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第47話「冷えた抱擁」

「っぱ、それっぽい絵あるとカフェ感出るよなぁ。朝風ってやっぱりすごかったんだな」

「マジでうめぇよなぁ。よくわかんねぇけど、いいな!」


 そうか、なんかいいか。

 窓際のテーブルからはいくつかいわし雲が連なって見えた。秋の雲だ。あいにくの曇りなんて思ってはいたが、層の薄い雲は簡単に陽を通し、穏やかな陽だまりがいくつも出来ていた。

 正門は人で溢れかえり、知らない制服がチラホラと見える。その中でどれくらいがここに来るのだろうか。


「ってか、なんでお前まだ美術の教科書に載ってねぇの?」

「そのうち載るから待っててくれ」


 なんて適当に返すと斎藤――だったか?は笑って、言ってから俺も自分の言葉に笑ってしまう。

 なんだかんだで俺もハイになっているのかもしれない。表情筋はいつもより緩く、口も気持ちもなんだか今日は軽い。丁度あのいわし雲みたいに。

 それは文化祭なんて言う非日常のせいなのか、労いと名札の付いた毒味のコーヒーのせいなのかはわからない。

 開場して間もないからだろうけれど、客足は少ない。6人は座れるテーブルを使って贅沢なコーヒーブレイクとも言えるだろう。

 そりゃそうか。着いていきなり休憩なんてしないだろう。


「本当に砂糖要らねぇのか?」

「目覚めの一杯には必要ないだろ」


 淹れたてのコーヒーに贅沢にも入れた氷のぶつかる音で、夏を思い出した。

 あの日はまだ梅雨の時期で、ジメっとした暗い美術室で絵を描いていた俺と、海原。


「……なんかこれ、濃くないか?」


 上手く溶け込んでいなかったのか、ソレを啜ると沈殿した豆の苦みは俺を現実へと引き戻す。およそコーヒーとして楽しめる苦みを超えている気がする。本当にコレ売るのか?


「一緒にケーキも売るから、それならこれくらい濃い方が良いだろ」

「それならケーキも一緒に毒――労いで出してくれても良いと思うんだが」

「そっちは海原に食べてもらう用だって女子がな」


 ――逆にコーヒー無しってのもそれはそれで辛そうだが。

 ふと辺りを見回してみたが、丁度出てきた名前の主の姿は見えない。


「そういや海原は?」

「ちょっと前に出てったぞ。友達連れてくるーとかって。彼氏だったりしてな」

「……マジ?」

「いや知らんけど」


 知らねぇのかよ。

 火のない所に煙は立たぬとはいうけれど、こいつならどこでもボヤくらいの噂は簡単に立てられそうだ。


「ってか、お前卒業したらどうすんの? いっつも担任にドヤされてるけど」

「最近は言われてねぇから。……進学する。藝大にな」

「朝風、絵上手いもんなぁ。今の内サインもらっとこうかな」

「それならケーキも付けてくれ」

「やっぱ今度でいいや。今貰っても失くしそうだし」


 いいのかよ。失くすなよ。


「斎藤は? ずっと陸上やってんなら体育系の大学とか?」

「んー、進学はするけどよ、陸上やるかはわかんね」


 わかんね。という斎藤の顔に、迷いという文字は見えなかった。


「夏前に県大会。あってさ、もう少し早かったらインターハイってとこまで来てたんだ。ま、結局出れなくて最後の大会になったんだけど。あぁ別に、走ることが嫌いになったとかじゃなく」

「最後、か」

「悔しいとかそんなこと思えなくて、なんか満足しちまってな。やりきったなーって」


 一層、コーヒーは苦みを増したような気がする。けれどそれは顔をしかめるようなとげとげしいものではなくて、じわりと染み入るような、ビターな味わいが舌に絡む。

 斎藤にとって陸上は役目を終えたんだろう。そしてもう彼は新しい道へ走り出している。終わりなどはない、終わらせることは出来るけど。どこかで聞いたことのあるような言葉が頭に浮かぶ。


