忌まわしき「竜の国への生贄ツアー」……もとい、お見合いの日が刻一刻と迫る中、私の神経はヴァイオリンの弦のように張り詰め、安らかな眠りなど訪れるはずもなかった。
自室のキラキラ地獄(妖精たちの残した輝かしい負の遺産)は、使用人さんたちの涙ぐましい努力の甲斐あって、なんとか「目が潰れるレベル」から「目がチカチカする程度」には改善されたものの、落ち着いて眠れる環境とは到底言えない。
「どうせ眠れないなら、少し夜風にでも当たった方がマシかしら……。まさか、このまま不眠不休で竜の晩餐になるわけにもいかないし」
私は音を立てないよう、そっとベッドを抜け出し、牢獄からの脱走者のように部屋を後にした。目指すは中庭。夜の静けさが、このささくれ立った心を少しでも癒してくれることを期待して。
「ん……?」
私が夜の闇に紛れて中庭へ向かおうとすると、いつの間にか巨大な影が私の後ろにぴたりと寄り添っていた。羽音一つ立てずに。
「ピィ」
ヴァスカリスだ。
「えーっと、もしかして護衛のつもり……?」
どうやら妖精さんたちによる「蚊将軍祭り」は一旦終了したらしく、花の冠も葉っぱのマントもどこかへ消え、いつもの威圧感満載の巨大蚊スタイルに戻っている。
彼(彼女?)が私の傍に静かに佇んでいるのを見ると、この不気味な巨体に奇妙な安心感を覚えてしまうのだから、私の感覚も相当麻痺してきたものだ。
そうして、私と物言わぬ……しかし存在感は抜群の護衛は、月明かりだけが頼りの薄暗く人気のない王城の廊下を抜け、ようやく中庭へとたどり着いた。
「うーん……なんか妙に静かね。嵐の前の静けさ、ってやつかしら」
ヴァスカリスが同意するように触角を揺らす。中庭はいつもと違う静寂に包まれており、月の光もどこか頼りない。
そうして、私と巨大な蚊……もはや相棒に近い何かを引き連れ、月明かりだけが頼りの中庭を散策していると──
「──おや。こんな夜更けに、夜露に濡れる一輪の華と相まみえるとは」
不意に、少年の声が、闇の中から聞こえてくる。 その声は鈴を転がすように澄んでいるが、どこか人を食ったような響きがある。
私とヴァスカリスが同時に、示し合わせたかのように声のした方を振り向いた。
庭の最も奥まった、普段は誰も寄り付かない木々に隠れた一角。そこに月光を浴びて幽霊のように佇んでいたのは、我が王城が誇る少年執事……。
カルタだ。
彼は、私がこの時間にこの場所へ来ることを完璧に予見していたかのように、静かに私を見ている。
「……カルタ?どうしたの、こんなところで。まさか、月に向かって『姫様の次の縁談相手がまともでありますように』なんて、叶わぬ願いでもしてくれてたのかな」
「いえいえ、私はただ、この庭の雑草共が夜陰に紛れて姫様の美しさを汚さぬよう、一本一本丁寧に引っこ抜いていたのですよ。真夜中の庭仕事は格別でございます。特に、誰にも邪魔されず、自分のペースで『雑草の命を刈り取る』作業に没頭できるのがたまりません」
その言葉に、私は胡散臭いものを見る目で首を傾げる。
彼が庭師としても仕事を掛け持ちしているのは知っていたが、こんな真夜中に、しかも嬉々として雑草を「刈り取っている」とは……。
なにか妙だ。 この少年、絶対何か企んでいる。
「あのね、カルタ。駄目じゃない、あなたはまだ育ち盛りの子供なんだから、こんな夜遅くまで起きてちゃ……って、貴方、本当に子供……よね?その、精神年齢とかじゃなくて、肉体年齢的な意味で」
自分で言ったことだが、全く自信がなくなってきた。 彼は見た目は子供だが、その言動は数千年くらい生きた皮肉屋の古狸なのだ。
それに、我が愛しの弟カフォンくんという、明らかに外見年齢と中身が釣り合っていない前例もいる……。
この世界は見た目で判断したら痛い目を見る、というより即死するから、気をつけないとね。
「いいえ姫様。私はただ、今宵の月が過去の血の色を思い出させるものですから、少々感傷に浸っておりました。月光が照らし出す庭園というのは、時に過去の亡霊を呼び覚ますものでございます」
「……?」
いまいち彼が何を言わんとしているのかは分からない。
──感傷?このちびっこ執事が?何かのポエムか?
