硫黄の匂いが立ち込める荒涼とした火山地帯。
そこに急ごしらえのテーブル(という名のまだ熱を帯びている巨大な溶岩石の板)と椅子(という名の座る部分が絶妙に尖っている黒曜石の塊)が、いくつか用意されていた。
そこに私と父と兄は座っている。みんな尖っている部分を避けて座っているので微妙に斜めになっているのが、なんともしょうもない光景である……。
「……」
そして拷問器具のようなイスに座る私たちの対面には、一人の麗しい美青年が座っていた。
繊細な銀縁の眼鏡をかけ、佇まいは学者か神経質な文官を思わせる理知的な雰囲気。ちなみに彼も斜めに座っている。
どうやらドラゴンもお尻は痛いらしい。
しかし額から天に向かって見事な二本の黒い角が、にょっきりと伸びており『実は、僕、ドラゴンなんですよ』と雄弁に主張していた。
……いや「実は」でもないか。見事すぎる角が『私はドラゴンです』と叫んでいる。バレバレである。
というかさっき、ドラゴン形態から人間っぽい姿に戻る特撮みたいな変身シーン、ばっちり見ちゃったし。
そして、そんな微妙な空気の中、不意に青年が喋り始める……。
「えー……まず事象の定義から始めよう。先ほど我が国の軍と貴殿らとの間で発生した物理的相互作用……すなわち戦闘行為は極めて遺憾であると言わざるを得ない。これは双方の認識論的齟齬……つまり不幸な『すれ違い』が引き起こした悲劇的な帰結であると、私は分析する。しかしこの帰結は本来の意図から乖離した偶発的なパラドックスに他ならず……」
……。
「……よって!我々が今選択すべき道はこの現象として現出した敵対関係を一度括弧に入れ、根源にある双方の『真意』を対話という理性的な手段を用いて解明することにあると私は提言したい。すなわち暴力という安易な解決策を放棄し互いの存在理由を言語哲学的に再構築するべきなのだ」
……。
…………。
………………?
その瞬間。
硫黄の匂いがする風の音だけが聞こえる、完璧な静寂が場に訪れた。
父と兄の二人は顔を見合わせていた。彼らの顔には一言一句同じ言葉が書かれている。
──『何言ってんだ、こいつ?』と。
そして私もまた、高速でまばたきを繰り返しながら、目の前の青年の顔を見つめ、彼の高尚な言葉を必死で脳内で反芻した。
(──え、今なんて仰った?)
『認識論的齟齬』?『偶発的なパラドックス』?『言語哲学的に、再構築』?
何言ってるの……?
理知的というのを通り越して、ただの難解な単語を並べたがる意識高い系の学者か?
まぁ、私なりに理解して翻訳すると。
『喧嘩はやめて、話し合いましょう』ってことか。
一言で済む内容を、どうして黙示録みたいに回りくどく難解に語る必要があるのだろうか。
「あー……イグニスくん、だったっけ?」
父が近所の若者にでも話しかけるような気の抜けた口調で、イグニスと名乗った青年にそう言った。
その言葉に彼は眉を動かすと、ひび割れた眼鏡を神経質そうに、何度も直し始めた。
「いかにも。私がイグニス・ドラコニールでございます、アズルウッド国王陛下。まず、貴殿の来訪に際し我が方の理性よりも衝動を優先した、一部の兵士たちの行き過ぎた『歓迎』があったこと、心より遺憾の意を表明いたします。そしてこの極めて非論理的な状況下において対話という唯一の理性的なテーブルについていただけたこと、感謝の念に堪えません。つきましては今回の事象によって発生した物理的及び、精神的損害に対する形而上学的な意味合いも含めた包括的な賠償については後日改めて……」
「あ、いや、ちょっと待って!」
父がこめかみを、ぐりぐりと指で押さえ、イグニス王子の言葉を無理やり止める。
しかし父は、次に何を言おうか数秒悩んだ挙句、結局諦めたように口を閉ざしてしまった。
なんと。父様が、完全に思考を放棄した。これはレアケースだ。酔いも完全に冷めてしまっているらしい。
でかした謎の言語。
代わりに、お兄様が訝しむような視線をイグニス王子に向けながら言った。
「おい、イグニスとやら。貴様見ない顔だな。大戦の時にはいなかったはずだ……エンシェントドラゴンだろう?それにしては随分と、ひ弱そうだが」
兄がなんとも王族らしい(大嘘)チンピラのような口調でイグニス王子に言った。
普通ならその無礼な言葉に面食らうはずだが、イグニス王子は表情一つ変えずに淡々と眼鏡を神経質そうにくいくいと押し上げながら、言った。
「これはアイガイオン殿下。貴殿の残酷で非人道的な武勇伝……失礼、誉れ高きご武勇は我が国まで、嫌というほど伝わっております。我が国の吟遊詩人たちは貴殿の戦いぶりを、子供を躾けるための恐怖の物語として語り継いでおります。それはさておき本題ですが、貴殿らのご訪問に先立ち丁重な書簡を賜ったと記録の上では確認しております。しかしながら、その……何と言いますか、存在論的地位が極めて不安定な状態にありまして……。あぁいえ、我が国の一部の思考能力に問題を抱える者たちが、それを本来の用途とは著しく異なる極めて衛生的な目的に転用しようとしたなどという言語道断な事実があったわけでは断じてないのですが、すなわち……」
「──待て。もう喋らなくていい。むしろ喋るな。脳みそが腐る」
同じ言語をしゃべっているはずなのに何を言っているのか、さっぱり分からない。
そんな純粋な恐怖は怖いもの知らずの兄様にすら、クリーンヒットしたようだった。
お兄様は理解不能な古代遺跡でも目にしたかのように目を細めて、イグニス王子を数秒見つめた後、彼から視線を外した。
──おぉ……なんということだ。
『視線を先に外した方が負け』という、チンピラのような独自のルールを信奉していそうな我が愛しくもない兄様が……。いともあっさりと屠られてしまった……。
……もしかしてこの世界においては、相手の脳味噌を直接シェイクするような話術こそがあらゆる物理攻撃を無効化する、最強の精神攻撃スキルなのではないのだろうか?
