竜の国へ出発する、忌まわしき日の朝。
自室の鏡の前には、これから断頭台へ向かう悲劇の王女……もとい、死刑宣告を受けた囚人のような顔をした私が立っていた。
「これが……私の、地上における最後のまともな姿か……。次に鏡を見るときは、竜の胃袋の中か、魂だけの存在になってるんだ……うっうっ……」
そんな縁起でもない独り言を呟きながら、私は荷物入れに「最後の晩餐セット」ならぬ「竜の生贄セット」を詰め込んでいく。
まずは「竜に食べられる前に一気読みすべき恋愛小説100冊セット」。
そして、万が一、本当に万が一、私が帰らぬ者となった場合に備えての「遺書」。
その内容は9割が父と兄への積年の恨み言と呪詛の言葉で埋め尽くされ、残り1割はカフォンくんへの『私の分まで世界を滅ぼしてね』という破滅的な願いである。
あと、申し訳程度にセルシルへの「気絶しすぎると本当に死ぬわよ」という忠告も添えておいた。
我ながら、完璧な荷造りだ。これでいつ竜に食べられても悔いはない。……いや、大ありだ。ちくしょう。
「はぁ~っ……」
そして、私は荷物を無理やり押し込みながら、これからの地獄……いや、今後の展開に思いを馳せ、それはもう深々と、この星の核まで届きそうな溜息を吐いた。
「国外旅行なんて、前世でもろくにしたことなかったのに、まさか異世界での初体験が竜の生贄ツアーだなんて……。 でも、ほんの少しだけ、本当に針の先ほどだけ、外の世界を見てみたい気持ちもあるのよね……。 まあ、竜の胃袋の中からじゃ、景色もクソもないだろうけどさ」
この世界に転生してからというもの、私はこのエルフの国、アズルウッドから一歩も出たことがない。
初めての海外旅行が、まさかこんなデンジャラスなミッションだなんて、私の人生設計には一切なかった。
まぁ、この世界自体が常識という概念を粉砕するレベルでおかしいから、どうせ外国だって、ネジの外れたおかしなことになっているんだろうけど。
知ってるよ、もう期待なんてしてない。
そんな諦観に満ちた悟りの境地で、準備という名の、現実逃避を終えようとしていると、コンコン、と控えめなノックの音と共に、セルシルが部屋に入ってきた。
彼の顔色は相変わらず土気色だが、今日は幾分かマシに見える。きっと、昨日のキラキラ地獄&妖精テロの後遺症からは回復したのだろう。
「姫様、ご出発の準備は整いましたでしょうか」
「ええ、心の準備以外はね。セルシル、もし私が帰ってこなかったら、私の部屋の宝石(妖精たちが勝手に飾り付けたやつ)は貴方にあげるわ。換金して、老後の気絶生活の足しにでもなさい」
私の投げやりな言葉に、セルシルはいつものように困ったような、しかしどこか諦めたような表情を浮かべた後、思い出したかのように言った。
「そういえば姫様、今回の旅路のお供には、セーロス国王陛下とアイガイオン王子殿下がご一緒なされるとか……」
その言葉が私の鼓膜を震わせた瞬間、私の視界は一瞬にしてホワイトアウトし、脳が思考を放棄した。
白目を剥いて、そのまま背後の宝石まみれのベッドに卒倒しかけるのを、かろうじて最後の理性で踏みとどまる。
「なぜ!?なんで付いてくるの!?あの最終兵器コンビが!せっかくこの息苦しい国から出られると思ったのに、父上と兄様が一緒じゃ、場所が変わっただけのいつもの地獄じゃないの!!意味ないじゃん!!」
この国での私の悩みのタネ、その大半が父か兄絡みだというのに……。 それが同行するなんて、それはもはや「お見合い」ではなく、「移動式厄災展示会」とでも言うべきではないだろうか。
──ああ、私の胃が、またキリキリと悲鳴を上げ始めた。
