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第60話

月明かりに照らされる王城は、本来なら息を飲むほど美しいはずだった。

世界樹の恵みを受けたエルフの建築は、白銀の月光に包まれれば、幻想世界の入り口のように輝くのが正しい姿だ。


──そう。それが正しい姿だったはずなのに。


赤い月。異様に大きく、不気味に赤い月が天空を覆っている。

宮殿の白い壁は紅に染まり、噴水の水は血のように赤く、庭園の花々は真紅の色を帯びていた。

赤い月が放つ不自然な光は、王城全体に「ここは地獄です」と主張する巨大な看板を掲げたようなもの……非常にチープである。


普段なら真夜中には眠っているはずの妖精さんたちが、パニックに陥って城中を右往左往していた。

緊急事態には冷静に行動するというフェアリーマニュアルがあったとしても、彼女たちの頭の中ではそれが緊急事態にはキャーキャー騒いで走り回ると変換されているようだ。

同様に、エルフの従者たちも未曾有の事態に慌てふためいている。通常であれば静かに城内を見回り、清掃や準備をする彼らだが、今では「何かが起きている」という事実だけを認識し、実際には何をすべきかわからずに、妖精よりもマシな程度の冷静さで右往左往していた。


城の片隅では──


「ヴ、ヴァンパイアが攻めてきたに違いない!妖精防衛隊出動!」

「おー!」


花の蕾を兜に見立て、棘を抜いた薔薇の茎を槍代わりにし、アサガオの葉で作った楯を手に、妖精さんたちが「防衛隊」を組織していた。

完全に遊びの延長線上にある「兵隊さんごっこ」だが、彼女たちの表情はとても真剣だ。自分たちの存在がこの城の命運を左右するとでも信じているに違いない。

かわいいね。本当に。世界が滅びようとしている時でも、妖精さんの愛らしさだけは不変だ。


「これで悪い吸血鬼をやっつけるぞ!」

「えいえい、おー!」


しかも、彼女たちの「大将」と思しき、どんぐりの兜をかぶった妖精は、花の蜜を飲みすぎたのか千鳥足……いや、千鳥翅で浮いており、作戦図と称する木の葉に描かれた図は、三歳児のお絵かきレベルだ。

仮にこれが戦争だったとしたら、敵が嘲笑しながら一吹きで吹き飛ばすのは目に見えている。


「はぁ……」


そんな妖精防衛隊の横を、ひとりの血塗れの女性が通り過ぎていく。


──それは私、エルミア・アズルウッド。


「血塗れ姫」と呼ばれるようになったハイエルフの王女だ。まぁ、その呼び名は私が勝手に思いついたものだが、このドレス姿ではそう呼ばれても文句は言えまい。


「おぉ……あれが噂の妖精かぁ。珍しいなぁ」


スピラーレ王子が、世にも珍しい妖精さんの軍隊ごっこを見て感心したように言った。


「大昔は話が通じない狂った存在だって誰かが言ってたけど……成程、あれは話が通じないというか、子供すぎて話が嚙み合わなさそうな雰囲気ですねぇ……」


この深遠な観察を語ったのは、なんとも言えない状況下の王子——いや、正確には元・王子で現・生首とでも呼ぶべきか。

彼の発言は非常に的を射ているが、生首が話していること自体、妖精の軍隊ごっこよりよっぽど常識外れなのだが。

ちなみに今現在、私は彼の生首を両手で抱きかかえて、お城を巡っている。お見合い相手の首を持って自分の家を案内するという日が来るとは思わなかった……。


「エルフの国は珍しい光景でいっぱいですね。なんとも羨ましいばかり……」


ヴァンパイアの方々は何でも珍しいものが好きらしい。なるほど、妖精は珍しいだろう。

でも、血まみれのエルフの姫が、話す頭部だけのヴァンパイアを胸元で抱える光景の方が、少なくとも数千倍は珍しいと思うのだが。いや、数万倍か。いや、つーか歴史上初だろ?


