誰にも届かないであろう悲鳴を飲み込むように、灼熱の炎の壁が迫ってくる。
──ああ、綺麗。まるでオーロラみたいだぁ……。
そんな感想を抱きながら、私の脳裏にはこれまでの人生が走馬灯のように駆け巡っていた。
(ろくなことがない、本当にろくなことがない人生だった……!)
そういえば、私には『前世の記憶』とかいう物語の主人公にありがちな、便利設定があったはずだ。
まぁこの地獄のような日常の前では、そんな設定何の意味もなかったみたいだけど!
つーか私のお見合いまみれの人生のエンディング、無駄に壮大すぎだろ。
妖精さんの放ったバナナジュースの水たまりを踏んで転んで死んだ方がまだ私らしいっていうか……。
例え万が一、億が一ここで生き延びたとしても、どうせドラゴンの次が控えているのだ。
次はなんだ?巨人か?それとも悪魔か?あるいは、得体のしれない触手まみれの邪神とか?
ああもう!考えるだけで面倒くさい。
(死んだ方がマシだね。うん。ここで終わるのが、きっと一番幸せなエンディングだ)
私はそっと目を閉じた。
……いや、待て。目を閉じたところで、何になるというのだろうか。
どうせ死ぬ直前に見る走馬灯も、ろくでもない映像のオンパレードだ。(主に家族関連)
ならばせめて、私が黒焦げの炭になる歴史的瞬間くらいは、この目で見届けてやろうじゃないか。
そんな歪んだ覚悟を決めてすぐさま目を開ける。
そこには、目の前に迫りくる灼熱の炎が、この可憐なエルフの身体ごと焼き尽くさんと──
「!?」
その時、私の視界にぬっと兄様の姿が映った。
彼は轟音と共に迫りくる炎の壁を前に、夕焼けでも眺めるかのように静かに、そしてどこか退屈そうにたたずんでいる。
「……」
お兄様は慌てるわけでもなく、ゆっくりと鞘から一振りの剣を抜く。
血管のように赤黒い光が、どくんどくんと、不気味に脈動している剣……。
(あ……あれは……)
お兄様がここぞという時……いや、本気で、そして最高に機嫌が悪い時にしか抜かない、あの……。
どう見ても、正義の味方側が持ってる聖剣じゃなくて、魔王側の邪悪なやつ(しかも一際残虐なポジションの悪役)が振るう邪剣にしか見えない、例の得物……!?
「ふん……つまらん炎だ」
そして兄は、目前に迫る灼熱の炎の壁に向かって、気だるげに赤黒い魔剣をひらりと一閃した。
(え、ちょ、本気でやる気ある!?その、やる気のないスイングは、一体なに!?)
私の悲痛なツッコミの次の瞬間──
世界から、音が消えた。
轟音を立てて迫っていた炎の壁が、一枚の絵画のように綺麗に音もなく、真っ二つに切り裂かれた。
「はいぃ!?」
分かたれた二つの炎の川が、私が乗る馬車の両脇を避けるかのように、静かに過ぎ去っていく。
その現実離れした一幕のような光景を背に、兄は心底退屈そうに大きな欠伸をしながら、こう呟いた。
「茶番だな。眠くなってきたぜ……」
私の悲鳴は、途中で間抜けに途切れた。
兄の背中、そして彼の剣によって綺麗に二つに分かたれた炎の川を、私は呆然と見つめる。
──今のなに?
完全に思考を放棄した脳味噌が、ようやく再起動を始める。
確か竜の軍団が一斉に炎を吐いて、ああもうダメだ、と人生を諦めたはず。そして兄様がやる気のないスイングで剣を振ったら、炎が切れた……?
ああ、もう。感謝すべきなのか呆れるべきなのか、その理不尽なまでの強さに絶望すべきなのか。
私の感情はぐちゃぐちゃに絡まりすぎて、よく分からなくなってきていた。
「あ!そうだ!」
兄はどうでもいい!いや、どうでもよくはないが少なくとも彼がドラゴンの炎ごときで死ぬような、か弱い存在ではないことは、痛いほど理解した!
しかし、父は大丈夫だろうか──!?
