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幕章・束の間の休日

第36話

世界樹に祝福された、素晴らしい朝。


「はぁ……朝が来た。この世界の太陽も気が早い……」


私は大欠伸をしながら、ベッドの中で背伸びをする。

引き延ばされたキャラメルのように体をくねらせ、贅沢なシーツの中で丸まったり伸びたり。

普通のエルフなら、日の出と共に目覚め、朝露に濡れた草原を駆け回るのが正しい生活様式らしい。

でも、あいにくこの私は「普通」という単語とは縁遠い存在なのだ。


「もう少し寝かせてよ……。ハイエルフの姫様も寝坊する権利くらいあるでしょ……」


窓から差し込む朝日は、「いつまで寝てるの?」と言わんばかりに、容赦なく私の顔を照らす。

世界で最も気の利かない目覚まし時計だ。しかも、スヌーズ機能すら付いていない。


「くそぉ……太陽さんも結構な暴君だ……」


前世では普通のOLだった私だが、この世界では高貴なるハイエルフの姫様である。

つまり、私には日の出と共に目覚め、優雅に朝を迎える義務があるわけだ。

誰が決めたルールかは知らないが、おそらく朝型人間の陰謀に違いない。


「これが運命ってやつか……でも私、運命より布団が好きなんだけどな」


そう呟きながら、私は渋々ベッドから這い出す。

華やかな寝室の調度品たちが、まるで「おはよう姫様」と言わんばかりに輝いている。

──まったく、朝から愛想が良すぎる。


「はぁ、起きましょうか」


ベッドから這い出した時、不意に背後で何かが動く気配を感じた。

布団の中で、何かがもぞもぞと蠢いている。


「ん……?」


私は背筋が凍るのを感じた。まさか……。

あの狂った兄様が、私の寝顔を眺めるために忍び込んでいたとか?

