私の意識が、現実逃避という名の心地よい暗闇から引きずり戻されたのは、容赦なく全身を揺さぶる、拷問のような振動のせいだった。
ガタガタ、ゴトゴトと、鉄の箱の中でシェイクされているかのような衝撃。どうやら私は、気絶している間にこの移動式棺桶……もとい、耐熱装甲馬車に詰め込まれ、既に出発してしまっていたらしい。
そして、そんな揺れる地獄の中心で、我が父セーロスは、実に優雅な手つきで年代物のワインのコルクを「ポンッ」と小気味よい音を立てて抜いていた。
「いやー、竜の国のワインはどんな味がするのかなぁ!竜の血が混ざってるかもしれないと思うと、今から楽しみになってくるよ」
能天気で不謹慎で、そして場違いな言葉に、私の口から魂が抜け出るような深いため息が漏れた。
そして横を見ると、兄アイガイオンがキラキラと輝く手鏡を片手に、しきりに自分の完璧な金色の髪をいじっていた。
「うーん……枝毛一本でも立っていると、この俺様の美貌が損なわれてしまう……これでは、エルミアに顔向けできん……」
「……」
どうやら兄は、竜の国の脅威よりも、自分の髪のコンディションの方が遥かに重要な関心事らしい。
彼が繊細な指先で一本の髪をなでつけ、完璧な角度に整えた、その0.5秒後。
どこからともなく飛んできた妖精さんが「えいっ!」という可愛らしい掛け声と共に、その髪をちょいと引っ張り、見事な枝毛を復活させていた。
兄が直す。妖精が乱す。兄が直す。妖精が乱す。
それは永遠に続くかのような無意味で、しかしどこか芸術的……でもない光景だ。コントかと思ったが、よく考えたらコントの方が数万倍、高尚だろう。
そして、そんな愚かで平和な光景を眺めていた私の視線が、不意に兄のそれと交差してしまった。
しまった、と思ったがもう遅い。手鏡の中の自分にうっとりしていた兄は、私が見ていることに気づくと獲物を見つけた肉食獣のように、にやりと口角を吊り上げた。
「エルミア、安心しろ。もし竜がお前に無礼を働こうものなら、この俺が鱗を一枚一枚丁寧に剥ぎ取り、心臓をえぐり出して、お前の靴磨きにしてやろう!」
愛情表現なのか、単なる猟奇的な殺人予告なのか。そのどちらでもあるのだろう、兄の言葉は私の鼓膜を確実に汚染していく。
(なんで靴磨きなの!?もっとこう、せめて!!首飾りにするとか、剥製にして部屋に飾るとか!なんでよりにもよって、一番実用性がなくて、一番グロテスクで、一番後片付けが面倒そうなものを選ぶの!?この人の思考回路、どうなってるの!?)
そんな私の心の中の絶叫が、どうやら少しだけ口から漏れ出てしまったらしい。
「まあ、お兄様。いつも私のことをお気にかけてくださり、感謝で胸が張り裂けそうです。その、あまりにも具体的で残虐な計画には、感謝よりも先に鳥肌が立ってしまいましたけれど……」
「ふっ……あまり俺を褒めないでくれ。本気にしてしまうじゃないか」
兄は、ナルシストが鏡の前で練習を重ねたであろう完璧な角度で、サラリと金色の髪をかき上げた。
その言葉に、私は本気でドン引きした。 私の皮肉を、本気の賛辞だと受け取るそのポジティブすぎる脳みそは、もはや一種の才能だ。尊敬はしないけど。
なお、妹に向けられた渾身のキモい笑顔は、0.3秒後に馬車の中で無邪気に飛び回って遊んでいる妖精さんに顔面を足蹴にされ、更に酷い造形へと進化を遂げた。
「ねーねー、この馬車、狭くてつまんなーい!」
「きゃははー!竜の髭ごっこー!」
妖精たちは馬車の中で「ドラゴンごっこ」を始め、兄の美しい髪を「竜の立派な鬣」に見立てて容赦なく引っ張ったり、ヴァスカリスの巨大な口吻を「ドラゴンの硬い角」だと言い張ってバシバシと無邪気に叩いたり、やりたい放題である。
誰だ?この迷惑千万という言葉すら生温い、歩く災害のような存在をこの旅に連れてきたのは。……ああ、勝手についてきたんだったね。
そんなこんなで、カオスという言葉すら生温い馬車の車内だが……。
私は、この移動式地獄から意識を逸らすように、ふと小さい窓に視線を向けた。すると、そこには鬱蒼としたエルフの森を抜け、地平線まで広がる平穏な草原が……。
「わぁ……」
初めて見るエルフの畑や、寄り添うように建つ小さな村々。馬車の窓から垣間見える、質素だが温かい人々の暮らしに、私の心は少しだけ震えた。
「これが……『普通』の世界なのね……」
今まで、狂った兄と酔っぱらいの父、そして世界を滅ぼしかねない弟に囲まれるという、あまりにも普通とはかけ離れた境遇で生きてきた私。穏やかな風景を見ているだけで、思わず涙がこぼれそうになる。
