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第100話

「えーっと?」


不可解な反応にどう反応すればいいのか迷っていると、王子は突如麗しい顔をぐいっと私に近づけて子供のように、叫ぶように言った。


「エルミア姫!その昆虫は貴殿のペットか何かなのだろうか!?」

「え?こんなキモイのがペットなわけ……あ、いや……はいそうでございます。我がペットでございます。その……ヴァンパイアの方からの、いただきもので……」


いけない、いけない。つい本音が出そうになってしまった。

いくらヴァスカリスが客観的に見て……というか主観的に見て極めてキモい存在だとしても、本人の前でそれを口にするのは、非人道的……いや非虫道的だ。

過去に何度か口にしたような、気もするけれど……それはまぁ、時効ということで。


「成程!ヴァンパイアの最高位眷属ですな!古代文献における『始祖の血を引く者、その傍らには常に王たる蚊が侍る』という、難解な一節はこれを指していたのかも……」

「え、今なんて?」


イグニス王子は先ほどまでの挙動不審な様子が嘘のように、生き生きとした楽しげな表情で、ヴァスカリスの生態について考え始める……。


「古代文献に記された通り、始祖ヴァンパイアの血の系譜を受け継ぐ、昆虫型眷属!大戦時に猛威を振るったとされる彼らは最早絶滅してしまったと思われておりましたが……!彼らは何を食べるのだろうか!この気高きロイヤルモスキートは雄なのか、それとも雌なのか……!?」

「え、ちょ、お、落ち着いてくださいませ……!」


何だこの人?

さっきまでのコミュ障っぷりはどこにいったの?めっちゃ積極的やん……。


イグニス王子はもはや私のことなど、一切目に入っていないようだった。

キラキラと輝く金色の瞳は、ただ一点。馬車の隅で何事もなかったかのように、制止しているヴァスカリスだけに注がれていた。


「エルミア姫、いくつか学術的な見地から質問させていただきたい!まずロイヤルモスキートの主食は何を!?文献によれば、哺乳類の血液を主食とするとあるが、炭水化物の代謝プロセスはどうなっているのか!?花の蜜なども摂取するのかね!?」

「さぁ……。先ほど、戦場で毒々しい色の植物の蜜を夢中ですすっておりましたが」


そんなもん知るわけないだろ。

いや、飼い主ならば知って然るべきではあるけど、別にずっと一緒にいるわけじゃないし……。

多分この蚊、燃費が悪そうだからなんでも食べる(吸う)っぽいな。


「なるほど!毒性植物への、完全な耐性を持っていると!なんと興味深い!では繁殖形態は!?卵生か!?繁殖には特定の宿主を必要とするのかね!?」

「どうでしょう……。そのあたりは彼(もしくは彼女)のプライベートな問題かと存じますので」


繁殖……考えたこともなかった。というか、考えたくねぇ。

この巨大な蚊が繁殖する光景なんて、悪夢以外の何物でもない。


「なんと奥ゆかしい!では、その外骨格の硬度は!?あの光沢はミスリルかオリハルコンでも含有しているのか!?そして最大飛行速度は!?」

「うーん……。硬い時は硬くて、速い時は速いのではないでしょうか」


硬さ?私の肌よりは硬そう。

最大速度?私よりは速いんじゃないかな。


その後も私とイグニス王子の問答は続く……。

私の中身のなさすぎる適当な回答に、しかしイグニス王子はいちいち深く感銘を受けたように頷いている。


──もしかして私は、彼の一番面倒くさいスイッチを押してしまったのでは……?


生き生きとした学者の顔をした王子の姿を見ながら、先ほどとはまた別の意味での絶望的な疲労感を感じ始めてしまう。

もしかして、この状態が何時間も続くとかじゃないだろうな。

だとしたら私の脳味噌はとろけてしまうだろう。いや、もうとろけ始めている可能性すらある。


しかし……。

私は巨大な蚊に夢中になっている彼の姿を見て、ある一つの結論に思い至った。


彼は別に冷徹な王子でも、ましてや威厳のある次期国王でもない。

あの異常なまでの挙動不審は、私を敵国の姫として警戒していたわけでもなく、ただ単純に女という未知の生物を前にしてパニックに陥っていただけ……。


そして、そのパニックを唯一上回るのが、学者としての知的好奇心……。

つまり彼は、王子というよりただの研究者……。


そして私の推察が導き出す最終的、答えは──。


(……つまり私は、彼にとって巨大な蚊一匹以下の興味しか抱かせない存在……ということらしい)


別にさぁ。お見合いを成功させたいわけでは、決してないけどさぁ。

蚊に負けるってどうなの?


そうして、私が心の中で巨大な蚊に対する、一方的な敗北を噛み締めていたその時。

イグニス王子が、はっと我に返った。

どうやら彼は巨大昆虫の生態という知的好奇心の渦の中から、ようやく俗世へと帰還なされたらしい。


「も、申し訳ないエルミア姫。興味深い研究対象を前に、私は少し我を忘れてしまっていたようだ。恥ずかしいところを、お見せしました」


そう言って恥ずかしそうに顔を赤らめながら俯く彼は、今日初めて人間らしい感情を見せている。

そんな彼を見て私は……まぁ別に不快には思わなかった。

少なくとも脳を直接シェイクしてくるような謎の言語で延々としゃべり続けられるよりは、遥かにマシだからだ。


「いいえ、どうぞ、お気になさらないでくださいませ王子。それよりも、もしよろしければ……。ドラゼア王国の美しい街並みについて少しお話をお聞かせ願えませんこと?私、異国の文化にとても興味がございまして」


