目次
ブックマーク
応援する
2
コメント
シェア
通報

第83話

厄災の根源たる国王と第一王子、そしてなにより、その厄災の中心に常にいる姫君が旅立ったアズルウッド王城は、嘘のような静寂に包まれていた。

国王セーロスの酔った歌声も、第一王子アイガイオンの独り言も、そして王女エルミアの悲鳴も聞こえない。

がらんとした食堂はただただ広く、長い廊下はどこまでも続いているように感じられた。それは平穏というより、むしろ生命の気配が消えたかのような、不気味な静けさだった。


そんな、主を失ったかのような城に、ただ一人残されたハイエルフ。


「……」


カフォン・アズルウッド。

彼は、音一つ立てずに、その長い廊下を歩いていた。エルミアの前で見せる無邪気な少年の面影はそこにはない。

感情の読めない無表情な顔。そして、小さな身体から放たれる異様な圧は、周囲の空間そのものを歪ませている。

蝋燭の炎が不自然に揺らぎ、壁の影が蠢く。彼が歩くだけで、世界がその存在を畏怖しているかのように──。


廊下の角ですれ違うメイドや兵士たちが、カフォンの姿を認めた瞬間に時が止まったかのように凍りついた。

彼らは魔王に遭遇した罪人のように、慌てて深く頭を垂れ、壁と一体化したいとでも願うかのように、その身をへばりつかせて道を譲る。


「ひっ……」

「カ、カフォン王子……!」


恐怖のあまり、その場で小刻みに震える者もいれば、カフォンが通り過ぎた後、脱兎のごとく走り去る者もいた。

カフォンはそんな周囲の反応に一切関心を示さず、一瞥すらくれない。 彼にとって、下位種は道端の石ころ以下の存在なのだと、その無関心さが雄弁に物語っていた。


その顔は、エルミアの前で見せる天使のような無邪気な笑顔ではなく、一切の感情が抜け落ちたかのような、ただただ冷たい「無表情」。

そうしてカフォンが歩いていると、運悪く、一人の老執事が彼と遭遇した。

エルミア姫の忠実なる付き人、セルシルである。


「カ、カフォンさま……どちらに……?」


セルシルは、エルミアの前では決して見せない王子の「真の顔」を見てしまい、その場に凍りついた。

血の気が引き、膝がガクガクと笑い、今にも彼の十八番である「気絶芸」を披露してしまいそうだ。

しかし、カフォンはそんな老執事の恐怖など意に介さず、ただ淡々と通りすがりに告げた。


「少し外に出てくる。留守を頼むぞ、『セラート』」

「え……?」


その一言が、老執事の口からかろうじて漏れた。

『セラート』。

何百年も前に、戦争で亡くした、たった一人の息子の名前。 懐かしく、そして二度と口にすることはないと思っていたその名が、なぜ。

セルシルの脳裏に、まるで雷が落ちたかのような衝撃が走る。


(なぜ、カフォン様が私の息子の名を……?彼に息子の名を言ったことなどないし、まるでセラートの存在をよく知っているかのような声色……いや、そんなはずはない。何かの間違いだ。聞き間違いに違いない。だが、もし……もしも、まさか、そんなはずは……)


信じたくない。気づいてはいけない。その恐ろしい真実の扉に、指がかかってしまった。

聞かなくては、いや、聞いてはいけない。知ってしまえば、もう二度と、彼をエルミア姫の弟君として見ることはできなくなる。


思考が、恐怖が、その限界に達した瞬間──セルシルは、自らの意思で意識への糸を断ち切った。


熟練の技であった。まるで水に身を投げるように、彼は静かに、そして見事に、その場に崩れ落ちる。


「……」


床に転がる老執事の姿に一瞥もくれることなく、カフォンは城の外へとその小さな歩みを進めていった。

彼の背後で、忠実な執事が倒れる音すら、意味を持たないかのように……。




♢   ♢   ♢




城を出たカフォンは、一人、エルフの森の奥深くを歩いていた。

鳥は歌うのをやめ、獣たちはその気配を本能で察知し、蜘蛛の子を散らすように逃げ出していく。

普段は好奇心旺盛で、エルフを見つけると、からかいにやってくるはずの妖精たちでさえ、恐怖に顔を引きつらせて彼の前から姿を消す。

彼が歩いた後には、不自然なほどの静寂だけが、まるで濃い霧のように残る。 風の音も、木々のざわめきも、虫の羽音すら、彼の存在の前では息を潜めるしかない。


(誰もいない。父も、兄も、そして……エル姉さまも。今こそ好機。永きにわたり閉ざされし『門』に、近づくための……)


