公園のベンチというものは座るものであって、寝るために使うものでは無いらしい。
齢17歳の夏。名実ともに家なき子となって初めて知ったのは、そんなどうでも良いことだった。背中と腰に走る痛みは朝になっても引かず、じんわりとした痛みと共に湧いてきたのはほんの少しの後悔と子供じみた強がりだけ。
「あっつ……」
照り付ける日差しはいくら夏の終わりと言ってもとても暖かいと言えるものでは無く、焼けた顔からはピリピリとした痛みが走り、濡れたシャツは風で運ばれた砂が張り付いていて気持ちが悪い。
「それでも、俺が決めたことだからな……これからどうすっかなぁ」
勢いで飛び出した時に持っていたのは鞄ひとつだけ。食べるものは……ない。着替えも……ない。実は大金が入っていたり……することもない。
入っているのは学生証とスケッチブックと筆箱と、なけなしの数千円が入った財布だけ。もって2日あたりか?
いいや、俺は首を振る。あんな大口を叩いた手前、2日ぽっちでごめんなさいなんてことは出来ない。出来るはずがない。
……そうだ、絵でも描いて売ってみるとかはどうだろう。途端に画家らしくなってきたかもしれないな。どうせほかにやることだって無いしな。
適当なページを開き、鉛筆を走らせる。追い込まれた今の俺なら逆に、なんでも出来る。湧き出す無責任な万能感のまま、気持ちに任せて走らせる。
「あら、お兄さん上手に絵描くねぇ」
「これは……カササギかい? 珍しい鳥でも描くもんだ。ここ辺りの子?」
「あ、あぁ。ちょっと今日は外で描きたい気分だったので」
早朝の公園に人なんて居ると思ってはいなかったから、突然の声に筆はブレる。
声を掛けてきたのは老夫婦だった。真っ白な白髪は日傘の下でも輝いて、皺の入った焼けた肌はそのコントラストでよりたくましく見え、どこか気品を纏っているようだ。
そんなふたりは俺の絵を見ると、どこか懐かしむような目で、慈愛に満ちた表情で想い更けているよう。
「小白ちゃんを思い出すなぁ」
「あらあら、年末にはまた帰ってきてくれますから」
「お孫さんですか?」
「えぇ、そうなの。とってもかわいい孫でね。この間までは一緒に住んでたけど、寮のある学校に行っちゃって……お兄さんみたいに絵を描く子でね。描いたらおばあちゃんおばあちゃん。って見せに来てくれるの」
「描いてる間に話しかけて済まないね。それじゃ」
言い終えると、満足そうに老夫婦は去って行った。風のように去って行ってしまったふたりはまた、少し寂しそうな背中をしていたような気がする。
「……こういう時に、買ってくれませんかなんて言えたらなぁ……」
ふいに浮かんだチャンスを掴めなかった自分が不甲斐ない。頭を抱えながらもまた鉛筆をとり、新しいページにまた、カササギの住まう森を描き続ける。
金が欲しいから? それもそうだが、それよりもまたあの人達に笑ってもらいたい。
寂しい背中よりもそっちの方がよっぽどお似合いだ。
自分ならどう描くだろう。そんな手癖を棄てて描くのは久しぶりだ。
その筆の軌跡は俺のためじゃない。誰かのために、走らせ続けるんだ。
「ちょっと昨日お兄さん、お兄さん?」
「ん……ん?」
「あぁどうも。ははっ」
「こんなところで寝たら身体悪くするよ? いくら若いからってそんな無理して……」
「家まで送ろうか?」
「あー、今丁度家が無くて……」
もう一度寝食を共にしたベンチは俺にやさしくなってくれている訳もなく、相変わらず背中と腰は鞭を打たれた後のようにひりひりと痛む。
また全身の痛みに起こされたと思ったが今日は違ったみたいで、先日の老夫婦は心配そうに俺の身体を擦り、起こしてくれたようだ。
あれからずっと絵を描いていたらいつの間にか、眠っていたらしい。どれだけ眠っていたのかはわからないが、再会は思ったよりも早い。
ここまで心配されてしまっては仕方ないだろう。渋々と事の経緯をこの二人には話すことにした。
「一端の高校生に出来ることなんて少ないので、絵でも描いて少しでも食いつないで行けたらと思って……ずっとここで描いてたんです」
「お話を聞いてくれて、ありがとうございました。少しだけ気持ちの整理というか、落ちつけたような気がします。俺は小白さん?の代わりにはなれませんが、これは受け取ってください」
