ガタガタと内臓まで揺さぶられる不快な振動。
拷問器具と見紛うばかりの黒曜石の椅子から解放された、私の軟弱なお尻を次に待ち受けていたのは別の地獄だった。
乗り心地という繊細な概念を設計段階から完全に排除したであろう、この乗り物……。ドワーフ謹製の悪名高き黒鉄の馬車である。
「……」
「……」
私の目の前には妖精さんの一言で尊厳を粉々に砕かれた、哀れなコミュ障王子ことイグニス王子が座っている。
──そう。絶望的に気まずい、二人きりである。
そもそも、何故こんなことになっているのかというと……。
妖精さんによる無慈悲な指摘事件の後、完全にフリーズしていた王子が再起動し(ただし私の目を絶対に見ようとはせずに)こう言ったのだ。
『私は断じて女性という特定の性別に対して、非論理的な恐怖の情動を抱いているわけではないのだが……。兎にも角にも、だ。このような地政学的にも工学的にも劣悪な環境で、他国の貴賓との重要な対話を続けるのは非効率的極まりない。貴殿らの臀部の肉体的損傷が深刻化する前に、我がドラゼア王国の宮殿へと場所を移すことを提言する。あぁ、繰り返すがこれは決して私が女性恐怖症であるという根も葉もない謬見に基づく、提案ではないのは承知していただきた。そもそも(以下略』
眼鏡をくいくいと光らせる彼は、有難いことに拷問のような溶岩地帯からの離脱を提案してくれた。
そして、宮殿まで招待してくれるのだという。
素晴らしい提案に、私は一秒も間を置かずにぶんぶんと首を縦に振った。そろそろ私のお尻が本当に限界だったからだ。
だが……。
私のそんなささやかな幸せを、我が家族が見過ごすはずもなかった。
『いやぁ、エルちゃん。これも何かの縁だねぇ。ここは若者同士イグニス王子と二人きりで馬車に乗って親睦を深めたらどうだろうか?うん、それがいい!僕たちは、馬に乗って、外の素晴らしい空気を吸っていくからさ。あぁ、勘違いしないでね?彼の脳味噌がとろけそうな意味不明な言葉をこれ以上一秒たりとも聞きたくないからそう言っているわけじゃないからね?僕はあくまで、若い二人の未来を応援したいだけでぇ……』
『俺の愛しいエルミアを俺以外の男と二人きりの密室空間にいさせるなど、本来であれば万死に値する愚行だが……。まぁたまには許してやろう。あぁ、勘違いしないでくれエルミア。決して爬虫類の狂った戯言をこれ以上聞かされるのが精神的に苦痛だからというわけではない。俺はあくまでお前に広い世界を見せてやろうという、兄としての慈悲の心から……』
父と兄の素敵で露骨な、イグニス王子との対話拒否アレルギーからくる見え透いた言い訳を聞きながら、私は深く溜息を吐いた。
──そして、今現在。
私は半ば強制的に鉄の棺桶の中で、コミュ障王子と二人きりで宮殿まで進んでいるというわけである……。
しかし、いつまでもお互い無言でいるわけにはいかない。
沈黙という名の精神的拷問に私が耐えられないからだ。
私は意を決して、この気まずい空気のど真ん中に特大の爆弾を投下することにした。
あえて、満面の天使のような笑顔で。
「えーっと……イグニス王子。先ほどは……その我が国の眷属である思考能力が著しく欠如した妖精が大変失礼をいたしました。もちろん、あれは彼女が勝手に、見たままの純粋な感想を口にしただけでありまして、私に監督責任は一切ございません。一切。ですが、まぁ……結果として、王子の尊厳をほんの少しだけ傷つけてしまった、という不幸な事故については、遺憾の意を表明いたします」
我ながらなんと見事な責任転嫁だろうか。
でも私、悪くない。……この言葉、何度目だろうか。でも私は本当に悪くないよな。
私の謝罪の言葉にイグニス王子はぴくりと眉を動かすと、こう返してきた。
「エルミア姫。それは甚だしい認識論的な誤謬であると言わざるを得ない。私が女性という生物学的性別に対して何らかの非論理的な情動を抱いているという仮説は、完全に棄却されるべきだ。私が先ほどまで、沈黙していたのはだな……異文化コミュニケーションにおける記号論的アプローチの最適解を脳内で、シミュレートしていただけでありすなわちそれは……」
早口で挙動不審な王子の見事な言い訳(になっていない)を聞きながら、私は本日何度目か分からない重い溜息を漏らした。
別に私は彼を取って食おうとしているわけではないのに……。
というか、立場的にはいつ取って食われるか分からないのは私の方なのに……。
どうしてこうも怯えた子犬のように、慌てるのだろうか、この人(竜)は。
しかし、こういう時は刺激しないのが一番だ。
暖かい、慈母のような目で見守ってあげるのが大人の対応というもの。
ここで私がうっかり、「めっちゃ早口でしゃべってる、ウケるんですけどぉ~!」などと妖精さんと同じレベルの、慈悲な一言を口にしてしまった日には、彼のガラス細工のように繊細な心は粉々に砕け散って、二度と元には戻らないかもしれない。
──いや、それならまだいい。
最悪の事態は、彼が羞恥と怒りのあまり密室であるこの鉄の棺桶の中で、城のごとき巨大なドラゴンに変身してしまうことだ。
そうなれば私の命は確実にジ・エンドである。
それだけは絶対に、何としてでも避けなければならない!
