イグニス王子は一つこほんと咳払いをすると、決意を固めた表情で窓の外を指さした。
「では簡潔な言葉で失礼して……あれが我が国の兵舎です。兵士たちが寝食を行い、そして日々鍛錬を積むための場所です」
うん。実に、簡素。
簡素で……分かりやすい。最高だ。
あまりにもそのままの説明のような気もするが、脳がとろけるような哲学的演説を聞かされるよりは、百万倍マシである。
「そしてあちらが牧場です。我々はあそこで食用のラヴァサラマンダーを飼育しているのですよ」
窓の外では竜人たちが巨大な鉄のハサミのようなもので、火を吹く巨大なトカゲを必死に柵の中へと押し込んでいるという、物騒な光景が広がっていた。
(あれが牧場……?あのトカゲなに?なんかでかくない?)
可愛らしいふわふわの羊さんたちが草を食んでいるのどかな光景とは、ずいぶんと違うけど……あれもきっと、牧場なんだろう。
「そして今、道を歩いているのが我が国の民です。赤い鱗を持つ者は戦士階級。灰色の鱗を持つ者は、一般階級。彼らは今職場へと向かっているところのようですね」
階級社会で通勤……。
なんだか急に親近感が湧いてきた。どこの世界も朝の通勤は大変らしい。
私は驚くほどに分かりやすい彼の解説に、静かに耳を傾けていた。
これはこれで悪くない。少なくとも、気絶する心配はなさそうだ。
イグニス王子の私の脳には大変優しいガイドツアーはその後も続いた。
「あれは食料品店です。朝食として、焼いた肉などを販売しているようです」
彼が指さす先では、壮年の竜人の店主が客から注文を受けると、串に刺した肉に自らの口から、ぼぉっ、と炎を吹きかけて調理していた。
(調理器具と料理人が一体化している……だと)
光熱費も人件費も大幅、削減できて素晴らしいとは思うけど……衛生観念的にどうなんだろうか。
まぁ、炎に衛生観念もないか。口から出てるとはいえ……。
「そしてあちらが幼年訓練所……一般的には『学校』と呼ばれる施設ですね。今、彼らは休憩時間のようだ」
広場では、カフォンくんのような年頃の竜人の子供たちが、きゃっきゃと楽しげに遊んでいた。
遊びの内容は、巨大な岩をボール代わりに投げ合って遊ぶという物騒かつシンプルなものだった。
「あ、落としちゃった!」
「もー、ちゃんと、キャッチしろよー!」
一人の少年が岩を取り損ね、ゴゴゴゴッ!と、地響きを立てて地面に巨大なクレーターが一つ出来上がった。
……『休憩時間』ね。
私があの場にいたら休憩どころか人生が終わるかもしれないけど。
火を吹く屋台。
岩で遊ぶ子供たち。
その一つ一つはとんでもなく物騒で野蛮なのに。
なぜか私は、その光景にほんの少しだけ親近感のようなものを感じていた。
そう。ここはただ、私たちが住む国とは少しだけ価値観や常識が違うだけの、普通の「国」なのだ。
「……」
私がそんな竜人の国の日常を、ぽけーっと見ていると……。
「姫、あちらをご覧ください」
イグニス王子の静かな言葉が、私の長いエルフ耳に届いてくる。
彼が指で指し示したのは、この街並みの中でひときわ異彩を放つ、真っ白な大理石か何かでできた巨大な時計塔だった。
「あの時計塔は我がドラゼア王国を象徴するものなのです」
「象徴、ですか?」
「えぇ」
そして彼は、少しだけ遠い目をして、ゆっくりと語り始めた。
遥か昔……全てを巻き込んだ、大戦の後、竜人はあまりの強さ故に、その数を大きく減らされた。
