イグニス王子の視線がまっすぐに私に突き刺さる。
未知の生物を解析するかのような冷徹で感情の読めない視線に、私は射貫かれていた。
(……え、待って。私の唯一の必殺技(ただの挨拶)が……効いてない……?)
私の脳内に、焦りの色が浮かぶ。
嘘だろ……?私が戦闘能力を全て捨てて、その代わりに極限まで磨き上げた、愛嬌と可憐さと優雅さの三位一体攻撃が……ダメージ、ゼロ?
もしかして私の『可愛さ』は、エルフの国の中だけで有効なご当地スキルか何かだったのだろうか?国境を越えた途端、効果が失われるとか?
そんな、あまりにもしょうもない仕様だったのか……?
い、いや待って。竜人兵(一般)には効いていたはずだ。その仮説は間違ってる。
ならば一体何故……。
だが、どう考えようとも結論は一つ。
(このラスボス、私のスキルを完全に無効化してきてやがる……!)
どうする……!?どうすればいい……!?
私の唯一にして最強のスキルが完全に無効化された今、私に打つ手は……。
その時だった。
「……」
「?」
私は目の前のイグニス王子の様子がおかしいことに気づく。
一見冷静沈着を装っているが、眼鏡を神経質そうに、何度も直し続けている。
瞳は私を見ているようで、私の頭の上に乗っているヴァスカリスを見ているのか、私の背後にあるただの岩を見ているのか、全く焦点が定まっていない。
そして彼のこめかみには、きらりと光る一筋の汗が……。
──なんだ?
「あの、どうかなされましたか?王子」
私がおずおずと尋ねると、彼はびくりと雷にでも打たれたかのように身体を震わせた。
そして早口でよく分からない言葉を、まくし立て始めたのだ。
「問題などありません。断じてね。事象とはすなわち観測者の主観によって意味合いが可変的に変容するものであり……つまり君という美的概念の範疇を超えた存在……いや、現象が私のこの認識論的構造に予期せぬパラダイムシフトを引き起こしていると仮定することも可能ではあるが、しかしそれはあくまで仮説に過ぎず……」
ちょっと何を言っているか分からない。妖精さんの戯言の方がまだ理解できる。
あまりの理解不能さに、堪らず隣に座る我が兄に助けを求めることにした。
「お兄様。大変、申し上げにくいのですが、今彼がなんと仰ったのか通訳していただけないでしょうか」
その言葉にお兄様は、この世の全ての不味いものを一度に口に詰め込まれたかのような、味わい深い苦虫を噛み潰したような表情を浮かべていた。
そして兄は吐き捨てた。
「エルミア。こいつは、頭がおかしい。あまり関わらない方がいい」
「──え?」
なんだって?
今、この我が国が誇る『歩く非常識』『生ける伝説級の狂人』である、お兄様が……。目の前の彼を『頭がおかしい』と、そう断定した……?
これは……これは一大事だ!宇宙の法則が、乱れている。世界の終焉が、近いのかもしれない。
あの兄様が自分以外の人間を『自分よりおかしい』と、認定しただなんて!そんなこと、あっていいはずがない!
