朝の着付けを終え、私は部屋を出る。
すると、そこには既に老執事のセルシルが佇んでいた。
彼は見事な仕草で頭を下げると、穏やかな声で告げる。
「おはようございます、姫様。本日は素晴らしい勉学の時間が待ち構えております。朝食後に知識を詰め込む準備を整えていただけますでしょうか」
「勉学……あぁ、そうでしたわね。私の大好きな時間よ」
まぁ嘘ですけど。
私は心の中で悲鳴を上げながら返事をする。
勉学──。
王族といえども……いや、むしろ王族だからこそ、完璧という名の重圧が私たちを押しつぶそうとする。
それはハイエルフの姫である私も例外ではなく、幼い頃から延々と家庭教師という名の拷問官に付き纏われてきた。
正直に言えば、私は勉強が得意なタイプではない。むしろ苦手の部類に入る。
いや、もっと正確に言えば、「苦手」という単語すら生易しすぎるかもしれない。
前世でもテスト前になると胃が痛くなるどころか、胃が消滅しそうになったものだ。
しかし、王族たるもの教養や知識を学ぶのは義務なのだ。だから私は、気が進まなくても毎日真面目に勉強に取り組んできた。
「本日は歴史学の講師、ダレス様がご指導くださるとのことです」
セルシルの言葉に、私は思わず眉を上げた。
(歴史か……)
今まではただの退屈な暗記科目としか思っていなかったけれど、ドワーフとのお見合い、そしてこれから控えているヴァンパイアとの縁談を考えると、少し見方が変わってくる。
今までは「エルフに関係ない事なんて知らなくていい」くらいの気持ちで聞き流してきたけれど、これからは違う。
他種族との付き合いが増えるなら、彼らの文化や歴史について知っておくのも悪くはないだろう。
──まぁ、お見合い相手が化け物じみた種族でなければ、という条件付きではあるけれど。
私はそんなことを考えながら、セルシルと共に食堂へと向かった。
♢ ♢ ♢
「ダレス様。今日はお聞きしたい事がございますの」
朝食を済ませた後、城の一室で私は教師に向かって切り出した。
私の前には一人の老人が座っている。
白髪を後ろで束ねた、見るからに物知りそうな男性だ。
しかし、その背筋は剣を突き立てたかのように真っ直ぐで、老人という言葉が似つかわしくない。
彼こそが私の講師の一人、ダレス。貴族階級のエルフ、ノーブルエルフの老人である。
「おや……これは珍しい。エルミア姫様からそのような申し出とは」
ダレスは柔和な笑みを浮かべながら言った。
何世紀もの時を生きてきた彼は、歴史や文化だけでなく、ありとあらゆる知識を持っている。
少なくとも私の中では、この国で最も博識な人物の一人として認識していた。
「お恥ずかしい話なのですが……私、この世界の他種族についてあまり詳しくなくて。先日成人してから、他種族からの縁談の話が来るようになりまして。このままでは教養のない姫様と思われてしまいそうなのです」
私が少し照れ臭そうに言うと、ダレスは目を細めて微笑んだ。
その表情には、深い慈愛が宿っている。
「ほう、縁談でございますか。姫様ももうそのようなお年になられたのですな。時が経つのは本当に早いもの。ワシも随分と老ける筈じゃ……」
彼は懐かしむような表情で言った。
その言葉には、何千年もの時を生きてきた者特有の、ゆったりとした響きがあった。
「国の中に目を向けるのは大事ですが、外に目を向けるのはより重要じゃ」
ダレスは懐かしむような目つきで、ゆっくりと語り始めた。
「エルフは長寿な種族故に、その長い歴史の中で閉じ籠りがちになってしまう。閉鎖的な空間で暮らしてきた者達が多いのじゃ。だからこそ、新たな種族との関わりが少ないのですな」
寿命か……。
そう言えば私の……いや、ハイエルフの寿命ってどれくらいなんだろう?