それこそ都市という文明的な共同体を維持することすら、困難なほどに。
だが、そんな絶滅の淵に立たされた、竜人を救った者たちがいた。
それはかつて、竜人が圧倒的な力で他国から労働力とし、攫ってきた……異種族の『奴隷』たちだったという。
「私は大戦の時代には、まだ生まれていませんでした。ですが歴史知った時に、こう思ったのです」
イグニス王子は遠い過去の時代に思いを馳せるかのように、静かに瞳を伏せた。
「この世界は決して力だけでできているのではない。対話と協調によって、構成されているのだと」
無論、奴隷として強制的に復興事業に従事させられた者もいたのだろう。
だが、中には竜人への憎しみを超えて積極的に、この国の再建を手伝ってくれた者たちも確かにいたのだ。
「そして今、この国には様々な異種族が暮らしています。彼らはあの時の奴隷の末裔であり……そして今も尚、その身分は奴隷という括りではありますが……」
彼のどこか物憂げな視線の先。
窓の外で竜人たちと並んで、ドワーフや獣人、そして人間らしき者たちが、ごく当たり前のように道を歩いていた。
そこでは、竜人の男性が小さなドワーフの子供を逞しい肩の上に乗せて、楽しげに笑い合っている。
その近くでは、美しい獣人の女性と若い竜人の兵士が恋人同士のように親密に寄り添いながら歩いていた。
それは、決して奴隷という存在ではなく、社会を構成する一員としての付き合い方だ。
「イレネス連邦という多種族国家では、異種族が共に暮らすのが当たり前のようですが……。このドラゼア王国もまた、形は違えど異種族が混じり合って暮らしています」
そして彼は、もう一度視線を白い時計塔へと戻した。
「だからこそ。あの時計塔は、皆が力を合わせ、種族という垣根を越えて作り上げた尊い平和の象徴。普段見境もなく物を壊してばかりの思考能力の低い竜人たちでさえも、あの時計塔だけは決して壊そうとはしないのです」
時計塔を見つめるイグニス王子の金色の瞳。
そこには諦観の色はなく慈しみと誇りのような、温かい感情が宿っているように見えた。
「……」
私は、驚愕していた。
ただ「簡素な言葉で、喋ってほしい」と、そうお願いしただけなのに。
まさかこんなにも、彼の、そしてこの国の深い部分にまで触れることになるとは思ってもみなかったから。
でも、分かってる。
この話題は、決して茶化すようなものではない。
今のは、真正面から受け止めるべき大切な話なのだ。
「イグニス王子」
私は、彼の名を呼ぶ。
その声は自分でも驚くほど穏やかで、澄んでいた。
「王子が先ほどまでお使いになられていた、難解で美しい言葉の数々も確かに素晴らしいものでした。ですが……」
私は、イグニス王子の目を真っすぐに見る。
一瞬。一瞬だけ、イグニス王子と私の視線が交差したような気がした。
「この素敵な時計塔について語ってくださった貴方の飾り気のない真っ直ぐな言葉の方が、私には何倍も、何十倍も……心に響きました」
私の言葉に、彼はきょとんと瞳を丸くした。
だが、それもほんの一瞬。
すぐに恥ずかしくなったのだろう。彼は私から視線を逸らし、再び窓の外の景色へと逃げてしまった。
「い、いや。その……このような稚拙な解説で申し訳ない。なにしろ単純な話し方をしたのは一体何十年ぶりのことか……。もしかしたら赤子の時以来かもしれないな」
……今のは、彼なりの冗談なのだろうか?