ちなみに私が言っている『大丈夫』というのは、『無事に生きているか』という意味ではない。
『もしかして、あの炎の余波で都合よく、黒焦げになって即死してくれてはいないだろうか』という、実に心温まる期待を込めた言葉である。
切実な願いを胸に、恐る恐る父がいたはずの方向を、振り向くと──
「……えっ」
そこにはまたもや、私のちっぽけな常識など軽く粉砕してくれる、とんでもない光景が広がっていた。
「グォォ……」
「ツ、ツヨスギル……」
先ほどまで雄々しい咆哮を上げていたはずの、本物のドラゴンたちが巨大なトカゲのぬいぐるみのように折り重なって、気絶している光景……。
そして無様に積み上げられた「竜の山」のてっぺんで、我が父セーロスは、ひどく物足りなさそうな不満げな表情をして、胡坐をかいて座っていた。
──あぁ、そうかぁ。こいつもお兄様と同じタイプか。知ってたけどね。
どうせ、死なないんだろ?「強すぎるから」とか、そういうしょうもないご都合主義な理由でさ。
まともに死ぬ可能性があるのは私だけか?私は本当にハイエルフなのか?私のステータス、「可愛さ」と「不運」に全振りされてて、戦闘能力は皆無、とかそういうオチ?
私の疑念が渦巻く中、父が心底つまらなそうに呟いた。
「あーあ。なんか、すっかり酔いが醒めちゃったよ。最近、お酒が入ってないと、腕が震えて、身体がだるいんだよなぁ」
──完全にアル中じゃねぇか!
「……」
とりあえず、規格外で概念と化した二人組は放置、と。
さて、では我が国の誇る麗しき筋肉の騎士さんたちは、どうしているのかというと。
視線を向けると、そこでは男臭く、そして汗臭い熱い戦いが繰り広げられていた。
「ぐぉぉぉ~!なんだ、この竜の炎の熱気は!だが、一歩も引くなよ!我らが引けば、姫様が丸焦げになってしまうぞ!」
「エルフノ騎士ドモ……ナカナカヤルナ……!」
どうやら同程度の強さの者同士、互角の戦いを演じているようだ。
エルフの美しき騎士が姫を守るため、強大なドラゴンに立ち向かう。本来ならば、吟遊詩人が百年は語り継ぐであろう感動的で、素敵な光景になるはずなのだが……。
「うーん……」
なんというか……こう……刺激が足りない。
先ほど父と兄という「アルコール度数99%の、脳を焼く蒸留酒」のような、あまりにも強烈なものを見てしまった後では、目の前の戦いは「気の抜けた、やたらと薄いカ〇ピス」のように感じてしまう。
「……はっ!」
い、いけない!私ったら、なんて罰当たりなことを!
騎士さんたちが私のために命を賭して、文字通り汗水たらして頑張って戦ってくれているというのに!
薄いカル〇スみたいな扱いをして、本当にごめんなさい!
……でもまぁ、つまらないのは事実だし、別に無理して観戦しなくてもいいか。汗臭いし。
どうやら私の精神も、順調に狂った家族によって汚染され続けているらしい。
私は興味をなくしたようにふいっと、顔を背けると、今度は妖精さんとヴァスカリスの様子を見ることにした……。
と、思ったら。
妖精さんとヴァスカリスは、いつの間にか一匹の竜の、広大な背中にちょこんと乗り、なにやら穏やかな時間を過ごしているようだった。
「わーい!このドラゴンさんの背中、あったかーい!」
「日向ぼっこに最適ね!ねぇねぇドラゴンさん、もっと日当たりの良いところに連れてって!」
「ピィ……(満足げ)」
平和な光景に私は一瞬、ここが戦場であることを忘れそうになる。
ちなみに妖精さんとヴァスカリスに乗られている、心優しき(?)ドラゴンは、先ほど我が兄アイガイオンに、魂の根元からメンタルをブレイクされていた青年である……。
彼は背中の上で繰り広げられる、無邪気な宴に気づく様子もなく、ぶつぶつと人生に絶望した哲学者のような、実に情けない愚痴をこぼしていた。
「ナントイウカ。ソモソモ、竜ダカラッテ、誰モガ戦闘ヲ好ムト思ウノハ、偏見ダト思ウンダヨナァ。ダイタ、僕ノ才能ハ武力ジャナクテ、モット、コウ……繊細デ、クリエイティブナモノッテイウカサァ……」
あいつまだ文句言ってたのかよ!?周りみんな戦ってんだから、せめて戦う振りくらいしろよ!
つーかそんな人生相談みたいな愚痴をこぼしてる場合か!?背中に妖精と巨大な蚊が、やりたい放題でくつろいでますけど!?
私のツッコミは、もちろん、誰の耳にも届かない。
混沌とした、そして平和な戦場。
──どうすれば、いいんだろう?