それすらも知らないなんて、なんとも情けない話だ。
「まぁ、しかし姫様が他の種族の事を知りたいとおっしゃるのは感心な事」
ダレスは穏やかな笑みを浮かべながら続ける。
「今までは他の種族とはあまり関わりがなかったのじゃろう?ワシらエルフは特に閉鎖的じゃからな。まぁ、年寄りの戯言だと思って聞いてくだされ」
彼はそう言うと、ゆっくりと語り始める。
「先ずはドワーフの歴史から語りましょうかのう」
ダレスは歴史という重みを背負ったような表情で語り始めた。
彼が語るのは、ドワーフという種族が如何にしてこの世界で生きて来たのか、その始まりと歴史だった。
「我らが女神に造られし原初の森人ハイエルフ。その対となる存在が地人グランドワーフ。両者ともその存在は神に近いとされておる。そして上位存在とも言える彼等は、女神の命により地上に降り立ち国家という枠組みを……」
♢ ♢ ♢
「……そう、まさにそれこそがイデオロギーの反発というよりも種族そのものの本能と言うべき反応。異なる種族の憎しみは憎悪となり、それが大戦争の引き金を引く事となったのですじゃ」
(はっ!わ、私は一体……!?)
私は突然、目が覚めた。なんとも素晴らしい目覚めっぷりである。
さすがハイエルフの姫、居眠りの仕方も一級品だ。
慌ててヨダレを拭う。これはきっと、高貴な姫様の分泌する神聖なる液体に違いない。
まだ寝ぼけ眼で周囲を見回すと、ダレス先生は相変わらず熱心に歴史を語っていた。
「そう、各種族が持つ存在論的イデオロギーの衝突は、その社会構造や倫理観の成熟如何に関わらず、魂の深層に刻まれた集合的無意識として顕在化し、それは遺伝子レベルの相違を超越した形而上学的な対立の様相を呈するのです……」
そうだ……私は他種族について学ぼうと、この博識な先生に教えを請うたのだった。
しかし途中から、古代語で書かれた詩のような難解な話になり、気がついたら夢の中だった。
簡潔に表現するなら……いや、正直に告白するなら。
(ク、クソつまんねぇ!)
この感想は、私の寿命が尽きるまで誰にも言えない。
いや、エルフの寿命を考えると永遠に秘密を守り通さなければならないわけだ。なんて素晴らしい。
しかし先生の話は、世界樹の年輪を一枚一枚数えているかのように冗長で退屈だ。
イデオロギーの反発?種族の本能?私の貧弱な脳みそでは、この深遠なる知識を理解することは叶わない。
(は、早く終わって……)
私は甘く見すぎていた。
歴史や種族の話なら、所詮は自分たちの事。だから簡単に理解できると思っていたのだが……。
ダレスの話は、予想以上に──いや、想像を絶するほどにつまらなかった。
そういえばそうだった。彼の講義は「眠気を誘う魔法」として有名なのだ。少なくとも、私の中では。
ああ、何故こんな事を自ら志願してしまったのか。
もはや同じ言語を話しているのかすら疑わしい彼の舌の運動を前に、私は自分の浅はかさを心の底から後悔していた。
「おぉ……もうこんな時間ですか」
死ぬ気で欠伸を抑え込んでいた私の耳に、天使の声のような言葉が響く。
ダレスはようやく時計に目を向け、そう呟いた。
や、やっと解放される……!
