「実はな、知らなかったのはそいつだけだったんだよ。でも段々そいつも気付き始めるんだ。なんかおかしいぞ? って」
「うんうん、それでそれで?」
「それから先は、お前の目で見るんだな」
「そこから先が気になるんじゃん! うー、ちょっと気になってきちゃった……」
噴水広場のベンチに腰かけたわたしの隣では、重い車椅子を横に停めた彼女がまるでコメディアンのように身振り手振りをしながら楽しそうに、いろんな話をしてくれた。
「トゥルーマンショーで検索するんじゃぞ。よいな?」
「帰ったら絶対見てみるよ。おばあちゃん」
「……じいちゃんのつもりだったんだけどな」
胸のつかえは収まり、込み上げる涙も乾ききった頃、くせっけの一年さんは髭のようにそれを頬に当てながら話す。
あれからどれだけ時間が経ったのかはわからない。1時間くらい話していたのかもしれないし、15分しか話していないのかもしれない。
ただ、その間の時間はわたしにとって安心できる時間で、同時に幸せと胸を張って言える時間。
「もう、大丈夫みたいだな」
「うん。それじゃあ今度は、わたしの番だね」
「お前も何か面白い話でも持ってるのか?」
「あぁいや……おもしろいかどうかは別だけど、わたしがどうして今日こんなことになってたのかは、話しておこうかなって」
無理に話すことはない。彼女は言うけれどわたしは首を横に振り、今日までのことをゆっくりと話し始めた。
話しておこう。なんて言ったけれどその実、本当はただわたしの話を聞いて欲しかっただけなのかもしれない。
わたしがどうして画展に出ようと思ったのか、そしてどうして、こんなことになってしまったのか。
一年さんは真剣にわたしの話を聞いてくれた。時々指で顎を撫でながら考えたり、相槌を打ってくれたり、わたしを理解しようとしてくれていた。
「たいへんだったんだな」
「でもね、こうやって話せるくらいまでにはわたし、立ち直れたよ」
「ははっ、そりゃあ良かった。言わせちまったみたいで悪いな」
「ううん、そんなことはないんだよ。逆に聞かせちゃったみたいでごめんね? どうお礼したらいいかわからないくらいに、わたしは助かったんだよ」
「お礼、お礼か……」
一年さんはまた考え込むように指で遊び始めた。自覚もなく、癖になっているんだろうけど、それは見ていて面白いから何も言わないでおこう。
簡単にお礼なんて言っちゃったけど、それだけ悩むくらい本気で考えてるってこと……? わたしの出来る範囲だったらいいけどなぁ。
「それにしても、こんな話すると思わなかったよ」
「しかも、見ず知らずの人に対してな」
「あはは、今はもう友達みたいなものだけどね」
「友達、友達……」
そう呟いた後、彼女は遊ぶ指を止める。もしかしてそう思ってたのはわたしだけ……?トンボが止まるまで待ってるだけだと思っておこう。夏だけど。
「これは、私から言うのはおかしい話でもあるんだが」
「可笑しい話?」
「可笑しいというよりかは、おかしいだな」
同じ言葉でも違う意味があるのだろうか。考えてもわからないことはとりあえず、聞いてみた方が早いだろう。
言い淀む彼女の口はパクパクと開く、そのためらいが長ければ長い程、わたしの中の不安は徐々に大きくなり、同時に胸の鼓動も速くなる。
意を決した彼女は車椅子に掛けた鞄から取り出した一冊のノートをわたしに見せてくれた。それは何の変哲もない学習用ノートではあるけれど、国語、数学、英語、表紙に書かれている文字はどれにも当てはまらない言葉が刻まれている。
「死ぬまでに、やりたいこと……ノート……?」
「あぁ。名前の通り、私が死ぬまでにやってみたいことはここに全部書いてある。とりあえず100個、100個書いてみたんだ。それでな、その……手伝ってほしいんだ。これを埋めるの」
唐突に出てきた死という単語にわたしは肩を震わせる。
彼女の少し上ずった声、視線に帯びた憂いはよれた表紙にじんわりと染み入るようだった。
「勿論、最後までなんてことは言わない。飽きたらそう言ってくれたらいい。少しだけでいいんだ、それだけでいいから――手伝ってほしい」
「ちなみに……やりたいことってどんなことが書いてあるの? 見ても良い?」
「それはダメだ」
「ダメなの!?」
「あぁ、ダメだ」
中身の見えない”お願いごと”はわたしの想像を膨らませるには充分のスパイスで、手を引くことも差し出すこともわたしの調理次第、ということだった。
真剣に彼女は言う。わたしが例えこの子と他人であっても親友であっても、それは多分変わらないのだろう。
「……どうしても?」
「どうしても、だ。あれがしたいこれがしたいは私が言うから、それまでのお楽しみってことにしておいてくれ」