ちなみに、私の愉快な仲間たち……妖精さんとヴァスカリスはというと、イグニス王子の理知的な第一声を聞いた瞬間から、あまりの退屈さに仲良く昏睡状態に陥っていた。
なるほど……この高度で回りくどい言語攻撃は、知能指数がおそらく理論上の下限に位置するであろう妖精さんたちと言語を理解しているかどうかすら、極めて疑わしい巨大昆虫にも等しく有効らしい。
対象の知能を選ばない無差別催眠攻撃……。恐ろしいスキルだ。
(でも、これじゃ埒が明かない……)
父様と兄様は思考停止。妖精と蚊は昏睡状態。
……そう。
この膠着した絶望的な状況を打開できるのは、私しかいない……!
(……行くしかない。知性の迷宮へ。哲学という名の、底なし沼へ……)
これは延々と、難解な話を聞き続ける会ではないのだ。
私は意を決して恐るべき哲学的攻撃の渦中へと、自ら足を踏み入れる決意をする──。
「イグニス王子。お初にお目にかかりますわ。わたくしは、アズルウッド王国が第一王女、エルミア・アズルウッドと申します」
私は椅子(拷問器具)から、優雅に立ち上がり、完璧な淑女の礼をしてみせた。
私には父上のような理不尽な腕力も、兄様のような悪魔的な剣技もない。だけど……私には完璧に計算され尽くした優雅な立ち居振る舞いと、天使もひれ伏すほどの可愛らしさがある!
そう……私こそが戦闘能力を全て愛嬌と礼儀作法に全振りした、対話特化型の最終兵器なのだ!
……と、まぁ主に私の中ではそういう設定になっている。
「おお……なんとお美しい……。この荒れ果てたむさ苦しい戦場に、一輪の花が咲いたかのようだ……」
「姫様の完璧なカーテシー……!これぞ我がエルフの国の至宝……!姫様は超越種としての威厳等はないが、挨拶スキルだけは間違いなく世界一であらせられる……!」
我が忠実なる黒鎧の騎士たちが完璧な挨拶を見て、目に涙をためて感動している。
つーか今の微妙にディスられてねぇ?聞き間違いか?いや、きっと聞き間違いだろう。
超越種に忠実な騎士たちが、そんな失礼なことを言うはずがないからね。
さぁ、この完璧な挨拶の効果は如何ほどのものか──
「……」
──あれ?
目の前の麗しい美青年……イグニス王子は見事なまでに無反応だった。
その瞳は何の感情も映さずに、見ているだけ。
──う、うそだ!?私の対話特化型最終兵器、淑女の挨拶(グリーティング・オブ・レディ)が全く効いていない……!?
まさか……『竜人』タイプには、『妖精』や『可憐』属性の技は、効果がないとでもいうのか!?そんな相性不利、聞いてないんだけど!?
そう思い至り、私は仮説を検証すべくイグニス王子の横に侍る、ごく普通の竜人兵たちをちらりと見やる。
すると、そこでは……。
「なんか……いいよな、あのお姫様」
「あぁ……いい。我が国の姫君たちのような、我々を殴り殺せそうな変な筋肉がないというか……。守ってあげたくなるというか……」
なんか若干失礼な、だけど明らかに好意的な評価が聞こえてくる。
ふむ……どうやら私の『可憐』属性は一般兵レベルの竜人には効果があるようだ。
ではなぜイグニス王子、ただ一人にだけ通じないのだろうか……?
「……」
一体何故──?