「俺も朝風みたく絵でも描いてみるかな」

「おぉ、いいじゃん」

「斎藤ー、暇ならお湯沸かしてきてー」

「はいよー。ま、そんなとこだ、もしそんな時がきたら描き方、教えてくれよ」


 背を向けた斎藤は小走りで部屋を出る。あいつは間違いなく今、俺の先を進んでいるような気がした。


「おつかれー」

「あ、咲。おつかれー――って、その子は?」


 入れ替わりで聞こえてきたのは聞きなじみのある声と、聞きなれない音だった。

 カラ、カラと一定のリズムを刻み、ソレは扉の仕切りを越えたところで止む。海原の手は知らない女性の座る椅子を握り、知らない彼女は恥ずかし気に伸びた髪をいじる。


「もしかして、咲の妹さん?」


 クリーム色をしたブラウスに胸元で結ばれた、薄桃色のリボン。丈の長いフレアスカートは紺色で、椅子の背に掛けた鞄の茶。

 その子はまるで、四季を纏ったような女の子だった。





 この間咲が選んでくれた、ボタンで留められる私でも楽に履けるスカートを彼女は『かわいい』と言ってくれた。

 裏表の無い咲が言うのだから多分そうなのだろうけど、私をどうしようもなくむず痒くさせる原因のひとつであることは、間違いないのだろう。


「あ、咲。おつかれー――って、その子は?」


 多分、ここが前々から言っていたカフェなんだろう。

 茶色の長いエプロンは前で結ばれ、私に疑問符を浮かべた彼女の細々としたシルエットが強調される。

 向けられた視線に自然と背筋は伸び、肩に要らぬ力が入る。どう答えたものかと考えている間にもその視線は増え、このまま黙っていたら咲の背すら越えてしまうのではないか、なんて思えてしまう。


「もしかして、咲の妹さん?」

「うん、そうだよ」

「おい、咲……」


 どしたー?なんて言いながら咲は楽しそうに笑う。

 黙っている私をいいことにこいつは……緊張した私で遊びだしたな?仕方ないだろ、知らない人ばかりなんだから――そもそも歳の近いヤツなんて普段、咲くらいしか周りに居ないのだから。


「はじめまして、咲の妹ちゃん。咲もコーヒー飲んでくでしょ?」

「うん、ありがとねぇ」

「ひ、一年です」

「一年ちゃんね」


 ささやかな抵抗も叶わず、今日だけは咲の妹でなければいけないらしい。満足げなアイツにはどうしてやろうか。


「コーヒーは熱いのと冷たいの、どっちが良い?」


 まぁもう、いいや。


「……暖かいので」

「暖かいのだってー!ちょっとだけ冷ましといて!あとケーキも付けちゃお!ささ、席はどこでも空いてるから、好きなところ使っていいよ」

「その前にえっと、お金は?」

「いいよいいよ、次の人から倍獲れば良いし。お姉ちゃんのおかげでこんな素敵なカフェができたんだから」


 いいのかよ。

 学生の商売なんてそんなもんだろうと思いながらも、垣間見えた文化祭の闇を見たような気がする。これが妹の特権というやつか。


「あー、わたしが後で出しとくから、とりあえずいこっか」


 咲の手引きで席に着く。彼女たちから解放されたところでようやく、私は息をつくことができた。この数分だけで一気に喉も乾いたことだし、丁度良いかもしれない。

 改めて見回すと、手作り感はあれど文化祭の出し物にしては本格的な内装だった。

 手書きで書かれたメニュー表代わりの黒板、ショーケースに整列したケーキ達はどれも元は同じだろうが、トッピング用のお菓子で見ても楽しめるようなラインナップだった。

 極めつけはいくつか壁に掛けられている絵だろう。やさしい陽の入る窓際には薄緑で描かれた多肉植物が、テーブルには夜の街並み、猫、昼下がりを楽しむリス、A4サイズで描かれたそれらは暖かく落ち着いた安らぎを私にくれる。


「様になってるな。特にこのちっちゃい絵がかわいい」

「いいでしょ。森のリスはわたし、この猫は朝風君。意外だった?」

「あさかぜ、朝風、あぁ。朝風ってあれだろ、あの咲の――」

「今日の亜希すすすすすっごくかわいいよね!うん! 絶対そう、朝風くんもそう思うよね!ね!」

「え、なんだって?」


 彼女の笑顔に一筋の汗が流れ、彼女はわたしの声を遮る。なるほど、たしかに人を困らせてみるのは中々に楽しいものかもしれないな。

 それと――


「えっと……はじめ、ましてだよな?多分」

「そんな気はしないけど……そう、ですね」

「そっか、初めましてだもんね。こっちが朝風くんで、この子は亜希」


 こっちもそっちもないだろう。咲を焦らせているのは私だろうけど、目の前の『朝風くん』も少なからずその一端を担っていそうだ。


「妹――だっけ?」

「友達だよ、友達。この間のアレ、展示会の後からのね」


 友達、咲の口から出たその言葉は『妹』よりもこれから運ばれてくるコーヒーよりも多分、暖かいもののような気がした。

 ぎこちない自己紹介をしている間に、コーヒーとケーキが運ばれてきた。微かに湯気が昇るそれは熱すぎも冷たすぎもせず、たしかに『暖か』く、ケーキには砂糖菓子のおじさんが乗せられていた。このおじさん、ぎりぎり季節外れじゃないか?