“お楽しみ”、”お楽しみ”かぁ。
「うん、いいよ」
「いい……のか?本当に?」
「助けてもらっちゃったし、友達の頼みだしね」
「……ありがとう」
噛みしめるようにもう一度彼女は言う。ありがとう、と。
何気なく踏み出してしまった一歩をもう戻すことは出来ない。彼女の安堵はわたしに少なからずのしかかるものがあるけれど、なんとかなるだろう。わたしなんだから。
「それで、あとどれくらい残ってるの? その――やりたいことって」
「あれはさっき終わったから……後は99個だな」
99個という数を聞いて顔は強張るけれど、それだけ楽しみもあるということだろう。逆に終わってる1個ってなんなんだろう……
「どれだけかかるかはわからないけどよろし――ってうわっ!」
わたしと彼女の間に流れる落ち着いた空気は、突如吹きあがる噴水のパフォーマンスが攫って行く。
驚くわたしを見て一年さんは笑っていた。そんな時間か、言いながら横に建てられた時計の丁度、てっぺんを指している。なるほど、時間でこうなるシステムだったんだね。
「いい時間だし私はもう帰るぞ。だいたいここに居るから、まぁ気が向いた時にでも遊びに来てくれ」
「公園を自分の家みたいにいう人、初めて見たかも……」
「まぁ、ある意味家みたいなもんだからな。まぁいいや」
またな。器用に車椅子を動かしながら彼女は去る。わたしも帰……帰る? 戻る?あれ、どうしたらいいんだろう。
とりあえずで開いた携帯には未読のメッセージが所狭しと並ぶ。うわ、絶対これみんなに心配させちゃってるよね……
「もう大丈夫だよーなんて送ったら逆に心配されるのかな……ま、いっか」
それだけ残してわたしはまた携帯をしまう。このまま家に帰るのか、あの画展にまた戻るのか、わたしが選んだことはもう少しこの花々に囲まれること。
眩しいくらいに照らす照明はなく、暖かい陽がわたしを照らし、寒いくらいに効いたクーラーもなく、噴水から飛び散る水滴がわたしに潤いをくれる。
どうせ天野さんとも朝風くんとも明日の夏期講習で会うのだから。今日くらいはいいだろう。
「そうだよね、今日くらいはのんびりのんびり。ダラーっとしてみよっか」
毎日いろんなことがあったら疲れちゃうもん。わたしだって人、なんだから。
陽の落ちた帰り道、落ち着いた住宅街には鈴虫の合唱が鳴り響く。切れかけていた街灯は完全に切れていて、限りなく黒に近い青が俺の周りを包んでいた。
「あいつ、ちゃんと帰れたんだろうな……」
――心配させちゃってごめんね。もう大丈夫だから、気にしないで!
あれだけ連絡のつかなかった海原から返って来た返事はあまりにも短い一文。けれどそこには長く深い意味が隠されているような気がして、時々逆方向に向こうとした足は天野の言葉に引き戻された。
――ひとりになりたい時だってあるから、今日はそうしておきましょう。
気にしないでという言葉の意味を考えるのは止め、たどり着いた家の玄関を開ける。なんだか今日だけはその扉がとても重いような気がしてならない。
「……親父は?」
「ちょっとなんで直ぐ帰ってこなかったの……あんまり遅いからお父さん、部屋戻っちゃったのよ」
「親父、キレてた?」
「……あれだけ怒ってるの見たことないよ」
それは……死を覚悟した方が良さそうだ。
鞄はソファーに放り投げ、心配する母を横目に部屋へ向かう。指先は痺れにもよく似た感覚を纏い、重い足取りもぎこちない。法廷に向かう被告というのは多分、こういう気持ちなんだろう。
「よく帰って来れたな」
扉の先は滅多に入らないし、そもそも入ることを許されない親父の部屋。前に入ったのはいくつの頃だったか。朧げにしか覚えてはいないけれど、中の様子はそう変わってはいなかった。
丁寧に整頓された画材、教材、そして、空の額縁。奥に鎮座する親父は指だけ指して、俺を向かいに座らせる。
「ちょっと遠くまで出てたからな。遅くなったことは勿論、申し訳ないとは思ってる。悪かったよ」
「よく、俺を騙したその面で帰ってこれたな。と言ってるんだ」
前にも、こんな場面に出くわしたような気がする。その時と違うのは親父の声にはやさしさも棘も無いところ。すべてが無機質で淡々と、突き放すようにただただ事実を配置しているだけみたいだった。
まぁ、飲め。差し出されたコーヒーは湯気もなく、すっかりと冷えてしまっていた。それすらも何か暗に示しているように思えてしまって、すべてが疑い深くなってしまう。酸味が喉を刺す。
「まだお前から話を聞いてないからな。この際だから全部、聞かせてもらうぞ」
「公平な裁判官だな」
「黙秘権はないからな。まずは、だ。今日お前の担任から電話があってな、学校にアートコンペの参加書類一式が届いたから送る。なんて話を聞いたが、これは俺の聞き間違えか?」