「お父様、大変です。お兄様の頭が本格的におかしくなってしまいました」
あまりの衝撃に、私はつい父に助けを求めてしまった。
しかし父は私の悲痛な叫びにどこ吹く風。何かをじっと考え込むような様子でこう言った。
「エルちゃん。もう少し言葉を、こう美しいレースで包んであげた方がいいよ。事実だけどさ、真正面から真実を叩きつけるのは可哀そう……でもないか。うん、やっぱりどうでもいいね」
そして不意に、父はイグニス王子へと視線を移しぽつりと呟いた。
「うーん……しかしあの加齢臭が漂ってきそうな筋肉オヤジから、彼みたいな繊細な子が生まれるものかねぇ……?それにこの子、ヴァルカインや、スコリアよりも多分格が……」
なにやら、ぶつぶつと言っている父。
私が真意を問いただすよりも早く、イグニス王子が明らかに慌てた様子で大声で会話に割り込んできた。
「と、ところで!今回、貴殿ら尊きハイエルフの方々が多大なリスクを冒してまで我が国に来訪された、根本的な動機についてですが!私の手紙の存在論的解釈によれば、それはすなわち、その……婚姻による両国間の新たな関係性の構築……を目的とした……お、お、み、みあ……」
意味不明な言語が、完全に解読不能なただの音の羅列になってきている。
だけど……不思議と、私は彼の言いたいことが分かってしまった。
だから、助け舟を出すように言った。
「えーっと……失礼。もしかして貴方が仰りたいのは『お見合い』の件、でしょうか?」
私の言葉にイグニス王子の挙動不審さは一層増していく。
その動揺に、いよいよ周囲にいる竜人の兵士たちも訝し気な目を自分たちの王子へと向け始めた。
「おい、王子、大丈夫か?さっきから、あのエルフの姫を見ては固まってまた喋り出しては固まって……の繰り返しだが」
「あぁ……いつもの『哲学的頭痛』が悪化しているのだろう。だが今日はいつもに増して、支離滅裂だ」
更に王子は誰に言うでもなく、その場の気まずい沈黙を埋めるかのように意味不明な言葉を紡ぎ始める……。
「そ、そうだ!天候の話をしよう!見てくれ、我らがドラゼアの空を!地質学的観点から見て極めて安定した火山灰による空!これはすなわち大気中の水蒸気量が一定の基準値を下回っているという素晴らしい気象条件の発露に他ならず……!」
「はぁ……」
いよいよもって意味が分からなくなってきた。
ふと隣を見ると、父と兄は難解で、でもよく聞いたら割とどうでもいい言語アタックに耐えかねてか、両手で自らの長いエルフ耳を完全に塞いでいる。
見れば我がエルフの騎士たちも、果ては竜人の兵士たちも同じように耳を塞いで何も聞こえないようにしていた。
その気持ち、痛いほど分かります。聞いているだけで眩暈がしてきますから。
そうしてイグニス王子の誰にも理解できない孤独な講演会が、いよいよ佳境に達しようとした、その時──
「ねぇねぇ」
いつの間にか、退屈さによる昏睡状態から復活していたのだろうか。
一匹の妖精さんが興味深そうにイグニス王子のすぐ傍に、ふわりと浮遊していた。
竜の国ではまず見かけることのない、謎の小さな羽虫……いや可愛らしい小さな女の子の姿に、イグニス王子はギョッと目を見開く。
そして慌てて眼鏡をくいくいと、今日もう何度目になるか分からないほど位置を直して口を開く。
「な、な、何用かな、エルフの眷属たる、フェアリー族よ!い、いや私は君たちの存在をもちろん認識している!古代文献によれば君たちは自然界のマナを直接身に宿す純粋なる魔法生命体!下位種には戦闘能力はあまりないが、上位種になれば戦闘能力は、一個師団にも匹敵し、妖精王たるエンドフェアリーに至っては、神々の因果律にさえ干渉したという記録が……!」
「あのさぁ」
妖精さんが心底どうでもよさそうに呟くと、こんな一言を彼に突きつけた。
「アンタさぁ、もしかして女の子とまともにお喋りしたことないタイプでしょ。見てて面白いから別にいいんだけどさぁ。なんかめっちゃ、キョドっててウケるんですけどぉ~!」
しん……と。
妖精さんの無邪気で残酷な言葉だけが響き渡り、完璧な静寂に包み込まれた。
「……」
父も兄も我が国の騎士たちも竜人の兵士たちまでもが……。
皆、揃いも揃って真顔でただ一点。
目の前で完全にフリーズしている哀れな王子を見つめている。
そして、私も同じである。
(──え?なに?まさか……。彼のよく分からない態度は──)
私の脳裏で、これまでの彼の奇妙な行動の一つ一つが線となって繋がっていく。
決して合わない視線も、挙動不審な態度も全てが……。
──ただ、恥ずかしがってるだけ……!?
女の子としゃべり慣れていない、ただのコミュ障なだけ……だと……!?
その結論に私がたどり着いた、その時。
「プッ……!」
誰かが、吹き出した。
見ればひれ伏していた竜人の兵士の一人が慌てて自らの口を両手で力いっぱい押さえている。
「あのおっきくてこわーいドラゴンさんがただの女の子が苦手なだけのコミュ障だったとか……きゃはは~!!」
妖精さんの笑い声と、風の吹く音だけがずっとずっと、響いていた……。