「セルシル……竜に食べられる前に、私の胃がストレスで大穴を開けてしまいそうなんだけど、どうすればいいですかね?いっそ、このまま胃潰瘍で倒れた方が、竜の晩餐になるよりはマシな最期かしら?」
「おぉ、姫様、なんとおいたわしや……。この老いぼれが身代わりとなって竜の牙にかかりたいところでございますが、悲しいかな、竜はこの骨と皮ばかりの干からびた肉よりも、姫様の若々しく瑞々しいお肉を好むに違いございません……。ああ、なんという美食家なのでしょう、あのトカゲめは」
セルシルとそんな、もはや一周回ってコントのような会話を交わしながら、私は不意に疑問に思う。
「……そういえば、カフォンは?あの子は今回、お供してくれないの?私の最終破壊兵器がいないのは、地味に不安なんだけど」
その私の言葉に、セルシルも不可思議そうな表情を浮かべ、言った。
「どうやらそのようでございます。なんでも、妖精たちと『伝説の五つ葉のクローバーを探す会』の重要な活動があるとかで、残念ながら竜の国へは同行なさらないとか、なんとか……」
「なにそれ……。五つ葉のクローバー?世界征服?相変わらず、あの子の発想は斜め上をいって眩暈がするわ」
あからさまなカフォンの嘘、というか、もはや隠す気もない言い訳に呆れる。
しかし、珍しいこともあるものだ。普通なら、私の背後霊のようにぴったりと付いてきて、『エル姉さま、ご安心ください。竜なんて、僕が指パッチン一つで絶滅危惧種から完全消滅種にしてあげますね♡』とか、物騒な笑顔で言いそうなものだが……。
まぁいい……。悩みの種が一つ減る……というのは、いささか楽観的すぎるかもしれないが、少なくとも「弟による世界滅亡エンド」の可能性は少し遠のいた。
護衛的な役割である彼がいなくなるのも、それはそれで少し心細いが……しょうがない。
私は窓の外へと視線を移す。いつもと変わらない、しかしどこか不吉な予感を孕んだ王城の風景。
遠くで妖精たちが何かを燃やしているような煙が見えるのは、きっと気のせいだろう。うん、気のせいだ。
「はぁ……」
今日何度目になるか分からない、深くて重い溜息が、私の口からこぼれ落ちた。
♢ ♢ ♢
「なにこれは……」
王城の門に用意された、それを見て、私は呆然と呟いた。
馬車、と呼ぶにはあまりにも物々しい。黒鉄で覆われ、窓は申し訳程度のぞき穴しかなく、車輪に至っては戦車のキャタピラを彷彿とさせるゴツさだ。
これはもはや「馬車」ではなく、「移動式シェルター」あるいは「対ドラゴン用決戦兵器」とでも言うべき代物ではないだろうか。
こんなものに乗って「お見合いに行ってきまーす♡」なんて、どの口が言えるというのだ。
傍に控えていたエスカテリーナが、私のドン引きした表情を敏感に察知したのか、あるいは単にマニュアル通りの説明を始めたのか、いつもの涼やかな声で解説を始めた。
「姫様、こちらの馬車は『ヴォルカニック・チャリオット改』と申しまして、先日のドワーフの方々との技術交流の際に入手したドワーフ製の最新鋭の耐熱装甲馬車でございます。なんでも、とんでもない高熱にも耐えられる優れもので、仮に溶岩の中にダイブなされても、竜に炎の息を真正面から浴びせられても、この馬車だけは無傷でいられるそうですよ」
高熱耐久の馬車?素晴らしいじゃないか。 いや、それはいい。ちっともよくないけど。
でも、一つ基本的な疑問があるのだけれど。馬車が無事でも、中身のお姫様は、その超高温でこんがりジューシーな丸焼きになるじゃないのか?
それとも、この馬車には乗員保護機能とか、そういう素敵なオプションでも付いているのだろうか。ないだろうね。
というか、こんな戦車みたいな馬車に乗って行かなければならないほど、竜の国というのは危険地帯なのだろうか。
割とマジで、私の訪問は「お見合い」という名の、生贄の儀式なのでは……?