真面目な顔で言うものだから判断に困る。それに彼なら赤ちゃんの頃から哲学的な喋り方してそうだし……。
でも、なんだか不器用な照れ隠しがおかしくて。
「ふふ」
私は思わず笑ってしまった。
一度笑い出すと、もう止まらない。
「あ、ご、ごめんなさい……ふふっ、あははっ」
それにつられて、だろうか。
私が笑うのを驚いたように見ていたイグニス王子も、いつも苦悩に歪んでいたような口元を、ほんの少しだけ緩めて、穏やかに微笑んだ。
「貴女は、不思議な人だ。竜人である私とこうして普通に話をしてくれるなんて」
「そうですか?でも、同じ言語で喋っているのですから、話をするのは当たり前のことではありませんこと?」
私の単純な答えに、彼はまた少しだけ驚いたような顔をしたが、すぐに表情は先ほどまでのぎこちなさではなく、純粋な知的好奇心に満ちたものへと変わっていった。
──そこから、私たちの会話は驚くほど弾んだ。
彼が古代文献から引用する竜の国の歴史を語れば、私はエルフの国の文化人類学的な見地から意見を述べる。
私が他種族について問いを投げれば、彼はエルフとは全く違う竜人独自の理論を、楽しそうに語ってくれる。
「それは非常に興味深い視点だ。それでは、このような観点から見ると……」
「まぁ、面白い!そんなこと考えもしませんでした!」
それは私にとって、この世界に来て初めての体験だった。
父や兄のような暴力や理不尽ではない。
「知性」と「知性」による対話。
なんて楽しくて、なんて心地の良い時間なのだろう。
そしてついに、宮殿の巨大な門が見えてきたその時。
私はすっかり上機嫌になって、心からの笑顔で彼に言った。
「でも、本当に良かったですわ。竜人の王族の方々は、私が思っていたより遥かに理知的で話の通じる方で。イグニス王子、貴方のような方がいらっしゃるのなら他の王族の方にお会いするのも、とても楽しみです」
私のその一言を聞いた、瞬間。
イグニス王子の身体が石のように硬直した。
そして彼の額から、ぶわっと滝のような冷や汗が流れ落ちる。
──え?なにこの反応?
私、何かとんでもなく失礼なことを言ってしまったのだろうか。
いや、むしろ最大限の賛辞を送ったつもりだったのだけれけれど……。
私が彼のあまりにも予想外な反応に戸惑っていると、イグニス王子は何かを言いたげに、しかし心の底から言いたくないというように、絶望的な表情で小さく呟いた。
「その……エルミア姫。君のその善意に満ちた期待を、無慈悲に打ち砕いてしまうようで誠に心苦しいのですが……私の家族は、その、理性や知性という概念とは、非常に対極的な存在論的立ち位置にいるというか……。平たく言えば、バカ……あ、いや……思考能力においては道端の石ころの方が、まだ勝っている可能性が高く──」
その時であった。
『グォォォォォ……!!!』
突如として謎の、そして圧倒的な咆哮が響き渡る。
それは、あのドワーフ謹製の分厚い黒鉄の馬車の壁を、紙切れのように容易く貫通してきたのだ。
「!?」
なに!?なにごと!?
私は慌てて窓から外を見やる。
するとそこには──
「えっ……」
巨大なドラゴン。
先ほどのイグニス王子のような超越種と思わしき竜が、宮殿の上空で悠々と羽ばたき、私たちが乗る馬車をまっすぐに睨みつけている。
──しかも、ご丁寧に、一匹。
ざっと五匹はいるだろうか。いや動揺しすぎて視界がブレて正確な数が分からない。
というか、一匹が巨大すぎて、その境界線すら曖昧だ!
「イ、イ、イグニス王子!?あの空を我が物顔で飛んでいる化け物……失礼、巨大な竜の方々は、もしや貴方のご親戚か何かで!?」
私の切実な問いにイグニス王子は、私から目を逸らした。
そして心底恥ずかしそうに、申し訳なさそうにぽつりと呟いた。
「あれが、私の家族です……そして、誠に申し上げにくいのですが……。あの翼を広げ、首を少し後ろに引く独特の姿勢。あれは最大出力のブレスを放つ直前の予備動作。ですので……エルミア姫。お気をつけください」
「はぁ──!?」
私の間の抜けた声が馬車の中に、虚しく響き渡ったその瞬間。
窓の外が一瞬で真昼の太陽よりも眩しい、灼熱の光に包まれた。