「おい、どうして未花が居るんだよ」
「それは後でいくらでも話してやるから」
会場に入るや否や、柏木は俺に悪態にもよく似た声色で俺に告げる。
出来るだけ絵を目に入れぬよう下を向きながら会場に入ると、床に伏している知らない女性と、その女性をなだめる天野の姿があった。誰がどう見ても海原が走り去った理由というのはこれだろう。
「朝風君! 海原さんがっ!……と、柏木君?」
「お前も絡んでんのかよ。めんどくせぇ……柚木原、立てるか?」
天野は戸惑いながら俺を呼び、柏木を見つけるとその表情はより混乱を極めたように歪む。一方で柏木は余計に疲れたような顔をしていた。こんなところで、このタイミングで合いたくはなかったと言いたげな表情は続く。
言いながらも彼の行動は素早かった。ゆきはら……?と呼ぶ彼女の手を取ながら顔を覗き、ゆっくりと問いかける。彼女は彼女で涙を零しながら、柏木の腕を支えに立ち上がる。
「とりあえず、休憩室まで行くぞ。ゆっくりでいいからな」
「天野、とりあえず状況が全く把握できんのだが」
柏木が柚木原さんを支えゆっくりと歩く中、隣を歩く天野に尋ねる。
「色々なことが多すぎて私も混乱はしているのだけど、簡単にまとめると海原さんの絵についてあの子――柚木原さんと海原さんが言い合いになってしまったの」
「……要するに、江の島行った時のアレと同じ感じか」
「それよりも状況は悪いみたいだけどね……」
俺と天野は休憩室に戻り、柚木原さんと柏木の到着を待つ。その間の俺達には沈黙が横たわる。天野から話を聞くよりも、柚木原さんから話を聞いた方が速そうだ。――話せる状況であれば、だが。
「遅くなった。んで? そもそも走って行ったアイツは誰なんだよ」
「あぁ柏木、あいつは――」
「海原、海原 咲よ」
セーラー服の長袖で涙を拭きながら、ずれてしまった眼鏡を直さずに、涙交じりで怒りの込められた声色で柚木原さんが告げる。
「大賞の子よ。私と朝風君と一緒に来たの」
「知り合い、ってとこか」
「こんな思いをするなら今日、こんなとこ来なきゃよかった」
「お前が来たいって……いや、そんなこと言ってもか。柚木原、お前その……海原ってヤツに何したんだよ」
「……何もしてない」
いや、そんなわけないだろ。
柏木と顔を見合わせて、揃えて息を吐く。意地を張った小学生となった彼女に聞いたのが間違いだったのかもしれない。
「未花ぁ、お前もそこに居たんだろ?」
「確かに居たけど……」
「何があったかだけ言ってくれればいい。なんでどうしてなんてことはどうせわからないんだ」
それなら、と言いながら彼女は事の顛末を告げる。その間、思い出したかのように柚木原さんは手を震わせ、机に爪をたてながらまた、大粒の涙を流す。
「つまらない。ねぇ」
滅多に怒らない海原を怒らせるなんて、良くできたものだ。
まぁただ、そりゃあ怒るだろうな。特にアイツなら。
海原と何年も同じクラスに居れば耳にタコが出来るくらい聞いた彼女の”おもしろそう”は多分、彼女の行動原理であって指針でもあったんだろう。
傍から見たらそんな言葉はどうでも良いものなのかもしれない。けれど、彼女にとってそれはまさしく禁句。
「海原とか言うやつもムキになって泥沼ってことか。それで? 怒って帰ったってところか?」
「だってあいつ……」
「だってじゃねぇだろ柚木原ぁ。お前さ――」
呆れた柏木は溜息を吐きながら言葉を並べる。一方で話し終えたように見えた天野はまだ何か言いたげな表情だ。
おそらくこの話はそんな単純な結末を迎えたわけではないんだろう。
去り際に見た海原の表情には引っかかるものがある。怒って出ていくのであればどうしてあんなにアイツは悲しそうな顔で、泣いていたのだろう。
その涙の理由がわからない。それにそれは多分、わからないままにしてはいけないことなんだろう。
「天野、アイツは本当に怒って帰っただけなのか?」
「確かに怒ってはいたけれど、それだけじゃないかも。柚木原さん……は柏木君に任せておくとして、続きを話すわね」
天野は覚えている限りのふたりが吐いた言葉を正確に伝えてくれた。
柚木原が”つまらない”と言ったその訳。
彼女自身に矛先が向いた怨恨。