そうして、森を抜けた彼の眼前に、月光を静かに反射する広大な湖が姿を現した。


「……」


見覚えのある場所だった。


──ほんの少し前、姉と踊った、場所だ。


その時の記憶が、脳裏に一瞬だけ過る。姉の楽しげな笑い声が聞こえたような気がして、カフォンの無表情な口元が、ほんの僅かに、緩みそうになった。


「──!」


だが、彼はふと我に返ると、ぶんぶんと幼い頭を激しく横に振る。

まるで、今しがた浮かんだ温かい幻を、力ずくで振り払うかのように。


「くだらんことを思い出している場合ではない。『門』へ、行かなくては……」


その瞳から感傷の色は消え、再び冷たい光だけが宿る。

カフォンは湖に背を向け、迷いなき足取りで、再び森の奥深くへと歩き出した。

そうして、巨大な大樹──天を突き、雲を貫く世界樹が目前に迫った、その地点で。


「む……?」


突如として、無数の妖精たちが、光の粒子から生まれたかのように現れ、カフォンの行く手を阻むように壁を作った。


「アイツが来た!全員、結界を張れ!」


しかし、彼女たちはいつもの、脳天気で頭の弱い妖精たちとは明らかに違っていた。その小さな顔には、恐怖ではなく、確固たる意志と強い決意が宿っている。

その瞳は、自らの命を賭してでも、この先へは行かせないという覚悟に満ちていた。


「グレイスフェアリー……。眷属の分際で余の邪魔をするか」


カフォンは、初めてその足を止めた。彼の冷たい声には、苛立ちと、虫けらのような存在に足止めされたことへの侮蔑が滲み出ている。

彼の無表情な顔に、ほんのわずかな不快の色が浮かんだ。


世界樹に仕え、その聖域を守護する、フェアリーの上位種。彼女たちは、ただそこにいるだけで、清浄で、決して屈することのない強力な結界を形成していた。

カフォンの放つ禍々しい魔力が、彼女たちの放つ柔らかな光に阻まれ、わずかに揺らいでいる。


「!」


そして、妖精たちの群れの中心から、ひときわ強い、しかし優しい光を放つ存在が、前に進み出た。

それは、透き通るような銀髪を風になびかせる、美しい少年の姿をした妖精。

彼はにこやかな、慈愛に満ちた笑みを浮かべている。しかし、その瞳はカフォンの本質……その魂の奥底までも見抜いているかのように、鋭く、揺るぎない光を湛えていた。


「やぁ、貴きハイエルフの王子。初めまして……あれ?久しぶりだっけ?」


彼はカフォンに対して、恭しく、しかし決して退かないという鋼の決意を込めて、静かに問いかける。


「ところで──この世界樹に、何用かな?」


その言葉を聞いた瞬間、カフォンの顔から、あの氷のような無表情の仮面が、音を立てて剥がれ落ちた。

唇がゆっくりと歪み、この世のものとは思えないほど酷薄で、心の底からの愉悦に満ちた、恐ろしい笑みを浮かべる。

彼は、ハイエルフの王子としてではなく、遥か古の王として、傲岸不遜に言い放った。


「世界樹は余の所有物。何故、妖精如きにそんなことを聞かれなくてはならない?」


言葉と同時に、カフォンの全身から、これまでかろうじて抑えられていた邪悪で禍々しい魔力が、黒いオーラとなって噴き出した。

森が揺れ、空気が震え、大地が揺らめく。

しかし、妖精の少年は、その圧倒的な圧を前にしても、涼やかな笑みを崩さない。ただ、その瞳だけが、冷徹なまでに厳しく細められた。


「おや、それは初耳だ。この世界樹は、遥か昔から我らが『女神』様の所有物のはず……。もっとも、その理屈で言うと、僕も、そして僭越ながら『余』と仰る『クソガキ』様も、等しく女神様の愛しき所有物の一つということ……」


静かな、刃のように鋭い言葉と共に、妖精の小さな身体から清浄で、しかし何者にも屈しない強大な魔力が白銀の光となって溢れ出した。


「つまりなにか言いたいかというとぉ……」


黒き闇と白銀の光。二つの絶対的な力が、聖なる世界樹の前で、迸る──。


「──ここは立ち入り禁止だっつってんだよ、失せろクソジジイ!」


この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?