「えーっと、それは……もしかしてあなたもカフォンくんと同じ類の……その……『実は何千年も生きてる系中二病ヤンデレエルフ』ってこと?だとしたら、そろそろ私の精神が限界なんだけど」
カルタは私の失礼極まりない皮肉を、そよ風のように柳に受け流し、優雅な笑みを崩さない。
「姫様、面白いものをお見せしましょう。こちらへどうぞ」
そう言い、彼は庭の隅にある、蔦にびっしりと覆われた、忘れ去られた秘密の入り口のような古びた扉へと私を誘う。
その手つきは、これから禁断の場所へ足を踏み入れる案内人のようで……。
「え……?」
なんだこの扉は……?こんなもの、今までこの庭にあったか?
異世界への入り口か?いや、この世界自体が異世界なのだが。
「さぁ、お手を」
私の手を取ると、カルタは慣れた手つきでその古びた扉を開ける。
そこには下へと続く石段と、カビと死の匂いが混じったような、ひんやりとした空気が漂う空間が広がっていた。
内部は月明かりすら届かないほど薄暗く、壁にはところどころ虫に食われた古びたタペストリーや、錆びてところどころ欠けた武具、そしてどれもこれも陰気で不幸そうな顔をした肖像画が並んでいる。
曰く付き、というより「呪いのアイテム展示場」とでも言った方がしっくりくる雰囲気だ。
「なんなのここ……王城にこんな肝試しスポットがあったなんて知らなかったんだけど……。ていうか、カルタはどうしてこんな場所を知ってるの?まさか夜な夜なここで黒魔術の儀式でもして、ストレス発散してるとか……?」
私の言葉に、カルタはいつもの胡散臭い微笑を浮かべるばかりで、何も答えない。 その沈黙が、逆に不気味さを増幅させる。
ヴァスカリスは、霊廟の入り口で「ピィ…(なんかヤバそう…)」とでも言いたげに少し躊躇うような素振りを見せたが、結局は忠犬(?)のように私の後を追って中に入ってきた。
薄暗がりで彼の巨大な複眼が、深海の提灯鮟鱇のように不気味に光る……。
なんかキミ怖がってるみたいだけど、怪物側の存在であろうキミを襲う奴なんてそうそういないと思われるから安心してくれ。
そうして、私はカルタの小さな手を、何故か無意識に固く握りしめ……薄気味悪い場所の奥へと導かれるようにしばらく歩いた先には……。
「……?」
ひときわ大きな禍々しいオーラを放つ石棺や、古代遺跡から発掘されたかのようなひび割れた巨大な鱗などが、これみよがしに展示されていた。
カルタは、曰く付きの呪物を紹介する闇のオークショニアのように、この場所に眠る品々を指し示しながら、ねっとりとした口調で語り始める……。
「こちらの巨大な鱗は、かつて我が国の英雄……と、もっぱら本人が自称していただけの、ただの大馬鹿者が、竜王をぶっころ……おっと失礼、華麗に討伐遊ばされ、記念品として持ち帰ったものでございます。まぁ、実際にはそこら辺に落ちていた竜の鱗を命からがら拾ってきただけ、というのがもっぱらの噂でございますが」
いきなり、なんだか血生臭い説明を始めるカルタに、私の足はピタリと止まった。
「そして、この豪華絢爛な石棺に眠るご先祖様は……栄えある竜のブレスでこんがりウェルダンに焼き上げられた後、名誉の戦死として、ここに丁重に祀られております。 竜の国では、今でも『エルフ風丸焼き~世界樹のハーブを添えて~』というメニュー名で、伝説の珍味として語り継がれているとか、いないとか」
カルタの淡々とした、しかし確実に毒が仕込まれた解説に、私の顔はひきつり、胃液が逆流しそうになる。
「あの、カルタくん?ここは一体……何の冗談?それとも、新しい拷問部屋の視察?」
「おっと失礼、まだ正式にご紹介しておりませんでしたね。この陰気臭く、カビ臭く、そして呪われし品々で満ち溢れた素敵な場所は、かつて竜とエルフが繰り広げた、血で血を洗う殺し合いの輝かしい記念碑……もとい、竜への底なしの恨みを未来永劫忘れないようにと、姫様のご先祖さまが多大な税金を投入して建立なさった、いわゆる霊廟というものでございますよ」
竜への恨み……?霊廟……?な、なんだそれは。初耳なんですけど……。
ということは、私のお見合いは、単なる迷惑千万な政略結婚を通り越して、数百年越しの「因縁の対決(ただし私は生贄枠で、たぶんメインディッシュ)」か?