私がそんな恐ろしい想像に一人震えていると……。
「おぉ……これが噂のドワーフ製馬車かぁ。そこはかとなく、頑丈そうな気がするねぇ!これで竜の突進も安心だ!」
「そうかぁ?俺にはただの鉄の棺桶にしか見えんが……。まぁ、エルミアが中で蒸し焼きになる前に、俺が竜を解体してやるから問題ない」
背後から聞こえてきた、聞きたくもない声。振り返るまでもなく、我が愛すべき(棒読み)父上と兄上のご登場だ。
私は内心で「うわ来た」と盛大に顔をしかめたが、表面上はかろうじて平静を装う。
「うわ来た……じゃなくて、お父様、お兄様。一体全体、何故お二人が私にご同行なさるのか、私の貧弱な脳味噌では皆目見当も付きませんけれど、道中、どうぞよろしくお願い申し上げますわ。特に私が竜にカリッと香ばしく食べられそうになった暁には、お二人が率先して私の代わりに立派な肉壁……いえ、メインディッシュになってくださると、娘として、妹として、これ以上嬉しいことはございません」
ついつい本音という名の、溢れ出る毒を隠し切れない私の言葉に、父と兄はどこまでもにこやかに言う。
「なんかエルちゃんさぁ、最近ますます口が悪くなってきてない?なんか最初に『うわ来た、この世の終わりが二体も』とか、そういう感じの歓迎の言葉が聞こえたような気がするんだけど……」
「親父、何を言っているんだ。エルミアは昔からこうだろう。素直じゃないだけで、俺への熱烈な愛情表現は、この兄の心にしかと聞き遂げたぞ。それにエルミア。安心しろ、お前が竜に食べられるくらいなら、俺が先にその竜を晩餐にしてやる」
なんだか父と兄と会話していると、私まで彼らと同じカテゴリーの狂人にクラスチェンジしてしまいそうなので、私はその不毛な会話を華麗にスルーして、鉄の塊……もとい、馬車へと乗り込む。
屈強なエルフの従者が、何人もかかって、銀行の金庫室の扉でも開けるかのように、重そうに……本当に重そうに、扉をギギギと音を立てて開けると、私を丁重に中へとエスコートしてくれる。
その顔には「姫様、ご武運を……」という悲壮な覚悟が滲み出ているように見えたのは、きっと気のせいではないだろう。
「みんな、ごくろうさま……。私が帰ってくるまで、お城のこと、よろしく頼むわね。まあ、帰ってこれる保証なんて、竜の爪の先ほどもないけど」
そうして馬車の中に乗り込む私だが……。
「へぇ……外見は物々しいけど、結構中は豪華……って」
と言いかけた私だが、その言葉は途中で虚空へと消えた。豪華なベルベット張りの座席、磨き上げられたマホガニーのテーブル……その中央に、そこには当然のように、ヴァスカリスが特等席ゲットとばかりに鎮座していた。
「キミもついてくるんだ……」
まぁ、いいか。 この鉄の棺桶の中で、父と兄という二大巨頭の狂気に挟まれることに比べたら、巨大な蚊の一匹や二匹くらい、どうってことない。
むしろ、癒し枠かもしれない。できれば父と兄を吸い殺してくれるとありがたいが、流石にそこまでは望むまい……。
だが……現実はそんなに甘くなかった。
「姫さま!私たちも遊びに行くー!」
「ドラゴンをぶっ殺して、その血で蜜酒を作るのよ!」
どこからともなく現れた妖精さんたちが物騒なことを叫びながら、馬車の中に雪崩れ込んできた。
あっという間に、馬車の中は妖精たちの甲高い声と、キラキラした粉で満たされる。
「……」
私の脳裏に、「諦め」という名の白い鳩が、オリーブの枝ではなく辞表を咥えて飛んでいくのが見えた。
そして、そんな私の絶望を燃料にするかのように、父と兄が「いやー、久しぶりの家族旅行は楽しみだねぇ!」「エルミア、俺がお前のために竜の首を刎ねてやろう!」などと、うきうきで馬車に乗り込んでくる。
あっという間に、鉄の棺桶……もとい、最新鋭の耐熱装甲馬車の中は、高笑いと、シスコンの囁きと、巨大蚊の羽音と、妖精たちの甲高い奇声が入り乱れる、カオスという言葉すら生温い、阿鼻叫喚の地獄絵図へと変貌を遂げた。
それを見て、私は……。
「……」
視界がぐにゃりと歪み、耳鳴りがキーンと響き、立っていることすら困難なほどの強烈な眩暈を覚えた。
ああ、これが「現実逃避の最終形態」なのかもしれない。私の意識は、この耐え難い現実から逃れるように、静かにブラックアウトしていった──。