棺が開く。
その動きは妙にゆっくりで、世界の時間が止まったかに感じられた。
そして、蓋が開いた瞬間、私の目に飛び込んできたのは──
「……!?!?!?」
赤黒い液体状のものがぐちゃぐちゃのマッシュポテトのような物体に塗れ、不定形の肉塊がまるでピンク色のプリンが溢れんばかりに、というか既に溢れていて、ぶよぶよした球体らしきものが潰れて弾けたかのような、半透明のゼリー状の物体が見えて──。まぁ、要するに放送禁止語句のオンパレードだということだ……。
そして、正確に言えば「見えた」だ。なぜなら次の瞬間、バタンと勢いよく棺の扉が閉められたから。
R指定ホラー映画の最も過激なシーンを、子供に見せないように慌てて映像を切り替えるかのような素早さだった。
「おっと失礼。まだ『再生』が終わっておりませんでした。少々お時間をいただければ、もう少しマシな姿でお目にかかれるかと」
再生?な、なにを言っているんだ彼らは……?
脳みそが理解を拒否している。先ほど見た光景を認識することすら拒んでいる。
──ってか、今のなに!?あのレーティング無視の映像は、なに!?
これはお見合いですよね?お見合いで相手の顔を見るのは基本中の基本ですが、「顔」という概念が存在しないものを見せられるとは思ってもみなかった。
それってつまり、あの不定形の肉塊が私のお見合い相手……?
「あ、あの……今の、奇妙な物体は……一体何です?」
私の表情はとてつもないことになっているだろう。
おそらく漫画の主人公がショックを受けた時のように、目が点になり、顔面が青ざめ、魂が半分抜け出しているような顔だ。
しかしヴァンパイアたちは素知らぬ振りで、突如として視線を彷徨わせた。「聞こえなかったことにしよう作戦」を一斉に実行しているかのように、全員が私の質問を完全スルー。
ヴァンパイアのメイドさんは、急に「この羽虫可愛いですね。まるで小さな蚊の赤ちゃんのようです」といい、近くを飛んでいた哀れな妖精さんを掴む。
執事さんは庭園の草に興味津々で眺め始めたりしている。「この花びらの造形、実に素晴らしい」とか「月光に照らされた露の輝き」とか、とにかく棺の中身には一切触れようとしない。
「姫様。突っ込んではなりません。スルーいたしましょう。そう、華麗に。『何も見なかった』という演技なら、この王宮で暮らす者たちは皆、名優でございます」
セルシルがそんなことを言ってきた。そりゃセルシルは他人事だからスルーしてもいいだろうが、私にとっては本人事なのだ。
スルーしてたら謎の物体とお見合いさせられることになるから私は必死なのだ。「お見合い相手が再生中」なんて状況を、どうやってスルーしろというのか。
私が人知れず震えていると、一人の執事がコンコンと棺を叩く。まるで「すみません、お届け物です」と言いに来た郵便配達員のような気軽な感じで。
「殿下。もうお身体は戻りましたか?お待ちになっている方がいらっしゃいますよ?エルフの姫様が大変美しい御方なので、早くお目にかかれますよう願っております」
すると、棺の中から小さな声が聞こえてくる……。
「も゛う゛……少゛し゛……」
え、今の声なんなん?もしかして棺桶の中の謎の物体が声を出したの?
液体と半固形物の混合物が喋った?科学的にありえなくない?
