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第37話「変わる季節、名残惜しくも巡り巡って」

「朝風、そんなに眠いなら顔でも洗って来るか?」

「いや、いっす」

「先生は朝風が心配だよ……」


 ここ数日で先生と朝風くんとのやり取りは何回聞いただろう。

 その言葉を聞く度わたしは少しだけ身が引き締められ、同時に目の前の勉強から少し彼に対しての心配に目が行ってしまう。やば、先生こっち見てる。

 黒板に書かれた解説が消えてしまう前に要点だけを書き写すけれど、それがどれだけわたしの頭にインプットされていっているのかはわからない。眠そうな彼の頭にはきっと、1ミリも入ってきてはいないんだろう。


「夏期講習も今日で終わるがな、だからと言ってこれから遊んでいい訳じゃないからな。勿論課題も出すが、それ以外の自己学習も忘れるなよ」


 疲れの溜まったわたし達は嫌味ひとつ言わずにその言葉を噛みしめるが、時折どこかから漏れる溜息に思わず同調してしまいそうだ。

 藝大志望のわたしと朝風くんは一応、カテゴリ的には文系ということで夏期講習を受けている。いくら5教科の比率が少ないとはいえ、最低限受験生らしい準備ができていないと落とされる可能性は充分にあるから、わたし達は欠かさず参加していた。していた……けど。

 鐘が鳴り、先生が教室を出ていくと途端に教室は喧騒で満たされる。相変わらず朝風くんは疲れた顔をして、眠そうだ。


「大丈夫かなぁ……?」


 ここ最近めっきりお話することもなかったし、一言くらいかけておいた方が良いのかな。


「ねぇ咲咲ーこれから瑞貴達と夏の新作飲み納め会するんだけど……って、また朝風くん?」

「ちょっ、文ここでそれは!」

「こんだけうるさいんだから誰も聞きやしないって」


 席を立つわたしは文の声で止まる。誰も聞いてないかもしれないけど、怖いものは怖いって……

 心配しょーだよねー咲は。よしよし。なんて言いながら文はわたしの頭を楽しそうに撫でる。それはそれで……ベクトルの違う恥ずかしさがあるな。


「あー、飲み納め会だけどわたしはいいや。ちょっとやることあるし」

「何? やっぱ朝風くん? 最近心配だよねぇ。ずっと疲れてる感じだし。終わったら直ぐ帰っちゃうし」

「だから帰っちゃう前に話でも聞いてみよ――と思ったんだけど……」


 撫でる彼女の手を除けて振り返ってみるけれど、彼の、朝風くんの姿はもうどこにもなかった。

 ねぇ本当に……どうしちゃったの?




「って言うことがあったの」

「ふーん、別に好きな人でも出来たんじゃね?」

「そ、そんなことない……って! そもそももともと好きな人なんて居なかったはずだよ!多分!」


 噴水と風に揺れ擦れる草花の音と――咲? だっけか。彼女の声だけのする公園では、甘い香りが漂っているようだった。

 彼女の話は買ってきてくれた夏の新作? よりも甘ったるくて、聞き続けていたら気持ち悪くなってしまいそう。そもそも夏の新作ってなんだよ。もう夏終わるぞ。

 カップの底にたまった終わりかけの夏を海原は勢いよくストローで吸い、ヤケ飲みを終えた彼女は再び鉛筆を取る。


「別に、特別おかしいってわけでもないの。でもなんだか、気になるなぁって」

「普通に考えたら、家で勉強してるから眠たいだけなんじゃねぇの? だって、現にすぐ帰ってんだろ?」

「そのまま家にーってとこまでは知らないけどね」

「すぐそうやって悪い方に考える。そうなって欲しい訳じゃないだろ。んで、そろそろ出来たのか?」

「あぁうん。いい感じ。最後にこうして……おっけー」


 向かいに座る彼女は走らせる筆を止める。隣に来ても良いという合図を受けて私も伸ばした背筋を丸め、固まった表情筋を疲れた顔で歪めることにした。


「ただ座ってるだけかと思ってたが、モデルってのもなかなか疲れるもんだな」

「人物画ってなるとどうしても必要だったからねぇ。ありがと。今度はわたしがモデルにでもなってみようか?」

「描くのは専門外だからな。どっちみちやめだやめ」


 言いながら彼女の隣に行き、数十分前まで白紙だったページに目を落とす。そこには噴水をバックに当社比30パーセント増しに凛々しい私が描かれていて、上手いとは思うが気恥ずかしい一枚が描かれていた。