いや、もしかしてカフォンくん?可愛い弟が姉の隣で眠りたいと言って……いや、それはそれで色々とアウトだ。

額から冷や汗を流しながら、私はおそるおそる布団に手を伸ばす。

爆弾の導火線を切るかのような緊張感。もし本当に兄様だったら、この場で即座に引っ越しを決意しなければならない。


「せーの……」


意を決して布団をめくると──。


「──!」


白銀の石。そう、あの呪われた石ころが、まるで生きているかのようにもぞもぞと動いていた。

どうやらお兄様からの"愛の証"(押し付けられた邪悪な遺物)が、性懲りもなく私のベッドに潜り込んでいたらしい。


「はぁ……。いい加減にしてよ、この意味不明な石ころ!」


私は呆れた顔で石を手に取る。いつものように庭に投げ捨ててやろうと思った、その時。


『ちょっと……起きるの、遅すぎ……姫として……失格……』


石が、体調の悪い老人のようなカタコトの声で皮肉を言ってきた。


「……」


私は黙々と石を手に取る。

不気味な物体が喋り出したところで、私の中では想定内の出来事だ。

だって、これは狂気の兄から押し付けられた呪いの石だ。喋るどころか、踊り出しても驚かない。

でも、最近この石、随分と生意気になってきていないか?声もカタコトながら偉そうだし、私の起床時間にまで文句を言ってくる。


『この時間まで……寝てるとは……甘えてる……な』


いや、完全にムカつく。

これはもはや呪いの石じゃなくて、説教石だ。もしかして前世は厳格な軍事教官だったんじゃないだろうか。

私は石を握りしめながら、今日こそ遠くに投げ捨ててやろうと決意を固めた。


「……」


私は優雅に窓へと歩み寄る。

バレリーナのような軽やかなステップで。ハイエルフの姫として、その所作も優美でなければならない。

そう、全ては王族の嗜みとして────。


しかし次の瞬間。


「どっせぇぇい!!!」


私は前世で見た某メジャーリーガーの投球フォームを完璧に再現していた。

ハイエルフの姫の優雅さも何もあったものではない。石は美しい放物線を描きながら、朝もやの向こうへと消えていく。

哀れな石が風に消えていく。斜陽に消えゆく西部劇のヒーローのように。

いや、所詮ただの石ころだ。ヒーローでもなんでもない。


「ふぅ……」


私は息を切らしながら、窓辺で呟いた。


「お目覚めの時間について説教されるいわれはございません。ましてや一個の石ころごときに」


これでしばらくは平和な朝を──。

いや、そんな甘い期待は禁物だ。どうせまた私の枕元で、意味ありげな佇まいで待っているに違いない。

呪いとはそういうものだ。諦めが肝心である。


そうしていると穏やかなノックの音が、部屋の扉から響いてくる。

ノックの音は間違いなく、私の御付きのメイド、エスカテリーナだ。

どうやら、私にはノックの音だけで誰が来たのか分かる特殊能力が備わっているようだ。

兄や弟の持つ凶悪な能力に比べれば、子供のおもちゃのような能力だが。

まぁ、でもこの能力のおかげで、兄様の狂気に満ちたノックを事前に察知できるのだから、実は中々に便利な能力かもしれない。

まぁ、察知したところで何も出来ないのだが。


「姫様、おはようございます」


扉の向こうから、清楚な少女の声が響く。


「おはようございます、エスカテリーナ」


いつも通りの朝。いつも通りの挨拶。

兄は狂っているし、弟は危険な魔法使いだし、父は娘を政略の道具にしようとするし、石は勝手に喋るし。

この理不尽な世界の中で、エスカテリーナとの朝の挨拶だけが、私にとっての安らぎの時間なのだ。

今日もまた、普通じゃない一日が始まるのだろう。

でも、少なくともこの瞬間だけは、普通の朝なのだ。


「姫様、こちらをご覧くださいませ」

「はい?」


エスカテリーナはおもむろに、紙の束を取り出した。

私は悪い予感がする。というか、この展開はもう見慣れすぎて予感すら通り越している。


「姫様。今日も愛に飢えた哀れな紳士方からの、お見合いのご要望が山のように届いておりますわ。さぞかし、姫様の美貌に魅了された紳士方は眠れぬ夜を過ごしていることでしょう」


エスカテリーナは天使のような笑顔で、そう言った。


「えぇ……?」


私の忌まわしきお見合い地獄に、ついにエスカテリーナまで加担するようになってきたとは。

もしかして父に買収されたのだろうか。それとも単に私の七転八倒する姿を見て楽しんでいるだけなのか。

私の平和な朝は、束の間で色を失っていった。

エスカテリーナの手にある紙の束が、私の未来を嘲笑うかのように、バサバサと音を立てている。


「申し訳ございません、姫様。陛下より特命を受けまして……」


エスカテリーナは申し訳なさそうな顔をしながらも、どこか楽しげに微笑んでいる。


「お父様に買収されたの?それとも脅されたの?」

「いいえ、ただの忠実な下僕として、陛下の仰せを忠実に守っているだけでございます」


彼女は私の髪を丁寧に梳かしながら、器用にも片手で縁談書類をバサバサとめくっていく。


「ほら姫様、このノーブルエルフの貴族様をご覧ください。絵画から抜け出してきたような端正なお顔立ち。きっと行列のできる貴族様に違いありませんわ」

「そう?私にはどこかで見たような、いえ、どこでも見かけるような顔に見えるわ。これって絵画から抜け出してきたんじゃなくて、肖像画の画家が使い回している下絵じゃないの?」

「まぁ、姫様ったら。でも確かに……この方、先週お断りした貴族様とそっくりですわね。髪の色が違うだけで」


そうして幾つか縁談の書類を捲った時のこと。


「こちらのお方などは如何でしょう?まるで芸術品のような……」


エスカテリーナの言葉が途中で止まる。

そこに写っているのは、絵画から抜け出してきたような──いや、もう見慣れた顔だ。

金髪を腰まで伸ばし、整った顔立ち。そして写真の中から私を見つめる紅い瞳。


「……」


私は無言で写真を丸める。もう突っ込むのすら面倒くさい。

妹に結婚を迫る狂った兄の写真など、ゴミ箱行きが似合っている。

ポイっと投げた写真は、私の運動神経の欠如か、はたまた兄の呪いか、ゴミ箱の縁に当たって跳ね返る。

しかし、エスカテリーナはそれを予測していたかのように、スカートを翻して颯爽と駆け寄ると、足先で華麗にゴミ箱へと蹴り込んだ。


「さぁ姫様、着付けは完了いたしました。これで完璧な姫様が、さらに完璧という領域を超越なさいましたわ」


エスカテリーナは、芸術作品を完成させた画家のような満足げな表情で言う。


「ありがとう、エスカテリーナ。貴女の完璧すぎる腕前のおかげで、私はまた一段と非の打ち所のない人形に近付いてしまったわ」


私たちは、先ほどの兄の写真など見なかったかのように、いつも通りの会話を交わす。

狂った兄の話題を出せば面倒なことになるのは、もう経験済みだ。

それに私もエスカテリーナも、平和な朝の時間を台無しにしたくはない。

私はドレスを翻し、姿見の前で自らの姿を確認する。

鏡に映る私は、まさに童話から抜け出してきたかのような完璧な姫様だった。


(うーん、また完璧。完璧すぎて逆に欠点を探すのが趣味になりそう)


