「ここ」
朝風君が”お世話になっている”と言っていたアパートは、画材屋から5分もしないところにぽつんと建っていた。
アパートというよりかは長屋と言った方が近いのかもしれない。横に長いソレの階段を上がり、一番奥の扉の前で彼は財布をいじる。
カチャカチャ。と金属の擦れる音が、引き返すなら今という警告を私にしてくれているみたい。人の家に行くことは別に珍しい行為ではないけれど、それとこれとは……似て非なるものだろう。
「ねぇ、本当にいいの?」
「いいのって……何が?」
「いえ、やっぱりなんでもないわよ」
その言葉は私自身にも言い聞かせる言葉だったけれど、そっけなく気にも留めていない彼を見ているとなんだかバカバカしくなってしまい、止めた。気にしてる私がバカみたいじゃない。
「どうぞ。散らかってるがな」
「お、おじゃまします」
初めて上がった男の人の部屋、朝風君の部屋はおよそ生活感と呼べるものが全くと言っていいくらいに何もなく、4,5畳半しかないワンルームはそれ以上に広く見えてしまう。
「散らかってるなんて言って、そもそも散らかすようなものが無いじゃない」
「冷蔵庫も電子レンジも高校生の財布には高すぎる。贅沢は言わないよ」
これは贅沢以前の問題でしょうに。部屋の真ん中にぽつんと置かれたちゃぶ台の前に座り、何もないけれど部屋を見渡してみる。別に、ソワソワしているわけでもないから。
ただ、生活感こそこの部屋にはないけれど、殺風景という文字はこの部屋にとってあまりにも似合わない言葉だった。
「これ、全部あなたが描いたの?」
「ん、あぁ。やることなんてホント、それくらいしかないからな」
完成したもの、描きかけのもの、線画だけのもの。壁には額縁すら貰えなかった絵が所せましと置かれていて、やたら日当たりだけの良いこの部屋は、家というよりかはアトリエという言葉が近いのかもしれない。
なぜどれも水彩画なのか。なんて疑問は聞く前に答えはあらかたわかっていた。今の彼だったらどうせ、水なら安く済むからな。なんて言いそうだもの。
「それにしても多いわね。出て行けなんて言われて1週間くらいでしょう? それでこの枚数をホントに描いたと言うの?」
「あぁ。暇さえあれば描いてるし、これに集中してる時は空腹も忘れられるからな」
「まさか、何も食べてないの?」
「流石に餓死しない程度には食べてるよ。近くに良いスーパーがあってな、夜行くと安いんだ。この通りもてなせるものなんて何もないけど、外よりかはずっとマシだろ」
言葉こそ強がってはいるけれど、そのこけた頬は正直そのものだった。
そんな彼は私に何も言わせず、そのまま事の経緯を続けて話す。
画展に言ったあの日から帰っていないこと。帰れないこと。帰るつもりも無いことを。
「それで、当分は帰らないつもりなのね」
「帰らないし帰れない。が正しいな」
ここで生活する。彼の下した答えについて私はどちらかというと、反対だった。
両親とまた会話をするにはタイミングが重要なんて言うけれど、それは結局問題を先延ばしにしているだけで、時間が解決してくれるものもあるかもしれないけど、それはどこまで行っても”かもしれない”だけ。
溝は時間が経てば経つほど広がり、やがて関係は薄くなる。
彼はお父さんを頑固と言うけれど、今の彼だってそれを言える立場に無いような気がしてならない。
「今日で夏休みも終わるのに、本当にそれで大丈夫なの?」
「それはやってみなきゃわからんな。ダメだったらそこらへんで野垂れ死ぬだけだ」
「死ぬだけだって、そうしたら終わりじゃない」
「それだけの覚悟で来た。ってことだよ」
頑固者はどっちなのよ。本当に。