「全く、殿下も大人しくなさっていれば、大公様に肉塊にされずに済んだのに……また反抗したのでしょうね。いつもながら殿下の頑固さには手を焼きます」
「そうですわよね~。グチャグチャの状態で女性をお待たせするなんて、お恥ずかしいですわ。お見合いの日くらい大公様に歯向かわないようにと言ったのに」
「お見合い中にまた身体をこねくり回されないといいのですが」
何やらヴァンパイアの恐ろしい会話が聞こえてくる。
「肉塊」「グチャグチャ」「こねくり回す」「八つ裂き」──この単語の数々が、私の精神をさらに蝕んでいく。
結論:私のお見合い相手は現在「再生中」の肉塊である。そして彼は「大公様」という存在に「肉塊にされた」らしい。
「……」
──あ、やっぱヴァンパイアって、ヤバイ奴らだ。というか「ヤバイ」というレベルすら超えた、「ヤバすぎて新しい形容詞が必要」なレベルの存在だ。
エルフの常識がおかしいと思っていたけど、ヴァンパイアは常識がそもそも存在しない。彼らの世界では「肉塊になる」が「ちょっと風邪をひく」程度の出来事らしい。
その事実に思い至った瞬間、私は無言で棺桶に背を向け、我が愛しい家族が夕食を食べているテーブルへと歩き始める。
愛しいなんて言葉を使うなんて、よほど精神が疲弊しているのだろう。心の底から狂った家族と罵りたいところなのに。
ヴァンパイアの従者たちは首を傾げるが、私は構わずカフォンの横に座ると、いつの間にか用意されていた食事の前でナイフとフォークを優雅に手に持つ。
血まみれドレスと高級料理という、究極のミスマッチが成立する中、私は何事もなかったかのように振る舞う技術を発揮する。
「おや、姉さま。どうなされました」
カフォンくんが可愛らしくそう聞いてきた。血まみれの私の姿に何も言わない辺り、彼の感性は非常に独特のようだ。
「お姉ちゃんも、お腹空いてきちゃったわ。カフォン、貴方は何があっても私を守ってくれるのよね?もし誰かが私を肉塊にしようとしても?」
恐らく、これが最適解。カフォンという魔法の傘の下が、一番安全で、そしておそらく彼らの異常な立ち振る舞いこそがここでは常識なのだ。
そして、私の言葉にカフォンは満面の笑みを浮かべ、言った。
「えぇ、もちろん。もし、エル姉さまがこの世界を滅ぼしたいとか、全生物を殲滅したいと仰るのであれば、今すぐにでも皆殺しにしてさしあげましょう。姉さまのご希望なら、太陽も月も砕いて、海も陸も燃やし尽くし、この世界を終焉に導くことだって容易いことです……」
カフォンの小さな体から悍ましい魔力(的なもの。多分)が吹き上がる。
それはまるで真っ黒な炎のように揺らめき、彼の幼い体を包み込む。紅い瞳が妖しく輝き、かわいらしい顔は何の抵抗もなく全てをぶっ殺せると言わんばかりの無垢な笑顔に満ちている。
私は愛する弟のあまりにも邪悪なオーラに内心ではドン引きしていたが、にこやかに微笑むと、カフォンの身体を抱っこし、自分の膝に乗せる。血まみれのドレスが彼の衣服を汚してしまうことなど気にせずに。
彼はきょとんとしながらも、無抵抗に膝に抱かれる。その表情には「なぜ急に抱っこ?」という疑問と「でも嬉しい」という喜びが混在している。
「どうして単純な『守る』という概念が『皆殺し』に直結するのか謎だけど……心強いわ、カフォン」
私は苦々しい表情を隠し、愛らしい弟を撫でる。
彼の柔らかい金髪を指で梳きながら、かつてないほどに彼の存在を頼もしく感じていた。
「エルフの方々。棺桶はどこに置けばよろしいでしょうか?王子殿下が再生し終えたら、すぐにお見合いが始められるよう準備しておきたいのですが」
「あ、はいどうぞ。エルミア姫様の対面に置いてくれれば……そう、そこで結構です。できれば食事の邪魔にならないよう、少し斜めに…そうそう、完璧です」
愛しい弟とそんなやりとりを繰り広げていると、ヴァンパイアたちが重そうな棺桶を私の対面の席に置いてきた。レストランでテーブルをセッティングするような自然さで、棺桶を配膳している。
なお、それに対応しているのは我が頼りになる付き人セルシル。びくびく震えながら、棺桶の配置指示を出すという、おそらく彼の人生で二度とないであろう貴重な経験をしている。