「エルフの国では妖精さんが跋扈しているのは普通ですのよ。ヴァンパイアの国には妖精さんがいないんですのね」


私の言葉に、王子は考えるような素振りを見せた。生首が「考える素振り」をどうやって表現するのかは謎だが、目をキョロキョロさせながら言った。


「そうですね……ヴァンパイアの国では、妖精の代わりにコウモリと蚊が美しく優雅に空を飛び回っており、時折他種族に襲い掛かる……おっと失礼、なんでもありません。庭園はエルフの国と似通っておりますが、水ではなく血で育つ植物で、特に他種族の血を好む凶暴な植物が沢山生えて……おっと失礼、なんでもありません」


彼の言葉を聞いていると、ヴァンパイア王国観光ガイドブックの「絶対に書かれない」章を読まされているような気分になる。

なんだか恐ろしいことを聞いているような気がするが、私の長い長い耳はそれを華麗にスルー。日々繰り広げられる王宮での狂気イベントのおかげで、「恐怖」という感情を感じる神経がショートしているのだろう。

偉いぞ私のエルフ耳。あなたのおかげで私の精神は今日も平和だ。


「まぁ、それは素敵ですね」


全く頭に入っていないが、反射でそう言う私の口も大変偉い子だ。

多分私が眠っててもこの身体は勝手に「まぁ素敵ですわ」と答え続け、最高の社交人形として機能するに違いない。


「あの、ところで……」


私はちらりと後ろを振り向く。


そこには……


「ピィ」


——でっけぇ蚊が、羽音を立てながら浮遊し、私たちに付いてきていた。

ロイヤルモスキートのヴァスカリス・ルナブラッド・クリムゾンティアーズ三世だったか。正直彼(もしくは彼女)の名前を覚えている脳細胞があるだけでも驚きだが、覚えている必要もないだろう。

結局のところ、巨大な蚊は巨大な蚊であって、それ以外の何者でもない。「高貴な血筋の希少種」という説明書きがついていようと、人間の顔面サイズの吸血昆虫には変わりないのだ。


「その……この子はどうして私たちに付いてきて……?」


なんでついてくるの?つーか鳥かごに閉じ込められてたよな?いつの間に自由の身になったの?つーかつーか、今「ピィ」って鳴いた?蚊って鳴き声あるの?あるとしても「ピィ」じゃなくて「ブーン」とか「ギエェ」とかそういう鳴き声だろ?無駄に可愛らしい鳴き声するな、サイズだけでも十分恐怖なんだから。

その上でヒヨコみたいな鳴き方されると、私の脳内分類が混乱するじゃないか。


私が内心でツッコミを入れまくっていると、王子は可愛いペットを見るような暖かい眼差しを浮かべ、言った。


「きっとエルミア姫に懐いたんでしょう。もしくは血が美味しそうだと思ったからか……あ、いや、なんでも」


懐いた……だと?

虫が懐くという概念自体に驚きを隠せないが、仮にそんな感情がこの蚊にあったとしても全く嬉しくない。

魔法で生命を吹き込まれたぬいぐるみが懐いたと聞いたら喜ぶかもしれない。可愛らしい小動物が懐いたと言われたら舞い上がるかもしれない。


──でも「顔面サイズの化け物みたいな蚊が懐いた」という情報に喜びを見出せる精神構造が、この世に存在するだろうか?


