣です」

 彼が持参してきた剣は綺麗な状態で、使われた痕跡はあまりないが、手入れがしっかりとされているのが伺えた。同時に、かなり切れ味がいいであろう事も。

 しかし、いきなり真剣でやらせると言うのも危ない話だろう。もしお偉いさんに怪我をさせようモノなら、王宮から責任を問われるのは顧軒だ。だからまずは剣を模した木を使ってもらおうと、一介庭先で彼を待たせ、それを持ってくる。

 これは、前にこっそり城下町に出かけた時に思わず買ってしまった土産モノの木刀だ。凌清は若干目を輝かせていたが、理性で振り払ってまた叱って来た。その時は「またこんないらないモノを買って! 何に使うんですかこんなの!」と言われたが、まさか一年越しにこんな所に使うタイミングがあるとは思っていなかった。

「とりあえず、真剣だと危ないんでこれを使いましょう。勘で良いんでこれで、舞ってみてください。動きの癖とか、そういうのを一旦見せてもらって、教え方はそれから考えますんで」

「分かりました。では、僭越ながら。猿真似にはなりますが、お見せしますね」

 簫和念は剣を受け取ると微笑みを浮かべ、数歩離れてから舞を始める。

 ひらりと身を翻して、剣を振るう。

 剣の無い舞は出来るとの事だ、その技能に応用を利かせているのだろう。にしても器用な事だと、感心しながら簫和念の実演を観察している。

(しかし、武芸はそこそことか言っていた割に筋が良いな……流石、弟帝様という訳か。英才教育の賜物だな、知らんけど)

 曲線的な動きは優雅さを重視した、どちらかと言えば女性的な剣舞だ。

(秦景楓と同じタイプか、成程ね。まぁ、見た通りの印象だな)

 簫和念の体には、大人の男としての影があるが、それでもまだ少年の体付きだ。力強い漢らしい剣舞を見せてきたら、意外だと思ってしまうだろう。

 一頻り待った簫和念は、息を吐いて体の力を緩める。

「どうでしたか?」

 緊張気味に尋ねてくる彼に、顧軒はこれが授業である事を思いだす。

「はい、素晴らしかったですよ。動きもしなやかで、しかも剣の扱いも出来ていました。舞が充分に出来るからと言って剣舞が出来る訳ではないですし、その点、簫和念様は凄いと思います」

 これはヨイショなどではなく、本音からの称賛だった。

 実際凄い事だろう、勘違いされがちだが、絵が描けるからと言って漫画が描ける訳でない。それと同じだ。

 称賛を受け取った簫和念は頬を綻ばせて肩を揺らす。

「ふふ、そう言っていただけて嬉しいです」

「もっと教えていただけますか、顧軒」

 言葉の後ろに付け加えられた呼びかけ。その穏やかな声色に呼ばれ、何となく胸の中がむず痒くなった。しかし、今はそれを気にしている場合ではない。

「えぇ、勿論。方向性も分かりましたし、任せてくださいよ。簫和念様の満足のいくまでお付き合いしますよ」

 顧軒は、彼の笑みに応えて微笑みを見せた。それは、なんとなく居心地がいい時間だった。



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