戸惑う海原。
いつの間にか走り出していた彼女。
「すまん柏木、後任せる」
事態は思った以上に深刻で、俺のするべきことは話を聞くことではなかったみたいだ。
席を立ち、柏木に2人を任せて俺も会場を出る。
携帯で海原に連絡をしても返事はない。せめてメッセージだけでも残しておこう。
あいつはもともと、ある意味では孤独だった。
なんでも出来て、挫折なんて何も知らないで常に一番で、理解者なんてものも共に進む仲間なんて人も居なかった。
そんなアイツにその言葉はある意味、とどめの一撃だったのかもしれない。
海原がどこに居て、何をしているのかもわからない。けれど探し続けるしかない。
俺はアイツの理解者になれるかどうかはわからない。たが今あいつを追いかける人が誰も居なくなってしまったら最後、アイツは本当に孤独そのものになってしまうから。
「海原っ――」
お前だって喜んで、悲しんで、怒って、傷つく、人間なんだよな。
どれだけ走ってきたのかはわからないけれど、街の喧騒が聞こえなくなったところでわたしは足をとめ、切らした息を整える。
ここがどこかはわからない。辺りには黄・ピンク・白のバラが咲き誇り、小道には手入れの入ったバラのトンネルが通っていた。遠くに見えるのは白亜の壁に赤レンガ調の家、というよりは館に近い建物がひとつ。ここは日本ではありません。なんて言われても信じてしまいそうなくらい、異国情緒にあふれている光景だった。
息が整い、頭の中を覆う真っ白な雲が晴れてくると、途端に暗雲のような鈍い雲が心を覆う。彼女の言葉はいつまでも胸の中で反響して、叫んでいるようだった。
「なんなの、本当に……」
辺りには人ひとり居ない。ここには盗み聞く人も居なければ、親身に聞いてくれる人も居ない。
ジワリと湿った手のひらで胸を押さえながら、それでも押さえきれない想いを少しづつ吐き出す。
「わたしだって全部全部なんでも出来るわけないじゃん! 練習だってするし悩みだってするし、わたしだってがんばってるんだよ! それなのにみんないつも結果だけ見て、一回負けたくらいでわたしにケチつけて、”つまんない”なんて言って……
そんなの弱いからいけないじゃん!わたし”なんか”に負けるくらいしか努力してないんだったらそれは当然でしょ! あなたが弱い理由をわたしに押し付けないでよ!
わたしだって……ちゃんとした人間なんだよ! 海原咲なんだよ!」
「ったくうるさいな。そういうことしたいなら近くにカラオケなんていくらでもあるだろ」
返ってくるはずのないわたしの独り言に、返答があった。
カラ、カラと小さく金属の擦れる音が聞こえ、右を向いて左を向いて、後ろを振り返る。
「ここ、公園」
小さい少女……ではなく、車椅子に掛けた少女は肘をつきながら退屈そうにわたしを見て、そう言った。
「あっと……ごめんなさい! 誰も居ないと思ってつい……」
「誰も居なくてもそういうことをする場所じゃないって……まあでも、今日がたまたまそういう日だったんなら、仕方ないか」
肩にかからないくらいに伸びた彼女の髪は風揺れ、一匹の蝶が止まる。低い声で語る彼女は気付いていないみたいだけれど、それは髪飾りのようで、絵本に出てくる女の子のようだった。
「っほ、本当にごめんなさい! じゃ、じゃあわたしはこれで――」
「ひとつ、ひとつだけ、聞きたいことがある」
車椅子はわたしに向かって走り出し、髪飾りの蝶はどこかへ飛んで行ってしまったみたい。まだお説教があるのだろうか。
背筋を伸ばし、息が漏れないように唇を強く結ぶ。
「その名前、聞いたことがあるな」
「もしかして、一緒の学校だった……とか?」
「それはないな。そもそも私は学校に行ってない。コレで毎日通学って多分、結構疲れるぜ」
なんて言いながら彼女は太ももを叩く。これは彼女なりの冗談なのかもしれないけれど、笑えない。
学校に行っていなければこんないち高校生の名前なんて聞く機会は無いだろう。何かスポーツの大会で名前を見たとか?いやいや、それもないでしょ。
「あなたの名前を聞いたらわかる……かも?」
「私はあんまり外に出ないからな。それもないだろ。となると……あんた、最近何かしでかした?」