その時だった。
『そう……そうよ、エルミア。ここは一人で帰るのが最善の選択よ……』
──私の脳裏に、悪魔の甘美な囁きが聞こえる。
久しぶりの悪魔エルミアちゃんの登場だ。というか悪魔のコスプレをしているだけの、ありのままの本心か?
まぁ、どうでもいいか。
『そうよ。それがいいわ。ヴァスカリスさえいれば道中の安全は、確保されるし、こんな奴ら全員死んでも私には関係ないじゃない?つーか死ねって感じだし』
悪魔エルミアちゃんの悪魔の囁きは、なんとも無慈悲なものである。
そして、反対側から今度は天使エルミアちゃんの、清らかな囁きが聞こえてくる……。
『だめ……だめよ、そんなの!』
ちなみに、私の心の中にいる「天使エルミアちゃん」の衣装はなぜか漆黒で、頭の上の天使の輪っかも、見るも無残にバキバキに折れていて、背中からは立派な悪魔の羽が生えている。
どうやら私の心の中に住まう天使さんは、天使の振りをするのをやめたらしい。本性をあらわにして、悪魔以上に悪魔らしい笑みを浮かべて囁いた。
『ただ逃げるだけ?駄目!そんなことしたら、あのクソ野郎どもが万が一にも生き残って、また私を追いかけてくるかもしれないでしょ!ここはきちんと私が生き残るための、確実な布石を打つべきよ。例えば……後ろからナイフで背中を刺すとか?』
私の心の中の天使(だったもの)の、あまりにも外道な提案に、悪魔エルミアちゃんがキラキラと目を輝かせた。
『あ!それいいじゃん!刺した時の、アイガイオンとセーロスの、驚きと絶望に満ちた顔、絶対面白そ~!』
『ぎゃはは!!「エ、エルミア~どうしてぇ~!?」とか、情けない声で言って、息絶えそう!最高じゃない!』
(──とんでもない奴らだな、こいつら!?)
私は自分の心の中で繰り広げられる、邪悪な会話に本気で戦慄した。
キミら本当に、私の心の中から生まれた天使と悪魔なの!?良心はどこに行ったの!?
いくら私でも、そんな外道な真似はしない!!
……たぶん。
うん、たぶん、きっと、おそらく……しないと思う。
……思うんだけどなぁ……。
私の心の中の悪魔と天使(のコスプレが下手な方の悪魔)が、「ぎゃはは!」と楽しげに私の父と兄の暗殺計画について語り合っている。
そして私自身も、その微妙に魅力的な提案に心がぐらぐらと揺れ動いていた、その時であった。
「グオォォォォォォォォォォォォーーーーー!!!!」
「!?」
一際。
いや、これまでの咆哮が、子猫の鳴き声に聞こえるほどの、比較にすらならない圧倒的な咆哮が世界そのものを揺るがした。
轟音というより、もはや音の津波。
咆哮だけで大地が激しく揺れ、馬車の窓ガラスが、ビリビリと悲鳴のような音を立てる。
あまりにも純粋な暴力の塊のような声に、私の両肩で偉そうにしていた天使と悪魔エルミアちゃんたちは、「ひぃっ!?」と情けない悲鳴を上げると、一瞬で、ぷすんと煙のように消え去ってしまった。
(……意外と、すぐ逃げるのね、君たち)
──いや、そんなどうでもいいこと考えてる場合じゃない!
(なに!?なに、今の!?恐竜……!?)
私が恐る恐る空を見上げると、遥か彼方に一つの黒い小さな影が見えた。
その影は瞬く間に、そしてありえないほどの速度でこちらに近づいてくる。
そして最終的に、私の頭上に……いや、この戦場全体を、巨大な影で覆い尽くすように、一つの巨大なドラゴンが飛翔していた。
「──!?」
その大きさは、もはやドラゴンというより……一つの「城」。
そう、空飛ぶ城塞とでも言うべき圧倒的なまでの、巨体だった。
戦場の全ての音は消え失せ、皆、圧倒的な存在を見上げていた。
(……あぁ、そう)
私の脳裏に、一つの真理が浮かび上がる。
(そうだよね。父様や兄様が、あんなに規格外なんだから……。敵国のボスがこれくらいスケールの狂った存在じゃなきゃ、国として釣り合いが取れないもんね)
私は全てを理解した。
そして私の口から、恐怖も驚きも絶望すらも一周して、渾身の絶叫が響き渡った。
「もう、いい加減にしてぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇ!!!!」
──あぁ、物語(じんせい)そのものに対する私の叫びは、きっと上空にいるあのドラゴンさんよりも大きく、このどうしようもない世界に響き渡ったことだろう──。