「ねぇねぇ、ひめ様!この王子様めっちゃ早口でしゃべってる!ウケるんですけどぉ~きゃはは!」
そんな決死の覚悟を固めた、次の瞬間だった。
頭上で私の思考を読んでいたかのように、完璧なタイミングで世界で最も空気が読めない生き物が純粋で無慈悲な口を開いたのだ。
──あぁ、なんてことだ。
そうだった。彼女たちの小さくて可愛らしくてクソ憎たらしい口を閉じることなど、私には不可能なのだ。
だって彼女たちは思考というフィルターを一切介さずに、本能のままに感じたことをそのまま音にして世界に放出する『歩く辛辣な真実拡声器』という名の自然災害なのだから……。
ところで、先ほど私が王子と『二人きり』と述べたことについてだが。
私の感覚では、脳みそが溶けている可能性の高い小さな羽虫や巨大な昆虫は知的生命体としての『人数』には、カウントしていない。
よってその表現に一切の矛盾は存在しない。
「ヴァスカリス!」
「ピィ!」
私は悲鳴に近い声でヴァスカリスの名を呼んだ。
そう。ただ、名を呼んだだけ。しかし私と我が忠実なるペットとの間には、どうやら言葉を超えた魂の繋がりがあるらしい。(不本意だが)
彼は私の悲痛な叫びだけで、その意図……すなわち『このやかましい羽虫を今すぐ黙らせろ』という心の声を完璧に読み取ってくれたのだ。
なんて素晴らしい主従関係なんだ。
ヴァスカリスは巨大な身体からは想像もつかないほどの速さで、問題発言を発した妖精さんを、細長い脚で抱え込む。
そして、躊躇いなく巨大な口吻を小さな肩あたりに、ブスリと突き刺したのだ。
「ぎゃああああああ!?!?!?」
キモイ巨大な昆虫の、太く鋭い針に身体を貫かれた妖精さんは三流ホラー映画で最初に殺されるお約束の役者のように見事な絶叫を上げると、痛みと恐怖でそのまま白目を剥いて失神。
そして椅子の上に、墜落してしまった。
ちなみに、先ほどまできゃっきゃと騒いでいた他の妖精さんたちはと言うと……。
「……」
「……」
同胞の一人が巨大な蚊によって無慈悲に制裁されるのを目撃した後、馬車の隅にひっそりと佇み、みんな揃って自らの口を小さな手で力いっぱい押さえていた。
……素晴らしい。
危機察知能力と長いものに巻かれる処世術だけは、一流のようだ。
この生命体を作った奴の顔が見てみたいものである。
(でも、これで一安心……!)
と、私が胸をなでおろした矢先だった。
「エ、エルミア姫……」
目の前でイグニス王子が、ふるふると震えている。
──やべぇ!
やはり妖精の無慈悲な一言がガラスの心臓に深々と突き刺さってしまったのだろうか!?
どうしよう、どう言い訳をすれば……!?
この気を失っている哀れな妖精を生贄として差し出すしか……!『この通り、元凶は、処分いたしました故、なにとぞ、ご慈悲を!』とでも言えば、許してかな!?
私がそんな外道な自己保身の策を脳内で必死に組み立てていた、その時だった。
「エルミア姫……そ、その昆虫はもしや……もしや『ロイヤルモスキート』では……?」
「え?」
その言葉と共に、私は彼の顔を見た。
先ほどまでの怯えた挙動不審な表情はどこにもない。
そこにあったのは眼鏡の奥で、おもちゃ屋に初めて来た子供のように、キラキラと純粋な知的好奇心と興奮に輝いている、一対の金色の瞳だった。