馬車が辺境の町の広場でゴトゴトと音を立てて停止する。
私は窓から見える、活気に満ちた穏やかな町の様子に、ほんの少しだけ……本当にほんの少しだけ、最後の希望を抱いていた。
(ここなら、きっと大丈夫……。王都から遠く離れたこの町なら、私も『普通』に過ごせる……はず!)
しかし、王家の紋章が刻まれた物々しい馬車の扉が開かれた瞬間、淡い期待は木っ端微塵に砕け散った。
市場の喧騒が誰かがスイッチを切ったかのように、ピタリと止む。談笑していた主婦も、品物を並べていた商人たちも、走り回っていた子供たちでさえ、全ての者がその場に凍りつき示し合わせたかのように、深く、深く頭を垂れたのだ。
シーン、と。
町は水を打ったような恐怖と畏敬に満ちた静寂に包まれる。
「──」
その瞬間、私は理解してしまった。
あ、駄目だこりゃ。
私……というか、この国の王族が振りまく威光(という名の悪評)は、この国の隅々にまで余すところなく広まっているようだ、と。
「やべぇ……」
心の中でかろうじて残っていた希望が、ガラスのように砕け散る音が、確かに聞こえた。
すると、私が「お願いだから馬車から出ないで!」と叫ぶよりも早く、父がひらりと馬車から降りてしまった。
「へぇ、ここが辺境の街かぁ。昔ここに対ドラゴン用の砦があったはずだけど、すっかり綺麗な街になったんだねぇ」
──などと、のんきな観光客のようなことを言いながら。
続いて兄も同じように
「懐かしいな。この場所で何十匹のドラゴンをぶっ殺したか分からねぇ。血の匂いが、まだこの土地に染み付いてやがるなぁ……」
──と、あまりにも物騒な追憶に浸りつつ優雅に、しかし言葉は蛮族そのもので、馬車から降りていく。
不穏な会話を聞いてしまった町の住民のエルフたちは、さらに青ざめ、だらだらと滝のような冷や汗を流しながら、それでも無言でただただ頭を下げ続けている。
その姿は、もはや「敬意」というより「命乞い」に近い。
(素晴らしいわ……。なんて見事な内政努力なのかしら……)
私は、馬車の中からその光景を眺め、感動で打ち震えていた。
これから竜の国にお見合いに行くというのに、その道中の町で「昔ここで竜を殺しまくったぜ!」と武勇伝を語り始めるこのセンス。
父と兄は、もしかしたら平和を憎んでいるのかもしれない。あるいは、ただの馬鹿か。たぶん両方なんだろう。
そして、私が馬車から降りた瞬間だった。
深く頭を垂れていた民衆たちが、私の姿を認めると、一斉に「エ、エルミア姫様だ!」「なんと……お美しい……」「噂通りの、慈悲深いお顔立ちだ……」と、顔をぱっと明るくしてくれたのだ。
その瞳には父や兄に向けられていた恐怖の色はなく、純粋なきらきらとした崇拝の眼差しが宿っている。
(……なるほど)
どうやら私は、この辺境の町に至るまで、あの狂人二匹とは全く別の生き物として認識されているらしい。
素晴らしいことである。私は心からの安堵を覚えた。
だがその安堵が続いたのは、わずか数秒のことだった。
私の後から、わらわらと妖精たちが馬車から飛び出し、そして、ぬっと巨大なヴァスカリスがその姿を現した瞬間、エルフたちの身体は魔法で石にされたかのように再び硬直する。
「わーい!人がいっぱいいるー!」
「みんな、姫さまのお友達?じゃあ、今からみんなで『ドラゴン退治ごっこ』をしよー!」
「私がドラゴン役ね!がおー!」
不吉で物騒な妖精たちの無邪気な声と、その背後で「ピィ~(低音)」と鳴きながら、巨大な複眼で民衆を品定めするかのように浮遊するヴァスカリスの姿。
その光景は、町の住民たちの理性の糸を断ち切るのに十分すぎたのだろう……。
「「「っ!!!」」」
一瞬の静寂の後、広場は阿鼻叫喚の地獄絵図と化した。エルフたちは、先ほどの敬虔な姿などなぐり捨て、我先にと、蜘蛛の子を散らすように全力で逃走していく。
果物屋の店主はリンゴをぶちまけながら、衛兵は己の剣を放り出して、母親は我が子を抱えて、皆、世界の終わりのような形相で、広場から去っていった。
「……」
あっという間に、人気がなくなった広場。
(ええ、そう……。分かってたよっ!!)
私はただ一人、その惨状の中心で天を仰いだ。
(私の人気、わずか三十秒で終わったね!素晴らしい!この記録、きっとギネスブック……じゃなくて、エルフの歴史書にも載らないだろうけどさ!!)