しでかした。この人は中々に癖のある話し方をする人なのかもしれない。それで実は……なんてことは知らない人に話さないし、そもそもそんなことはしていない。
最近外でわたしの名前を見ると言ったら……アレ、くらいなのかな。
思い出すだけで胸に刺さった棘の痛みを覚えるけれど、それしかないのであれば仕方がない。
「わたし最近、絵のコンテストで入賞したよ」
「っそれだ」
指を鳴らして彼女は言う。つまらなそうな顔が少し綻んで、笑ったかと思えばすぐにそれはまたつまらなそうな表情に変わる。
「見たぜ、あんたの絵。一昨日くらいにな」
「そ、それはどうも……ありがとう?」
今はあまり、見てもらって嬉しいという気持ちは無かった。ソレに関わる話でいいことなんてひとつも無かったんだから。
「正直、私はこういう絵がすごいとかこれは名画だとかそういうのは良く知らない。けどあれは……いい絵だったな?」
「えっ?」
あまりにも素直な感想で拍子抜けしてしまう。またあの絵のこれはどういう意味が――なんて言われるかと思っていたから、逆に反応に困る。
困惑するわたしを見て彼女はまた微笑んだ。
「特にあの青い鳥、本当に生きてるみたいだった。楽しそうに空を飛んでいて、生き生きとしていて、まさに幸せの青い鳥。って感じだよな。本当に好きで楽しく描いたんだろうなって思えて、私も楽しませてもらった――って、どうした?」
身体から力が抜け、後ろにあった噴水の縁に座り込む。近づく彼女の手は背中に触れ、やさしくわたしをさする。心臓の鼓動が全身を震わせているみたいで、目からは熱いものが零れだしていた。
「あれ、わたしどうして……泣いてるの?」
「あーー、こういう時は我慢しなくていいだぜ。人には人の事情があるからな」
「人……」
「そうだ、もっと楽しい話をしよう。っていっても私は外に出ないからな……まぁなんだ、気が済むまで聞いていってくれ。っとその前にあれか……」
知らなかった彼女の名前を聞いた。同じ学校でもなければ同じ趣味を持つ人でもなくて、ここで会ったらそれっきりかもしれない彼女の名前をどうしてか、わたしは強く胸に刻み込んだ。
「朝風君、私たちもこれから海原さんを探すわ。もう回ったところだけ教えてほしいの」
「あぁ、とりあえず近場は全部回ったから、1駅先くらいのところを探しておいてほしい」
もう数十分と街を駆け回っているが、海原の姿を見つけることは出来ず、完全に行き詰っていた。
天野からの連絡も来たが、海原が帰ってきた様子もなく、一応で連絡先を交換していたクラスメイトに聞いてもふざけた返信しかないみたいだ。
「海原っ……」
直後、ポケットに入れた携帯が震える。海原からかもしれない。急いで取り出し人目を気にせず声を出す。
「海原か? 今どこに――」
「悠。お前今どこに居る」
低く野太い声が耳を伝う。親父の声だ。こういう時にだけ連絡を寄越す親父に苛立ちながらも、今はそんなことをしている場合じゃない。
「悪い親父、今”そんな話”してる場合じゃないんだ」
「”そんな話”? あぁ、そんな話か」
何が言いたいんだよ。なんて悪態をつきたくもなるが、話が長くなるだけだ。帰ったら後でいくらでも聞くから。なんて言ったが親父は俺の声を無視して続ける。
「俺を騙して芸大に行こうとするお前の話が、”そんな話”か」
「はっ?」
「今すぐ帰れ。それで、俺の部屋に来い」
「待てよ親父、おやっ」
一方的に切られた電話は無機質な音だけがこだまする。
今、俺の前にはふたつの道が示されていた。
ひとつ、どこにいるかもわからない海原を探すこと。
ふたつ、すべてが露呈した今、親父の元へ戻ること。
苦虫を嚙み潰す勢いで軋ませた歯からは血が出そうなくらいに力が入り、背中はびっしょりと脂汗で濡れていた。
俺は再び走り出す。もしかしたら今日、親父に殴られるかもしれない。
それでも俺は走り出す。どこに向けてなんてものはない。彼女の元へ、走り出す。
俺が言ったんじゃねぇか。最初にな。
浮かび上がる言葉を反芻し、覆う暗雲を振り払う。
あいつの痛みに比べたら一発殴られるくらいなんて屁でもねぇ。
あぁもう、どうにでもなれ。だ。