──あぁ、見なかったことにしよう。これは全て幻。悪い夢。棺桶も、グチャグチャの中身も、全部私の妄想に違いない。
「安心しろ、俺がいる限り、お前には指一本触れさせねぇ……」
横では兄・アイガイオンがいつの間に抜刀したのか、禍々しく悍ましい赤黒い剣を掲げていた。
まず、兄の存在自体が全く安心できないのだが、とりあえず肉塊にされるよりは兄に頼った方がマシか、と私は思っていた。
「ヤバイ弟と変態兄と肉塊くん、どれがマシか?」という究極の選択を迫られているようなもので、もはや「正解」という概念は存在しない。
「そうだ……エルミアを奪おうとするやつは……ぶっ殺してやる!!」
兄が勢いよく叫び、剣をテーブルに突き刺した。それだけで悍ましい衝撃波(的なもの)が辺りに発生し、いつもの精神汚染が撒き散らかされる。
食器が踊り、グラスが震え、テーブルクロスが波打つ。そして何より、私の心が揺れる。
「な、なんと悍ましい剣……あれが、噂の魔剣……ルナフォール一族を何人と屠ってきたという禁断の剣か……」
ヴァンパイアたちは兄の剣の悍ましさに驚愕している。どうやら噂になるほど兄は有名らしい。
勿論悪い意味で。「ヴァンパイア大虐殺の主犯」みたいな感じで。
その時であった。
「……ん?」
今一瞬、棺桶がビクリと震えたような……。気のせいか?だってあの中には肉塊しかないのだし……。
「肉塊が震える」なんて物理的にありえないし、もしかしたら私の疲れた脳細胞が勝手に幻覚を見せているだけかもしれない。
私が棺桶に視線を向けていると、カフォンが口を開く。
「兄さま、雑魚ならその魔剣で即死させられるでしょうけど……ルナフォールのヴァンパイアは少し時間がかかると思いますよ。特にこの結界の中ではね」
可愛らしい少年の顔が、無表情になる。
その表情は幼い顔に似つかわしくない冷たさを帯び、紅い瞳は氷のように透き通っている。あどけない笑顔は消え、その代わりに「計算する殺人鬼」のような表情が浮かんでいた。
「そんな面倒なことをしなくても……自分から死にたくなるように仕向ければいいだけのこと……精神を破壊してしまえば、いくら肉体が再生しても意味がありませんから」
肩の力が抜けるほど可愛らしい弟の口から、とてつもなく残虐な言葉が紡がれる。その不釣り合いさが、より一層恐怖を際立たせる。
「……ん?」
再び、棺桶の震え始めた……。
さっきよりも激しく、まるで中で何かが暴れているかのような揺れ方だ。棺が置かれているテーブルごと震え始め、食器が小刻みに跳ねている。
なんだ……?今度はさっきよりも激しいな……。中で何が震えているんだろうか。もう肉塊ですらなくなって、液体になったのか?もしかして蒸発して気体になった?
それとも残念ながら「人間」に近い何かに戻りつつあるのか?
「タ……タス……ケテ……」
震えたような声が、棺桶から聞こえてくる。
その声は弱々しく、地の底から絞り出すように響いてくる。
え、なにこのホラー展開は。
もはや私の人生、恐怖映画の一場面と化している。血まみれの姫、肉塊の王子、魔剣を振りかざす兄、精神攻撃を提案する弟、酔っ払った国王、そして「助けて」と訴える棺桶。
(これは悪夢だ。悪夢……。ヤダ……もうヤダ……!)
本当の私は、今頃ふかふかの布団で寝ているんだ。そして「お見合いの日」なんて設定の悪夢を見ているだけなのだ。
目が覚めたら、いつも通りお姫様としての日常が──いや、そんな生温い希望ではなく、頼むから前世まで戻してくれ。
あの小さなアパートの狭いベッドで、明日の会社の仕事に震えていた日々が、今となっては天国のように思える。
「肉塊になる」「首が飛ぶ」「精神を壊す」なんて単語がない世界に戻りたい。いや、そもそも「魔法使い」「ヴァンパイア」といった単語すら存在しない、あの単調で平凡な日々が恋しい。
そして、棺桶がゆっくりと、開かれる──
その動きは、まるで時間が引き延ばされたかのように緩慢で、しかし確実に進んでいく。
蓋が開かれるにつれて、月の光が棺の中を照らし出していく。
そこに現れるものは──。