つい、そんな淑女の鑑のような完璧な一言を私は口にしてしまった。


(彼の哲学的発作を起こすよりは、よっぽどいい。このまま当たり障りのない観光案内の会話で、宮殿までの気まずい時間をやり過ごさせていただこう)


私の打算に満ちた言葉にイグニス王子は、ぱあっとその顔を輝かせた。


「おお、勿論ですともエルミア姫!お安い御用です!私にとっては見慣れた面白味のない、ただの石と溶岩の集合体でしかありませんが……。貴女のような緑豊かな国からいらした方にとっては荒涼とした風景もまた一興でありましょう。では、僭越ながらこのイグニスがドラゼア王国の成り立ちから、構造力学的な素晴らしさまで出来るだけ分かりやすく解説いたしましょう!」


私の言葉に彼は嬉しそうに答えたのだった。




♢   ♢   ♢




「……であるからして、我が国の文化的アイデンティティとは、すなわち他種族からの文化的収奪……失礼、文化的交流の歴史そのものである、と定義することも可能だ。これは竜人という種が生物学的特性上、創造よりも破壊に特化しているという悲しき存在論的証明に他ならず……」


(──はっ。私は一体何を……?意識が飛んでいた……?)


微睡みの中、私は目の前で何か小難しいことを一人で延々と喋り続けているイグニス王子の顔を見て、ゆっくりと意識を覚醒させた。

どうやら彼の難解で退屈な解説という名の精神攻撃に、私の脆弱な脳が耐えきれず、自らの生命活動を維持するために強制的にシャットダウンしていたらしい。


「エルミア姫、窓外の第一中央橋梁をご覧いただきたい。あれは最大応力下において成竜二頭分の運動エネルギーを完全に吸収・分散させることが可能な、極めて合理的な構造力学の結晶だ。主素材はドワーフ族と巨人族の共同開発による第三世代型自己修復機能付き魔導オリハルコン・コンクリートであり……」


(だめだ……。やっぱり何一つ頭に入ってこない……!単語の一個も分からない……!)


これは……あのクソつまらない講義で有名なダレス講師の戦闘力を遥かに凌駕している。

彼が戦闘力1だとしたら、目の前の王子は戦闘力100はあるだろう。

勿論、相手の脳味噌を破壊する哲学言語戦闘力の話だ。


「そして中央に見える建築物は、さらに興味深いことに……」

「──待って!」


思わず私は彼の言葉を遮っていた。

私の悲痛な叫びに、彼は鳩が豆鉄砲を食ったような顔でぴたりと、動きを止める。驚いたように私の方を一瞬向きかけたが……やはりすぐに逸らされ、私の額のあたりをうろうろと彷徨っている。

まだ私の目を直接見ようとはしないようだ。実に徹底されている……。


「あのぅ……王子。高度で専門的なご説明は、もう大丈夫ですので……。どちらかというと、その……ありのままの、見たままの景色について簡単な説明などをお聞かせ願えたら、嬉しいな……なんて、思ったり……」


あぁ、なんて語彙力のない貧弱なお願いの仕方なんだろうか。

私の小学生レベルの単純な言葉と、彼の大学教授も裸足で逃げ出すレベルの難解な言葉。

それは天と地、光と闇、生と死ほどに対極にあるものだ。


でも、こう言うしかないじゃない!

だって、『物体の組成割合』だとか『その存在の合理的な意義』だとか、そんな聞いているだけで眠くなる……いや、気絶するような講義をこれ以上続けられたら、私の精神が持たないのだ!


「見たままの簡単な説明……ですか?」


まるで異星人の言葉でも聞いたかのように、イグニス王子の瞳が驚愕に染まる。


「しかし姫。それでは物事の本質を捉えた真の意味での『解説』にはならないのでは?」


彼の真面目な問いに、私は苦笑いを浮かべる。

私は頭でっかちな哲学者王子に、必死に噛み砕いて説明を試みた。


「物事を深く根源から理解しようとすることはとても重要なことだと思いますわ、王子。それは真理です」


でも──と、私は続ける。


「時には表面だけを眺めて『まぁ、綺麗』と、ただそう感じることにも価値があると思うのです。詳細な構造計算式を知らずとも、あの橋を『美しい』と感じる心……それもまた、一つの真実ではないでしょうか?」

「……」

「そして、大変申し訳ないのですが……今の私は表面だけを見て、楽しみたい気分なのです」


私の単純な言葉。

しかしイグニス王子は、その言葉に何か新しい真理でも見つけたかのように、はっとした表情を浮かべると、数秒の沈黙の後、どこか納得したように頷いた。


「なるほど……現象学的還元……か。面白い」


なんかまた難しい言葉が出てきたけど、まぁ納得してくれたのならそれでいいか……。


そしてイグニス王子は改めて窓の外の街並みを見やり、一つ深呼吸をすると、こう宣言した──


「では……エルミア姫。今度は、君の言う、『ありのまま』の、簡素な説明で、我が国の概要を、お伝えいたしましょう」


その声は先ほどまでの神経質な響きはなく、どこか吹っ切れたような穏やかな音色をしていた。


(……やった。私の単純な庶民派哲学が、彼の難攻不落の知性の城壁をついに打ち破った……!)


私は心の中で小さく、ガッツポーズをした。

さぁ、お手並み拝見といこう。

この哲学者王子様の言うところの『簡素な説明』とやらが、一体どれほどのものなのか……。

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