なお、その「普通とはかけ離れた状況」は、現在進行形で私の前で繰り広げられている。
「おおっ!?こ、これは!新しい酒の嗜み方か!?腕から直接飲むスタイル!斬新だねぇ!」
父がそんな奇声を上げたかと思えば、ヴァスカリスが父の腕にその巨大な口吻をプスリと突き立て、勝手にワインという名の血液をテイスティングしている。
「俺の!俺の鏡が!鏡がないと俺の美貌が確認できん!おのれ羽虫ども、どうしてくれるんだ!」
そして、兄の手から手鏡を奪い取った妖精たちが、それをキラキラと振り回しながら「お姫様の新しい髪飾りよー!」と叫んでいる。兄は手鏡欠乏症に陥り、禁断症状でカタカタと震えていた。
私の涙は、美しい景色への感動と、このどうしようもない現実への絶望が半々で構成されているのだった。
「ふぅ……」
そんな地獄絵図のような車内から現実逃避するように、私は再び馬車の小さな窓に視線を向けた。
ガタガタと不快な揺れは続くものの、馬車そのものはどうやら滞りなく進んでいるらしい。そして、その馬車の両脇を固めるように、数騎のエルフ騎兵が護衛についているのが見えた。
(あら、屈強そうな兵士さん……)
いつも王城で見かける、儀礼用のピカピカな鎧を着て突っ立っているだけの、いかにも弱そうな雑魚兵士A・B・Cたちとは大違いだ。彼らは馬上で微動だにせず、全身からは戦い慣れた者の鋭い雰囲気が漂っている。
漆黒の鎧に身を包み、その目付きも、馬上の佇まいも、そこはかとなく殺気立っているようだ。
(ていうか、あの腕なに?丸太でも仕込んでるの?どんな筋トレしたら、エルフがそんなムキムキになれるわけ?プロテインでも飲んでるの?……まさか、あれって耳の長いオーガとかじゃないよね……?)
私は内心で、護衛の兵士たちに対して、失礼千万なツッコミを入れ始める。
いや、でも本当におかしい。あの筋肉の付き方は、明らかに優雅さを重んじるエルフのそれではない。彼らが馬に乗っている姿は、もはや「騎士」というより「重戦車」だ。
まぁ、あれだけ筋肉隆々な強そうな騎士でも、カフォンくんの魔法の前では塵芥のように吹き飛ばされるのだろうな、と想像すると、不謹慎にも少し笑いがこみ上げてくるが……。
兎に角、今は私よりも遥かに強いであろう彼らに、全力で私を守っていただきたい。 私の次期お見合い相手……つまり、ドラゴンという最終捕食者から……。
──そうして、彼らのその素晴らしい筋肉が見かけ倒しではないことを、私が切に祈っていると──
馬車の中のカオスが、とうとう許容量を超えて外にまで噴出してしまったようだ。
いつの間にか馬車の外に出て、屋根や周囲を、偵察機のように飛び回るヴァスカリスと妖精たちの姿が窓から見えた。
「さぁ、私たちも見張りをするよ!」
「ところで見張りってなにするの?」
「さぁ」
脳味噌が溶けてくるような、あまりにも知性の欠片もない妖精さんたちの会話が、風に乗って聞こえてくる。
そして、哀れなヴァスカリスは、そんな妖精たちの謎の使命感に完全に巻き込まれ、ひらひらと舞う無害な蝶や、のんきに歌う小鳥を「刺客だ!」とでも言わんばかりに勘違いして、巨大な口吻を振りかざしながら追いかけ回している。
妖精たちはそれを「行けー!蚊将軍!」「やっつけろー!」と応援し、時折、木の枝を槍代わりにしてヴァスカリスに加勢しようとするが、大抵は彼の進路に割り込んで邪魔になっているだけだった。
この国の未来は、この光景と同じくらい明るいのだろう。
そして、私の未来も……。
「……」
私は窓から視線を外し、再び車内に目を戻す。そこには世界の縮図のような、完璧な地獄が広がっていた。
既に酔っぱらい始めている父は、年代物のワインをラッパ飲みしながら「ドラゴンのお嬢さんを酔わせて口説き落とす!」などと意味不明な作戦を立てている。
そして、ようやく妖精から手鏡を取り戻したのであろう兄は、血眼になって「俺の完璧な髪に、あの虫ケラどもが……!」と、枝毛の手入れに没頭していた。
その光景を目の当たりにした瞬間、私のこめかみにズキリ、と鋭い痛みが走った。
「はぁ……。もういっそ竜の国に直行しないで、このまま馬車ごと崖から落ちてくれないかな……どさくさに逃げれるし……」
私の、誰に言うでもない絶望的な呟きは、父の陽気な歌声と、兄の髪を梳く音、そして妖精たちの無邪気な羽音にかき消されていった。