親身に聞いてくれる二人の前で、話す必要のないものまで話してしまったような気がする。
はけ口とでも思っているのだろうか? 俺はあの人たちを。そんな自分が嫌になる。
描き終えたカササギの森を広げ、そのページだけを切り取り二人に手渡した。
ここに居ればいるほどふたりを心配させるだけだろう。小さく礼をして鞄を背負い公園を後にしようと、背を向ける。
「お兄さん、ちょっと待ってくれないか」
「えと……はい」
お爺さんは蓄えた髭を何度もなぞりながら悩み、再び口を開く。
「その絵、買わせてくれないだろうか」
「本当……ですか?」
「君は話を聞いてくれたと言っていたが、老いぼれのお節介なだけだよ。それに、自分の絵にはちゃんと価値を示すべき。なんだよ」
タダより高いものは無いが、それは自分の価値を棄てているだけ。続けて告げる言葉に少し、胸が苦しい。
「婆さん。貸してるアパートの部屋、空いてたな」
「ほ、ホントですか?それよりも先に、ご両親と仲直りした方が良いと思いますけど……」
「むぅ……時間が解決してくれるとは言わないが、物事にはタイミングというものがある。朝風さん、だったかな。この子としても、親御さんとしても今必要なのは充分に落ち着ける時間だろう」
二人の会話に俺は混ざることも出来ず、ただただ立ち尽くしていた。これは夢か?
全身の痛みや倦怠感は即座に否定する。これは紛れもない、現実なんだ。
「朝風さん」
「は、はい」
「この絵と、親御さんとの溝を埋めること。それを条件にどうだい、少しの間だけでもゆっくりしていくかい?」
「は、はい! お願いします! 他の絵だって描きますし、お手伝いできることがあればなんでもやります。お願いします」
深く、深く頭を下げるとやさしく肩を抱き、顔を上げたお爺さんは笑いながら背中を叩く。
力強いそれは頑張れよ。と言いたげで、やり遂げろよ。という激励も込められているようだった。
「ありがとうございます」
心の底から出た言葉と共に、二人と共に、歩き出す。
夏の終わり、秋の訪れ。
新しい風は俺の中でも確かに、吹いていた。
店外に置かれたベンチからはよく空が見えた。
もこもこ、と言い表すのが近いかしら。子羊にも魚の鱗にも見える雲は、蒸し暑さの残る残暑を忘れさせてくれるような、秋の訪れを描き出しているみたい。
――もう少ししたら上がるから、少しだけ待っててくれ。……話したいこともあるしな。
「なによ、話したいことって」
思わぬ場所で、思わぬ出会い。
追いつかない理解と整理しきれない頭の断捨離をしているところで、答えは足音をたててやってくる。
「待たせたな。冷たいので良かったか?」
「どっちでも。ありがとう」
「なら、悩む必要もなかったみたいだな」
私の分まで用意してくれた飲み物に手を掛け、喉を駆ける清涼感でリフレッシュでもしてみたけれど、やはりわからない。こんな時期からアルバイトって、本気なの?
「聞きたいことが多すぎるのだけど」
「あー、天野には何も言ってなかったからな。そもそも誰にも言ってなかったけど。……俺さ、家――追い出されんだ」
「……は?」
軽い調子で半ば自嘲気味に笑う朝風君の言葉を私は、受け止めることは出来なかった。
聞き間違え? そうよね。えぇ、きっとそうよ。ただそれなら私は一体、何と聞き間違えたんだろう。
「ごめんなさい。ぼぉっとして聞いてなかったのだけど、今なんて?」
「家追い出されたんだ。破門だ破門」
「私のことからかってる?」
「そんな余裕、今ないんだわ」
夢、でも無いんだろう。温い風はくすぐったいし、頬をつねってみると痛いし、彼は彼で真面目に話すし、そもそも嘘をつく理由もない。
「藝大行くこと親父にバレてさ、死ぬほど喧嘩した。それで先週から月代さん――ここでお世話になることになって」
「遠い親戚だったり?」
「いや、全然。繋がりなんてなんも――絵が好きなことくらいか。まぁいいや、最初から話した方がわかりやすいか」
言いながら朝風君は立ち上がり、軽い調子で私に告げる。
「立ち話もなんだ。ウチ、来るか?」
「――えっ?」
そんな気軽に呼べるものなの? 男の子が、朝風君が、私を?
訳も分からず言葉も出ず、ただ首だけは小さく一度だけ、縦に振られていた。
もう少し順序とかタイミングとか雰囲気とか……気にしないか。朝風君は。