私は心の中で歓喜の雄叫びを上げながら、表面上は礼儀正しく微笑んで口を開く。
「流石はダレス様ですわ。貴方のような博識な御方にご教授頂けて、本当に勉強になりました」
私は完璧な嘘つき笑顔を浮かべながら言う。
この笑顔は、エルフ種族の中でも最高峰に位置するハイエルフの姫ならではの偽装技術である。
彼は私の言葉を聞くと、満足げな表情を浮かべた。
「姫様の御役に立てて恐悦至極でございます。よければまだ講義を続け──」
「いえもう結構です」
私は反射的に遮った。
これ以上続けられたら、私の精神は世界樹の葉っぱのようにバラバラに散ってしまう。
いや、それどころかエルフの寿命が尽きるまで延々と講義を聞かされる可能性だってある。
私の返事は、自分の命を守るかのように素早かった。
「そうですか、ではまた次の授業でお会いしましょうぞ」
ダレスは穏やかな笑みを浮かべながら扉に手を伸ばす。
──けれど、その手がドアノブに触れる直前、突如として彼の動きが止まった。
時が止まったかのように。
彼はゆっくりと振り返ると、妙に真剣な表情で私を見つめる。
「そう言えば姫様。次の縁談の相手はどなたで?」
「えっと……確かヴァンパイアの国の王子とお父様が仰っていましたが」
その瞬間。
ダレスの体から、噴水のように冷や汗が吹き出した。
彼の顔色が見る見るうちに青ざめ、全身が震え始める。
その姿は、死神を目撃したかのようだった。
──え、なにその反応?
彼の反応はエスカテリーナと同じどころか、むしろ数段上を行く激しさだ。
私、知らない間に「世界を滅ぼします」とでも宣言したんだろうか?
それとも「お兄様と結婚します」と言ってしまったとか?
「ヴ、ヴァンパイアの王子……?まさか、ルナフォール大公の……?」
ダレスの声は、幽霊でも見たかのように震えている。
その様子は、私が今まで見てきた博識で落ち着いた歴史学者の面影を微塵も感じさせない。
「ど、どうなさったのですか?顔色が悪いようですが……」
「ひ、姫様……王が決めた事に口を出す訳にはいきませんが……大公家の一族だけはやめといた方が……特にルナフォールは本物の化けも……あ、いや、なんでもありませんぞ」
ダレスは言葉を途中で切り、禁句を口にしそうになった子供のように慌てて口を押さえた。
私の身体がビクリと震える。
なんだその言い方は?どうして一番重要な部分で言葉を止めるの?
化けも……の続きは?
(ねぇ、全部言ってよ!なんで途中で止めるの!?)
(いや、なんとなく予想はつくけど!でも確信が持てないじゃない!?いやもう間違いないけど!!)
エスカテリーナの「知的生命体と会話してるのか疑わしい」という言葉と、この反応を合わせると、もう答えは見えている。
でも、それを確信してしまうのが怖い。
私の脳裏に、不気味なヴァンパイアの姿が浮かび上がる。
そして何より怖いのは、そんな化け──いや、そんな存在との縁談が既に決まってしまっているという事実だ。
「あ、あの……ダレス様?ちょっと今の説明を詳しく……」
「いやぁ姫様、ワシの講義は時間切れでございます!そうそう、次の講義ではヴァンパイアが大戦時に何億もの人間生きたまま解……あ、いや、なんでもございませんぞ!」
私は思わず目を見開く。
今、生きたままとかなんとか言いかけたよね?何で止めたの?続き聞きたいんですけど!?
「まぁその、ヴァンパイアはとても……その……他種族の血や内臓……あっ!いや、これも余計な話でございました!」
「内臓って!?なんで話を途中で止めるんですか!?続き気になるじゃないですか!」
ダレスは自分の口を両手で覆い、暴走する言葉を必死に抑え込もうとしていた。
「ねぇ!その全部の話の続き、聞かせてくれません?気になって夜も眠れなくなりそうなんですけど!」
「い、いけません!姫様の精神に悪影響が……何しろヴァンパイア共は人肉を……あ゛っ!」
ダレスは自分の舌を噛んで話を止めた。
もはや歴史学者の威厳も何もあったものではない。
「肉!?肉って何ですか!?ねぇ、お肉を何するんですか!?」
「さようなら!」
ダレスは扉を開け、お尻に火でも付いたかのような勢いで部屋を飛び出していった。
その背中からは「しまった、余計な事を言いすぎた」というオーラが漂っている。
「……」
私は一人、呆然と佇んでいた。
まぁこれ以上話を聞いても、どうせオチは教えてもらえないのだろう。
でも一つだけ確かな事がある。
──それは、私のお見合い相手は間違いなく、とんでもない化け物だという事だ。