「どう? けっこう可愛く描けてると思うけど」

「そうだな。特にここ、噴水の水しぶきが良いな。白と黒だけなのになんだかこう、生き生きしててみずみずしい感じが私は好きだな。鉛筆だけでよくここまで描けるもんだよ」


 良いんじゃないか? 率直な感想を伝えてはみたけれど、どうも彼女は不満そうに頬を膨らませながらまた私を見る。いや、なんだよ。


「今日って人物画の練習なんだよ?」

「て言われてもな、私自身の見た目なんてあんまり気にすることがないけど……かわ、可愛いんじゃないか?」

「それなら大成功だね!」

「あぁ、大成功だな」


 ふくれっ面の彼女はもう笑顔の彼女に変わっていて、彼女はまるで春の天気みたいだった。コロコロと顔を変えても疲れ知らずに最後には笑う彼女は見ていて中々におもしろい。


「それじゃ、これとこれと――あと、これも終わりだな」

「ん、今日は3つも進んだの?」

「あぁ、悩みを聞くことと私を題材にしてもらうことと、あとは夏の新作分だな」


 言いながら鞄から引っ張り出したノートを開き、鉛筆を借りて横線を引く。良い調子だ。このまま行けばきっと――


「そろそろ秋の新作だから、そしたらまた買って来るよ」

「夏と秋と、そっちも忙しそうだな」


 秋、と聞いて袖から出た肌を擦ってみる。肌寒いわけでもないし、この暑い季節が終わってくれるのは嬉しいことだけど、少しだけ、ほんの少しだけ名残惜しい気持ちにもなってしまう。

 それこそ、底に溜まった新作を飲み干してしまったら終わってしまいそうなくらい。


「夏、終わるのか」

「そんなに気に入ったならまた来年買って来るって」


 また来年、あるかどうかもわからない次を信じて、残った夏を飲み干した。温くなって甘くなって、沈んだ果肉はドロッとしていたけれど。


「約束だからな」

「うん!」


 どうしてか、私はそれを求めて、手を伸ばしているようだった。




 切れた画材を仕入れるため久しぶりに降りた駅は再開発の影響で様相を変え、知らない駅に降りてしまったような感覚が私を襲った。

 夏の暑さも落ち着いた夏休み最終日。道のりは勿論覚えているけれど、広げた携帯についつい目を落としながら私は道を歩く。

 あれから朝風君と海原さんと会うことも無ければ、連絡を取ることもなくなってしまった。

 少し早い秋が来てしまったのだろうか、風も吹いていないのになぜだか少し肌寒い。

 受験期なのだから、そもそも頻繁に誰かと会うというのもおかしいだろう。むしろ、連絡を取ることが減るのも普通のことだ、目の前には受験という高い壁があるのだから、他にうつつを抜かしていてはいつか足元をすくわれてしまう。

 この街みたいに皆、変わってしまったのかもしれない。

 小さい頃から通っている画材屋だけは変わることなく、いつもの様子でそこにあることに少しだけ安心できた。


「ほら、じゃあ後は接客やってみて?」

「い、いらっしゃいませ」


 いつも挨拶をしてくれた女性の店員とは違う、若い男の人の声が耳に入る。少し緊張した声色からするに、新しいアルバイトの人だろうか。

 何年も来ているこの店でアルバイト募集の広告なんて見たことは無いけれど、ここの店主もだいぶお年を召していた気がするから、お孫さんなのかもしれないわね。

 変わらないものなんて実は、無いのかもしれない。そんなことを考えながらいくつかの絵具とついでにパレットを見繕い、レジに向かう。


「お預かりいたしま……す?」


 バーコードを読み込む甲高い音が聞こえることはなく、彼の疑問符だけが横たわる。あぁ、先にポイントカードだったわね。

 財布から取り出して渡す瞬間に彼の疑問符は伝染し、私もまた目の前の彼のように固まってしまう。


「天野じゃん」

「朝風君……?どうして……ここに?」


 ……朝風君って、ここの孫だったの?


夏篇~馳せた想いは色へと滲み~

-了-

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