しかも、もしくは血が美味しそうだからという、恐怖の頂点に位置する言葉をさらっと添えてくるあたり、ヴァンパイアと蚊の親和性を感じずにはいられない。


「そうですか。それは大変うれしゅうございますわ。マジで」


思っていることの真逆を口にする技術がこうも役立つ日が来るとは。

私の人生では「適当に社交辞令を放つ能力」が最も重宝されている。ハイエルフの姫となって初めて、「偽りの社交性」という能力の真価を理解できた気がする。


正直手で振り払いたいのだが、そんなことをしたら私の腕の骨が折れるか、そのまま腕に吸血されてミイラみたいになる光景が予想出来たので私は無視することにした。しかし、彼(もしくは彼女)の悍ましい羽音が爆音で私の耳から脳味噌を蹂躙し続けており、発狂寸前だ。

微弱な音も増幅される長耳は、ロイヤルモスキートの飛行音を王宮を襲うドラゴンの羽ばたきレベルに変換しているのだ……。


しかし、何とかして無視するしかない。だって、一応王子からの贈り物なんだし……。

贈り物を拒否すれば外交問題になってしまう。これが外交の厳しさというものか。


「なんだこの化け物!?みんなー!化け物が攻めてきたよ!きっとヴァンパイアの子分だ!」

「うえ、なにこのデッカイ蚊!?キモ!?」

「袋叩きにしてぶっ殺せー!」


先ほどの妖精さん防衛隊が巨大な蚊……ヴァスカリス(後ろの名前はもう忘れてしまったので省略することにする)に気付いて、一斉に襲い掛かってくる。

「妖精特殊部隊出動!」「悪の生物を排除せよ!」と勇ましい掛け声を上げながら、武器(らしき玩具)を振りかざす妖精さんたち。

いいぞ、そのまま妖精さんがこの虫を撲殺してくれたら妖精さんたちの責任にしてこの蚊から逃れられる。

「あっ、妖精さんたちが蚊を殺してしまいましたねぇ。まぁしょうがありませんわね」という台詞を既に頭の中で用意している私。

「不慮の事故」という美しい言葉の誕生である。


しかし……


「ピィピィ!」

「うぎゃあ!!」

「て、撤退!こいつ強いぞ!」


なんとも情けないことに、我らが眷属である妖精さんはヴァスカリスが細い脚を振り回しただけで、全員吹き飛ばされてしまう。

かわいらしさに定評のある妖精さんたちは、蚊一匹にすら勝てない程度の戦闘力しか持ち合わせていないわけだ。まぁ知ってたけど。


「いやぁ、ヴァスカリスと妖精が仲が良さそうで安心しました。密かに吸血して殺してしまうかな、と心配していたんですけど……大丈夫みたいだ」


王子の感性は非常に独特だ。今の光景を見て仲が良いと表現する辺り、カルネヴァーレ氏と血が繋がっていることが分かる。


そうして、私たちは王城に入る。

夜のエルフの王城は、溢れんばかりの華やかさで彩られていた。

銀の装飾が施された白い大理石の柱、月光を反射して輝く水晶のシャンデリア、そして足元を優しく照らす魔法の灯り——それらは今夜も相変わらず美しかった。

ただし、この優雅な光景に血塗れの姫と、彼女が抱えるヴァンパイアの生首という要素が加わることで、高級レストランの真ん中で半裸のゴブリンが踊り出すような不協和感を生み出していた。


「エルミア姫様、お帰りなさいませ。お見合いは……って、えっ!?」

「そ、その恰好は……?それに、そのお手に抱いておられる……その……その、生首らしきものは一体……?」


城のホールで私たちを出迎えたエルフのメイドさんたちが私に挨拶をしようと、お辞儀しようとするが、血まみれの私と腕の中に抱いている王子の生首を見て皆一斉に身体を硬直させる。

彼女たちの顔は「姫様がお相手と素敵な時間を過ごされて」という台詞を言おうとして止まった口の形で凍り付いていた。


「ごきげんよう皆さん。今、父や兄が『楽しく』ヴァンパイアの大公様と殺し合いの一歩手前まで……じゃなくて、昔話に花を咲かせておられているの。若い二人は邪魔だから消えろと言われたので、散歩の一環としてこうして王子の生首を王城観光に連れ出したというわけなんです」