ヴァスカリスは、巨大な鱗を見て、落ち着かない様子で羽音を立てている。
化け物なりに、本能的な何かを感じ取っているのかもしれない。単にこのカビ臭い空気が気に入らないだけかもしれないが。
カルタは私に向き直り、瞳の奥には珍しく真剣な、底意地の悪い光を宿して言った。
「──つまり姫様、今回のお見合いは、単なる顔合わせなどという生易しいものではございません。過去の血塗られた清算か、新たなる戦争の火種か……あるいは、姫様ご自身が『生きた供物』として竜の国に丁重に献上される、それはもう壮大で感動的な儀式なのかもしれませんね」
「……はぁ!?」
私の口から、お姫様らしからぬ間の抜けた声が漏れる。
──生きた供物?儀式?
それはつまり、私が竜の胃袋にダイレクトインする未来が確定しているということか……?
う、うそだ……なんでいきなりそんなことに……?
カルタは私の狼狽など意にも介さず、さらに言葉を続ける。
「竜の王子様が、姫様を『愛らしい花嫁』として見るか、『とろけるように美味しそうな晩餐』として見るか、あるいは『積年の恨みを晴らすための、絶好の人質兼サンドバッグ』として見るか……それは、神のみぞ知る、いえ、竜のみぞ知る、といったところでしょうか」
カルタの言葉は、鋭利な氷の刃のように私の心に突き刺さり、私は絶望で膝から崩れ落ちそうになるが、かろうじてハイエルフの姫としての最後の意地で必死に堪える。
「じ、冗談じゃないわ!別に私が竜を殺したわけでも、鱗をコレクションしたわけでもないのになんでやねん!?とんだとばっちりじゃないの!」
あまりの理不尽さに、ついつい前世の記憶の片隅に眠っていたはずの、謎の関西弁が飛び出してしまったが、私は悪くない。
悪いのは、こんな常識外れな縁談を組んだ父と、それを嬉々として解説するこの小さな毒舌執事だ。
「まぁ、姫様なら大丈夫でしょう。その類稀なる『巻き込まれ体質』と、周囲に不幸を振りまきつつご自身も不幸になるという、実に稀有な『負のカリスマ』をお持ちの姫様ならば、あの恐ろしい竜の王子様すら手玉に取れるかもしれません。いきなり美味しく丸呑みされる、という可能性も否定できませんが。どちらに転んでも、歴史に残るお見合いになることは間違いございませんね。私、今から記録係の準備をしておきますよ。タイトルは『エルフ姫、竜の胃袋大冒険~消化されるまでのカウントダウン~』あたりでいかがでしょう?」
カルタの、もはや芸術の域に達した最後の皮肉を聞きながら、私はこの薄暗くカビ臭い霊廟の冷たい空気の中で、自分の星の巡り合わせの悪さと、この世界の理不尽さを心の底から呪った。 ヴァスカリスが心配そうに私の顔を覗き込んでいる。その巨大な複眼に、絶望に染まった私の顔が映っているのが見えた。
「そ、そんなのってない……。私の人生、なんでいつもハードモードなのよ……」
遠くから、夜明けを告げる鳥の、のんきな鳴き声が微かに聞こえ始めた。
「それでは、竜の国に行ってらっしゃいませ、姫様。五体満足で帰ってきてくれることを、祈っております」
長く、そして不吉な夜が終わろうとしている。
だが私の本当の悪夢は、これから輝かしく幕を開けることを、私は嫌というほど予感していた──。