目の前にいるのは、おとぎ話の教科書から抜け出してきたかのような見事なまでの低級モンスターだった。
(あ、あれは……!?)
病んだ苔色の肌、卑しい光を宿す黒い瞳、ぼろ布の腰巻きに、とりあえず武器であれば何でもいいと拾ってきたであろう棍棒。
その醜い顔に浮かべた下卑た笑みまで、あまりにも完璧な……。
そう……。
ゴブリンだ!
その姿はある意味芸術的である!
ファンタジー世界のテンプレートを律儀に守る存在を、私は鉄の棺桶……もとい、馬車の窓から、呆然と見つめていた。
「あ……あれはまさか……ゴブリン!?」
なんということだろう。この世界に、魔物などという存在が生き残っていたとは。
正直なところ、私はとっくに絶滅したものとばかり思っていた。
だってそうでしょう?
この狂った世界では、「恐ろしい怪物」のポストは、すでに私の家族で満員御礼なのだから。
兄のような、気分次第で種族を殲滅しかねない歩く妹愛が重い大量破壊兵器や、カフォンのような、指パッチン一つで世界を無に帰す正真正銘の魔王が闊歩するこの大地で、ゴブリン程度の小物モンスターが生き残れる生態系の隙間なんて、あるはずがない。
彼らの存在は奇跡に近い。というか尊敬に値する。地獄のような環境で、よくぞまぁ健気に生きているものだ。その生存戦略、ぜひとも教えていただきたい。
しかし、あの哀れなゴブリンは一体どのような最期を迎えるのだろう。兄に発見されて串刺しにされるのか、それとも屈強なエルフの騎士たち(見た目はオーガ)に、腕相撲の練習台にされて首をへし折られるのか……。
私がゴブリンくんのあまりにも不憫な最期を想像して心の中でそっと手を合わせていると……。
「あ、ゴブリンだ」
「おーい元気ー?」
馬車から飛び出していた妖精さんたちがゴブリンに向かって親しげに手を振った。すると、ゴブリンは「おう」とでも言うように、棍棒を片手に持ち上げて手を振り返し、そしてそのまま、我々の馬車が通りやすいようにそそくさと道を開けたのだ。
護衛であるはずのエルフの騎士たちも、それが当たり前かのような無反応。父と兄に至っては、ゴブリンの存在にすら気づいていないのか、全くの無関心である。
「え……?」
なんだ、この反応?あれは魔物ではないの?道端の案山子か何かなの?敵じゃないの?
私が平和的交流に脳の処理が追い付かず、ただただ首を傾げていると……。
「ん~?エルちゃんはゴブリンを見るの初めてだったっけ~?」
私の困惑を見かねてか、父が酔っぱらって赤くなった顔でにへらと笑いながらそんなことを言ってきた。
「ゴブリンは妖精の一種で、エルフの眷属なんだよ~♡ほら、可愛いだろ?あの顔……」
「え……け、眷属……?」
私の口から、絞り出すような声が漏れた。
嘘だろ?今、この酔っぱらいは何て言った?
──眷属?
私の脳内で、警報がけたたましく鳴り響く。だって、あのどう見てもRPGの序盤に出てきて経験値稼ぎのために乱獲される運命にあるであろう、雑魚モンスターが……私たちの、眷属?ペットか何かだって?
つーことはつまり、あれの親玉は私たちエルフってこと!?
え、じゃあ何?私たちは「ゴブリンの洞窟」の最奥で待ち構えているボスキャラか何か?
──なんという世界観の崩壊。私の知っているファンタジーの常識が、今、ガラガラと音を立てて崩れていく。
そして、私がこの世界の常識についていけず、一人脳内で混乱していると兄が不意にしみじみとした口調で妙なことを言い出した。
「戦争の時には、俺の部下にも沢山ゴブリンがいた。奴らは勇敢で、俺の為に命を投げ打ってくれる真の戦士たちだったが……みんな殺されちまった。ち、嫌なことを思い出すぜ」
……ゴブリンの評価、やけに高くない!?
私の知る限り、妖精さんたちの扱いは「うるさい虫ケラ」レベルだったはずなのに!兄の中の評価ランキング、妖精さんぶっちぎりで最下位じゃねぇか!