私の口も、他の部位と同じくスラスラと嘘を吐けるようになった。昔話に花を咲かせると表現した私の家族と大公の会話は、実際には世界終末級の殺し合いに発展しそうな険悪ムードだったし、散歩と言った行為は逃走の美化表現だ。

エルフとして嘘をつく能力が、まるで筋肉のように鍛えられていく。段々と私の身体がこの世界に馴染んできたような気がするな?先祖代々引き継がれてきた「現実を美しく言い換える」遺伝子がついに目覚めたのかもしれない。


スピラーレ王子はエルフのメイドさんたちを見ると、コホンと咳ばらいをして、にこやかな笑みを浮かべた。


「初めまして。私、ルナフォール公国から来たスピラーレと申します。エルフの美麗なる王城の方々にお会いできて光栄です」


普通ならば、彼の甘いマスクにほだされ、女子はメロメロになってしまうだろう。彼の端正な顔立ちと優雅な物腰は、どんな女性の心も射止める矢のようだ。

しかし、生首の状態ではいくらイケメンでも台無しである。「こんにちは」と挨拶する生首という状況が、「イケメン」という概念をぶち壊すのに十分な破壊力を持っていた。

メイドさんたちの表情からは、綺麗な顔という事実と首だけという現実の間で激しい葛藤が起きていることが窺える。


「あ……その……それはとても、有意義だと、思いますわ。ヴァンパイアの王子様を首だけの状態でお連れするという画期的な観光アプローチ、姫様の発想は私たちの理解を超えておりますわねぇ」

「そうですわね。エルミア姫様とスピラーレ王子は歩いているだけでも絵になるというか……絵画というよりホラー劇のシーンっていうか……あ、いえなんでもありませんわ」


冷や汗を流しながらなんとか口を開こうとするメイドさんたち。彼女たちの表情には今すぐに気絶したいという願望が滲み出ている。

しどろもどろになりながらも、笑顔を浮かべようとするメイドさんたち。その顔には今夜泣きながら日記を書くぞという決意が見える。


しかし、その時だった。


「ピィ……ピィ……」


ブゥン……と悍ましい羽音を立てて私たちに付いてきた巨大な蚊、ヴァスカリスが姿を現す。

巨大な複眼が、メイドさんたちを写している。まるで「次の獲物を選別中」とでも言いたげな、ぎらぎらとした視線だ。


「!?」


その瞬間だった。

エルフのメイドさんたちが華麗に……というか、恥も外聞もなく逃走する。王城に火事が発生したと言われたかのような素早さで、彼女たちは四方八方に散っていく。

ドレスのすそを掴んで、王族に仕えるエルフの品位も何もかも忘れ去り、ただひたすら遠ざかる姿。

流石は、狂ったエルフの王族に仕えている一流の使用人たちだ。惚れ惚れするぜ……。

そうして、あっという間に、ホールに誰もいなくなる。さっきまで礼儀正しく出迎えていた従者たちが、まるで幻だったかのように消え失せた。


「あれ?皆さんどうしたんでしょうか?化け物を見たような表情で全力疾走していきましたが」


スピラーレ王子が首だけの状態で、純粋な疑問を口にする。皮肉なことに、彼自身が「化け物を見たような表情」を引き起こす側の人物だということに気づいていない。

まぁ正確に言うと、この光景を作り出したのは巨大な蚊だが。


「今、夜中の大運動会が開催されてますの。エルフの宮廷では真夜中になると全力で逃げ回るという伝統行事がありまして。普段動かない優雅なエルフたちが、突然発作的に全力疾走するという、まことに健康的な習慣なんです」

「へぇ……エルフの方々はなんとも独創的な文化をお持ちなのですねぇ」


私と王子のしょうもない会話が繰り広げられる中、ヴァスカリスの羽音だけが響いている。

その音は「ブーン、ブーン」と低く、まるで私たちの退屈な会話に「喋ってないで、さっさと行けよ」と急かしているかのようだった。


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