どうやら、この世界の常識では「姫様への敬意 < 巨大蚊と、何を考えてるか分からない妖精への恐怖」という不等式が成り立つらしい。
また一つ、賢くなった。
(それにしても、見事な逃げっぷり。みんな、なかなか優秀よね。危機管理能力だけは、最大って感じで)
私の脳裏にみんなの恐怖に引きつった顔が浮かぶ。
そして私は、この旅の真理を静かに悟るのであった。
──そう、この旅の本当の敵は、竜でも私の狂った家族でもない。
この、どうしようもないほどの「理不尽」そのものなのだ、と。
♢ ♢ ♢
「んん~、これはいい香りだ!」
父セーロスはふらりと町のパン屋に立ち寄ると、焼きたてのパンを片っ端からつまみ食いし始めた。
代金を払う気配など一切なく、恐怖で震え顔面蒼白になっている店主に向かって、「うめぇ~酒に合うパンだぁ~」と、実に満足げな笑みを浮かべている。
その姿は「王」というより、ただの「食い逃げ常習犯の酔っぱらい」にしか見えないのは気のせいではないだろう。
(ああ、もう……!誰かこの人を止めて!つーか止めれるの私しかいねぇな!)
私は威厳のない(そして、普通に犯罪である)光景に、めまいを覚えながらも、近くにいた、やたらと筋肉質な黒鎧の騎士にそっと声をかけた。
「あの。悪いけど、あそこのパン屋さんに、代金をお支払いしてきてちょうだい。そうね、迷惑料も兼ねて、代金の三倍くらい。国庫から出すから気にしないでいいわ」
私の言葉に無表情な騎士は「はっ」と短く応えると、任務を遂行する暗殺者のように静かにパン屋へと向かっていった。
その背中を見送りながら私は深々と、それはもう深々と溜息を吐くしかなかった。
そして私の気苦労など露知らず次に父が目をつけたのは広場の隅で花を売っていた、いかにも可憐なエルフの町娘だった。
「キミ可愛いね~♡どこ住み?年齢は?趣味は?ちなみに、超越種のこと、どう思う?」
父は酔っぱらい特有の呂律の回らない口調で意味不明な質問を矢継ぎ早に浴びせかけ、じりじりと町娘に詰め寄っていく。
完全に、たちの悪い酔っぱらいのナンパだ。その姿に、私の脳天を、金槌で殴られたかのような強烈な眩暈が襲った。
(もう……もう、我慢の限界じゃ!)
私は横に侍っているガチムチの黒鎧の騎士に冷静さをかなぐり捨てて命令した。
「あなた!今すぐ、あそこにいる我が国の威厳を地に落とすクソ野郎……じゃなくて、酔っぱらいを全力で蹴り飛ばしなさい!」
しかしいくら私の命令とはいえ、一国の王を蹴り飛ばすなど、騎士の忠誠心が許さなかったのだろう。
彼は「ひ、姫様、しかしそれは……国王陛下に……」と、明らかに躊躇している。
その姿に、私の堪忍袋の緒は、見事にぷつりと切れた。
──その筋肉は飾りか!?
「超越種権限!これは命令です!あのクソ酔っぱらいを今すぐ蹴り飛ばして、我が国の民を、この悪夢のようなロイヤルハラスメントナンパから救うのよ!」
私の悲鳴に近い命令を聞いた瞬間、騎士の身体がビクンと跳ねた。
彼の意思とは無関係に、ハイエルフの絶対命令権限によって鍛え上げられた脚が強制的に動き出す。
そして完璧なフォームで放たれた強力な蹴りが、父の脇腹に見事にクリーンヒットした。
「ぐへぇ!?」
父はカエルのような奇声を発しながら綺麗な放物線を描いて宙を舞い、近くにあった干し草の山へと見事に着地した。
「ふぅ……危なかったわ。大丈夫?怪我はない?」
父が視界から消えたことを確認し、私は恐怖で震える町娘に駆け寄る。すると彼女は、私の腕に、救いを求めるように縋りついてきた。
「ひっ……ひぃ……あ、ありがとうございます、姫様……」
その様子を見て私は深々と今日一番の溜息を吐く。私の主な仕事は、どうやら「国政」ではなく、「父の奇行の後始末」らしい。
だが、私の災難は、まだまだ、まだまだ続く──
「──嫌な予感!」
もはや私の第六感は「嫌な予感」を察知することに特化してしまったらしい。なんだこの無駄な能力は。
きっと命に関わるような本当の危険は一切察知できないくせに、これから起こる面倒事や精神を削られるような出来事だけは、ひしひしと感じ取ってしまうタイプの、最高にゴミな能力に違いない。
私がその嫌な予感のする方角を、恐る恐る振り向くと──案の定、そこにはキラキラと光の粉を撒き散らしながら、純粋な善意で町を破壊する愛らしいテロリストたちの姿があった。
「この噴水なんかつまらないねぇ。そうだ、私たちの魔法で、みんなが喜ぶように炭酸水にしてあげようよ!」
「それいいね!ついでにオレンジジュース味もつけてあげる!これでみんなハッピーね!」
「あ、そこのお兄さん!キミの髪、なんか地味だね。そんなんじゃ女の子にモテないよ。私が魔法で、情熱的な真っ赤な髪の色にしてあげる~」
町の美しい噴水は次の瞬間には甘ったるいオレンジソーダを噴き上げ始め、近くにいた純朴なエルフの青年は本人の意思とは無関係に燃えるような赤髪へと変貌を遂げていた。
その光景を前に、私は言葉を失い、ただただ、絶句して──