「間違いない……です」
口も思考もぎこちなく、縮こまった身のせいか、いつもより親父が大きく見えてしまう。親父の反応は何もない。粛々と事実確認をしているだけみたいに、続ける。
「この間の画展の時に言っていたな、最後の一枚が必要だって。諦めるための最後だって、それなら今日の話はなんだ? また、騙したのか?」
「確かにそれは、騙すような形になったのかもしれない。けどな親父――」
「騙したんだな? それも二度」
「……そうだな」
それは言い方が狡い。なんてことは勿論、言えるわけがない。こうなればもう親父の言う”騙した”という言葉は認め、その上で攻勢に出るしかないだろう。
「諦めるために描いた一枚で、繋がっちまったんだよ。視えちまったんだ。その先のアートコンペで大賞を獲ったら俺は、藝大に行く」
その二文字は親父を動かすには十分すぎる言葉で、揺れる親父のコーヒーカップからは黒が零れる。俺をキッと睨む視線は今、何もよりも鋭く俺を射殺そうとしているみたいだ。
「親父、もう一度言わせてくれ。俺は藝大に行く」
「もう一杯、コーヒーが必要みたいだな」
「あぁいや、俺はもう十分なんだが」
「いや、必要だな。眠気眼のお前にはまだ、必要みたいだ」
「だから俺は眠くもなんとも――」
「いい加減、目を覚ませ。あんなつまらない絵だけしか描けないお前が仮に、仮にだ、藝大に行けたところで何になる。それを一生の仕事にしていけるなんて考えているのなら何度でも言うぞ。目を覚ませ」
親父から漏れ出した苛立ちは雑に置かれたカップの高い音が俺に伝える。親父はいつも俺に言う。
つまらない絵、と。
そしてその苛立ちは、伝播する。
「なんだよ、つまらない絵って。ずっとずっと親父は言い続けてきたな。俺の絵の何が気に食わないんだよ」
「透けて見えるんだよ、お前のくだらないエゴが。お前の絵は想像の余地を与えない。伝わるものはお前の伝えたいことだけで、そこから広がるものは何もない。自己中心的で自己陶酔的で広がることはない。窮屈な絵しかお前は描けてないんだよ。何年だ、もう夢を見るのはいいだろう。夢ばかり見るのは止めて現実を見ろ、目を覚まして早く、大人になれ」
「自分がそうだったから子供に押し付けるってのか」
売り言葉に買い言葉とはまさにこのこと。荒く大きくなる言葉を聞きつけて来た母の静止を聞く者はここに居ない。
親父の言葉は何も響かない。蛙の子は蛙と言わんばかりに押し付けてくる”大人”の言葉にはもうこりごりだ。
「あのかっこよかった親父はどこに行ったんだよ! 楽しそうに絵を描いて、俺を楽しませてくれたあんたどこに行ったんだよ! 俺に夢を見せてくれたあんたは、どこに行っちまったんだよ! それに俺は、俺に夢を見せてくれたあんたの息子なんだよ。目を覚ますのはどっちの方だよ」
「悠、もういいでしょ。ほらお父さんも――」
「さっき言ったなあんたは、”大人”になれって、くだらねぇ。そんなに安定が大好きか。そんな平坦な道だけ歩くことが”大人”か? 諦めることが”大人”になるってことか?」
「現実に目を向けられることが大人になることだろう。地に足付けて己を知ることが大人になるということだ」
「はっ、要は怖がってるだけだろ」
「悠! もうあんたやめなさい!」
「母さん、言わせておけ」
親父は母を止め、止まらない俺に冷たい視線を送る。気に食わないスかした態度に俺は失望する。
それは親父に対して、大人というものに対して。
「ガキだと思いたければそう思っていればいい。諦めることが大人になるということだったら、俺は一生子供でいい」
「どこまでも子供だな、お前は。そこまで言うなら俺はもう知らん、やりたければ好きなだけやればいい。行きたければどこにでも行け。お前がそこまで勝手にするんだったら、ここにはもう帰って来るな。お前の居場所はお前が作れ」
拒絶した親父と俺は同時に背を向ける。俺がここに居る理由はもうひとつもないのだから。親父もそれは同じだろう。俺をここに残し続ける理由なんてひとつもない。
「親父。俺はアートコンペに出るからな。藝大に行って、画家になって、あんたが見せてくれた夢の続きを描くよ」
答えも道も決まったようなものだ。部屋を出て、放った鞄を再び手にして家を出る。いってきます。なんて言葉は不要だ。
その家に帰ることはもう無いのだから。
宛の無い熱帯夜、遠ざかる灯りが見えなくなるまで走り続ける。
俺の見ているものが例え夢だとしても、目を覚ます必要なんてどこにもない。
親父はそれを悪夢とでも言いたいんだろう。なぁ、そうだろ?
それなら俺はまだ、もう少しだけこの”悪夢”を見続けることにするよ。