正直外見なんてどうでもいい。

それよりも、せめて兄の狂気から逃れられる程度の特殊能力が欲しかった。

ノックで人を判別できる程度の能力じゃなくて、もっと実用的な。

少なくともこの世界の理不尽さに対抗できるような力を……。


「はぁ……」


私が鏡に映る完璧な姿を眺めていると、エスカテリーナが唐突に爆弾を投下してきた。


「そういえば姫様、次はヴァンパイアの王子様との縁談があるとか。城中の噂になっておりますわ」

「え?あぁ、うん……。我が愛する父上が、また勝手に決めた政略結婚第二幕ね。前回の悲喜劇では飽き足らなかったみたい」


既に噂は城中に広まっているらしい。エルフの噂話の伝播速度は、光の速さに匹敵するものがあるようだ。

エルフの貴族とのお見合いも十分に迷惑な話だったが、少なくとも同じ種族なのだから価値観の違いはそこまでない。

──もちろん、我が狂った兄様は例外中の例外だが。


しかし異種族となると話は別だ。

それはつい先日のドワーフとのお見合いで、骨身に染みるほど実感したところ。

……まぁ、あの時は幸いにもカイナブル王子という、この狂った世界には似つかわしくない常識人に出会えて救われたけれど。


次のヴァンパイアの王子は一体どんな人物なのだろうか。正直、期待するだけ無駄な気がするのは私だけだろうか。


「ねぇ、エスカテリーナ。ヴァンパイアってどういう種族なの?」


私は何気なく尋ねた。しかし考えてみれば、この世界のヴァンパイアについて私は何も知らない。

前世の知識では、コウモリに変身して血を吸う種族、という漠然としたイメージしかない。

子供向けの絵本に出てくるようなファンタジックな存在だ。

しかし、エスカテリーナの表情が一瞬だけ曇る。


「ヴァンパイアでございますか……」


そして、言葉を選ぶように、ゆっくりと口を開き──。


「一言で言えば……残酷極まりない種族、とでも言いましょうか」


その言葉に、私の動きが止まった。

今までの軽やかな空気が、ガラスが割れるように砕け散る。


「ざ、残酷って?」


私の声は、自分でも気付かないうちに少し震えていた。

この世界での「残酷」という言葉の重みは、前世の比ではないのだろう。

恐らく、私の想像を遥かに超えた次元の残虐性を指しているに違いない。


「我らが仇敵……あぁ申し訳ございません。かつての仇敵であるドワーフとは、大戦中も一応の意思疎通は可能でした。まぁ、お互いを憎み合うための意思疎通ではございましたが」


彼女は周囲を警戒するように視線を巡らせ、私の耳元で囁いた。


「ヴァンパイアはですね……なんと申しましょうか。確かに我々と同じ言葉を話すのですが、深海の底から這い上がってきた何かと会話をしているような。そう、人の形をしているけれど、時には知的生命体と対話しているのかすら、疑わしくなるような……」

「な、なんですって……?」


私は思わず声を震わせる。

エスカテリーナの説明は曖昧すぎて具体的な恐怖が想像できないのに、なぜかその不気味さだけは痛いほど伝わってくる。

化け物というか、むしろ人型の何かというか……。

私が青ざめた表情を浮かべていると、エスカテリーナは慌てて言葉を続けた。


「あ、いえ、そんなにお怖がりになることはございませんよ、姫様!彼らは首を斬られても死なない不死の存在ですから、その……そう、生命というものへの理解が我々とは少し違うだけなんです。命を奪うことを全く気にしないのも、むしろ赤子のような純真さ、とも言えなくもない……かも?」


彼女の慌てた弁明が、逆に事態の深刻さを際立たせる。

首を斬られても死なない?命への理解が違う?

なんだそれは。前世の吸血鬼のイメージが、どんどん恐ろしいものに塗り替えられていく。


「その純真さで私の命を奪われても困るんだけど」


ドワーフとの戦いは、お互いを理解し、憎み合うための殺し合いだった。

真逆の価値観を持つ者同士の、皮肉めいた絆のようなものがそこにはあった。


でも、ヴァンパイアにはそれすらない。


感情という概念すら持たず、ただ純粋に──いや、空虚に命を奪うだけの存在。

その純粋さは、むしろ深淵のような恐怖を感じさせる。


「ヴァンパイアとの縁談、断ります」


私の断固とした声に、エスカテリーナの顔から血の気が引いた。


「ひ、姫様!私如きの拙い説明が原因でお見合いが中止になってしまいましたら、私の首が飛ぶ……いえ、私の存在そのものが抹消されてしまいます!そういった決断は、どうかセルシル様のせいにして……じゃなくて、セルシル様がいらっしゃる時にお願いいたします!」

「貴女、結構いい性格してるわね」


どうやらお見合いが中止になると、私ではなく周りの従者たちの首が飛ぶらしい。

なんとも理不尽な話だが……まぁ、この世界ではこれくらいの理不尽は日常茶飯事だ。

私は大きな溜息をつく。

この可愛らしい従者の命を救うためだけに、不気味な吸血鬼との縁談に向き合わなければならないとは。


「ヴァンパイアの王子ね……」


想像するだけで背筋が凍るが、エスカテリーナの首が飛ぶよりはマシだろう。

多分。

私は鏡に映る完璧な姿を見つめながら、これから始まる新たな地獄のお見合いに思いを馳せるのであった。


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