てこでも動かない彼には溜息しか出ないけれど、私は私、彼は彼。選んだ道を他人が捻じ曲げる権利なんて誰にもないのだから、諦めて、決意して私は買った画材を手に取り立ち上がる。
「事情はわかったわ、それじゃね」
「ん、帰るのか?」
「えぇ。用事ができたからね」
「夏休みも今日で終わりだしな。課題とかも残ってるだろうし」
「……あなたと一緒にしないで」
「どうして俺が残してること知ってんだ」
そんなの知らないわよ。
不用心にも鍵の掛けられてない扉を開き、見送る彼に手を振った。
「また明日ね」
「あぁ、また明日」
ギシギシと心臓に悪い階段を降り、駅までの短い道をゆっくりと進む。
唐突に浮かんだ”用事”に頭を悩ませながら。
「……朝風君。嫌いな食べ物とかあるのかな」
不自由しかないこの部屋に住んでから唯一良かったことと言えば、目覚まし時計が無くとも起きれるようになったことだろう。
やたらと日当たりの良いこの部屋の眩しさと泣き叫ぶ腹の虫に起こされた俺は、母親が送ってくれた段ボールから取り出した制服に袖を通し、わずかに残った眠気は水道水で洗い流して準備する。
かといって完全に朝の怠さが消し飛ぶわけでは無く、一日くらいサボっても……なんて思考も頭の片隅には確かに存在していた。
迷いに迷う俺の思考を音割れのした安っぽいインターホンの鳴る音が邪魔するが、それは余計に怠さを助長しているようで、俺は一歩も身体を動かすことなく、むしろ潜めるように息を殺して居留守する。
こんな朝にこんな俺に何の用だよ。新聞なんて買う金もないし、宗教だって間に合ってるぞ。
あれから2-3分は経っただろうか。俺の部屋にこだまするインターホンは鳴りやまず、むしろペースを上げて俺を呼ぶ。
いい加減諦めてほしいが、いつ終わるかわからないその音をずっと聞いていたらノイローゼにでもなってしまいそうだ。
「あぁもう、わかったよ」
苛立ち交じりに扉を開け、相対した”お客様”にはガンのひとつでも飛ばしてやろうかなんて考えていたが……
「やっぱり居るじゃない」
「……天野?」
そこにはご迷惑な他人が立っているわけでもなく、アイロンがけされた皺ひとつ無い制服。寝ぐせひとつ無い髪。くたびれた俺とは似つかわしい彼女が立っていた。なんで?
「昨日言ったじゃない、また明日。って」
「学校でって話かと思ってたが……まぁいいや」
こいつが迎えに来てくれた手前、今日はサボりたいなんて言うことは出来ないだろう。渋々鞄を持って靴を履き、頼りない階段を降りる。
「あぁそれと、これ」
「それ……俺に?」
なんだこれ。彼女が俺に向けた小さな保冷バッグは、なんだか毎日母親に渡されたアレによく似ている気がして、ただ受け取ってみたは良いものの、それをどうして天野から渡されたのかが良く分からない。
「弁当? これ、俺に?」
「あんな食生活だったら勉強する気にもなれないでしょ。それに、一人分も二人分も変わらないから。えぇ、本当に変わらないから」
渡すとプイと背を向けてしまった天野に、貰ったソレを鞄に詰めて小走りで追いかける。先に行きながらも歩幅は小さく合わせようとする彼女の隣を歩きながら、言い忘れていた言葉を俺は告げる。
「悪いな、天野」
「そうじゃないでしょ」
「ええと……?」
「ありがとう。でしょ。こういう時は」
本当に母さんみたいなこと言うな。こいつは。
「ありがとな。天野」
「どういたしまして」
ほの暗い不安に包まれた俺の下に落ちた陽だまりは暖かい。俺を照らしてくれているのは多分――いや、わかり切ってることだ。それ以上は考えなくても良いだろう。
わがままな俺は欲張りにも願いながら道を行く。
学校までの道が、もう少し長かったらよかったのに。
これが特別じゃなくて、日常になってくれたらいいのに。