私は少しだけ妖精さんたちに同情した。あの可愛らしい頭のネジが数本どころか全部抜けている存在が、ゴブリン以下だなんて。いくらなんでも、あんまりではないだろうか。
しかし、そんな私の同情は馬車の外から聞こえてきた知性を感じさせない会話によって、0.2秒で霧散した。
「ねぇねぇ、どうしてお空は青いのかな?」
「さぁ?きっと、地面が緑色だからじゃない?全部緑だと、目が疲れちゃうでしょ」
「そっかー!頭イイー!」
やっぱり、こいつら最底辺だ。ゴブリンに謝罪したい。
──そして。
ゴブリンとの心温まる(?)遭遇を終えた馬車は、なだらかな平原を抜け、より険しい山道へと入っていく。
車窓から見える景色は、鬱蒼とした森から、岩肌が剥き出しになった荒涼とした山々へと変わっていた。しかし寂しげだが壮大な光景に、私は竜の国へ向かう不安をほんの少しだけ忘れ、心を奪われるのだった。
馬車に揺られること、幾許か。
車内では父が本格的に酔いつぶれて、王としての威厳など微塵も感じさせない寝息を立てており、兄は飽きもせず手鏡で髪の一本一本を入念に手入れしている。
妖精たちも、あれだけ大騒ぎしたのだから当然だろう、遊び疲れて馬車の隅で小さな寝息を立てていた。天井を見上げればヴァスカリスが、巨大な蜘蛛のように張り付いて静止している。
(……珍しく平和だ)
私は奇跡的な静けさに束の間の安らぎを感じていた。
酔っぱらいと、ナルシストと、害虫(妖精)と、益虫(巨大蚊)が、それぞれおとなしくしている。
ただそれだけのことが、これほどまでに尊い時間だなんて。私の「平和」の基準点は、もはや地中の奥深くに埋まっているに違いない。
この奇跡的な静寂の中、私は馬車の窓から次第に荒涼としていく景色を眺めながら来るべきお見合い相手の国……「竜の国」に想いを馳せていた。
(竜の国……一体、どんなところなんだろ)
私の貧困な、だがファンタジー小説で偏って培われた想像力がフル回転を始める。
きっと空には常に巨大な竜が我が物顔で飛び回っているのだろう。交通ルールなんてものは存在せず、時折、派手な空中衝突事故を起こしたりして。
その轟音は、父のいびきや兄のナルシストな独り言よりも、遥かにやかましいに違いない。
住処は、やはり灼熱の溶岩が流れる火山の中かな?だとしたら、家具は何でできているの?燃えない特殊な石?インテリアの概念とかあるのか。
まさか、寝床が「熱した岩盤の上」だなんて、そんなハードコアな生活はごめんだ。
そして、肝心のお見合い相手……竜の王子様。彼は一体、どんな姿で私を迎えるのだろう。
巨大なトカゲの頭に、申し訳程度の小さな王冠を乗せてたりする?そして、初対面の挨拶代わりに、口から炎を「ボッ」と吹いたり?
「これは我が国の伝統的な挨拶だ」なんて言われても、私の身体が燃えたら洒落にならないんだけど。
(……でも)
私は車内に視線を戻す。酔いつぶれて幸せそうに寝ている父、自分の美貌以外には一切興味のない兄……。
(……うん。もしかしたら、竜の方がまだ、話が通じるかもしれない)
絶望的な結論にたどり着いた私の心境を、知る者は誰もいない。くそが。
そうして、私が竜の王子との対面に、ありとあらゆる最悪のパターンを想像して一人絶望に浸っていると、不意に、馬車の揺れがわずかに穏やかになった。
「?」
窓の外に目をやれば荒涼とした山道が終わり、木々の緑が再びその姿を現し始めていた。
そして、その先に……。
「……え?」
見えてきたのは王都から遠く離れた、竜の国との境に近いエルフの辺境の町だった。
王都のようにこれみよがしな豪華さはない。けれど、樹と一体化した家々、クリスタルのように澄んだ川に架かる木製の橋、そして──穏やかな表情で道を行き交うエルフたちの姿……。
そこには私が生まれてからずっと見てきた、狂気と虚飾に満ちた王宮の日常とは全く違う、穏やかで地に足の着いた「暮らし」があったのだ──。
「普通の……街……だと」
私の呟きはヴァスカリスの羽音に掻き消されて消えた。