 それからはしばらく他愛のない雑談が続いた。自分のことを話すのはあまり得意ではないから、その大半が朝風のことだった。絵が好きなこと、画家を目指していること、最近、家から追い出されたこと。

 ……もうちょっとなにかあれば、こいつだけで一本映画が取れそうな人生だな。

 足りない、そう、何かが足りない。チラリと咲を見る。

 咲からの話である程度想像はしていたが……これはたしかに。

 今私の隣に座っているのは『友達』と咲ではなく、『女の子』の咲だ。

 こいつもこいつで『頑張ってはいる』みたいだが……一歩踏み出せていないような印象だ。朝風も朝風でそういうのには疎いんだろう。

 ただ、今日は文化祭だ。それは魔法の言葉みたいに人を浮足立て、恐れるものに勇気をくれる不思議な言葉。

 踏み出すなら今日、今日しかないだろう。


「咲、ちょっと他のとこも見てくるわ」

「あ、それならわたしも――」

「大丈夫だって、私だって同じ高校生だぞ? 『お姉さん』なんて居なくてもひとりで回れるから」


 立ち上がろうとする彼女の腰を下げ、背中に二度勇気を注入して私は部屋を出る。去り際に掛けた魔法の言葉はちゃんと効いているだろうか。


「ま、帰ってきたらわかるか」


 ――今日しかないぞ、頑張れよ。




 開場からそろそろ2時間は経った頃だろうか。今年の文化祭もやはり盛況みたいで、徐々にこのカフェにも安らぎを求めてやってくる人が増えてきた。

 懐かしむように思い出話を語る老夫婦。コーヒーとケーキをバックに、友達同士で写真を撮る、他校の知らない人達。そんな賑わいの中に居るはずなのにどうして、辺りは嫌に静かだった。

 あれ、わたしもしかして、緊張してる?

 亜希が出て行ってからわたしは上手く口を開くことができなかった。いつもと違って頭の中もまっしろで、昨日まで描いていた今日の計画なんてものもどこかに飛んで行ってしまったみたい。挙句、今日は彼――朝風くんの顔すらもよく見れない。

 ふたりだけの時間なんて、これまでたくさんあったのに。どうして今日に限ってそれができないの……?

 自然と下がった視線はコーヒーに落ち、映ったわたしがわたしを見つめていた。


「……海原?」

「ん、ななな何――」

「ちょっ、危っ!」


 咄嗟に動いた朝風くん、カランと陶磁器のぶつかる音を聞いても、わたしはまだ事態を理解することは出来なかった。

 滴り落ちる水滴がスカートに落ち、その熱はじんわりと広がる。持ち手に引っかかったわたしの右手は熱く注がれたコーヒーを零し、テーブルクロスを茶に染める。頭に広がる雲の切れ間から見えたのはわたしではなく、彼の赤くなった手だった。


「うぉ……思ってたより熱いな」

「あ、朝風くん大丈夫!? えと、えとどうしよう……とりあえず保健室だよね」

「あぁいや別にそこまではいいんだが……それよりも手、大丈夫か? ちょっとかかっただろ」


 かかったと言ってもわたしの左手は赤く染まることも無ければ、熱いという感覚すらもない。それよりも、それよりも心配するべきは彼の方だろう。


「氷、氷だよね。今持ってくるから」


 アイスコーヒー用に用意していた氷を持っていたハンカチに包み、彼の赤くなった右手に添える。

 ありがとな。まぁ痛みなんてもうないから。そういう彼の顔は少し、歪んでいるようだった。

 時折、わたしの指は彼に触れる。冷えた氷の上でも暖かい彼の手の甲に触れる度、こんな時でもわたしの胸は小さく跳ねてしまう。


「本当に、ごめんなさい」


 どうしてこんな日に限ってわたしはやってしまったのだろう。わたしが失敗することなんて今までひとつも無かったのに。どうして今、わたしはこんなに――


「大丈夫だって、すぐに冷やしてくれたおかげで後も引かなそうだしな。こういうのも文化祭の醍醐味だ」

「醍醐味では無いと思うけど……」


 彼がそう言うのであれば、そう言うことにしておこう。朝風くんを通して感じる熱に、わたしの手もほんのりと赤みを帯びていた。


「疲れてたんだよ、海原も。文化祭用の絵だってあったし、地味に定期テストなんてもんもあったし、なんだかんだ忙しかったからな。師走って今月だったっけ」

「それはきみだって同じだよ。それと、師走はもうちょっと先」

「まぁでもホント、良い感じに何とかなってくれて良かったな。今度お疲れ様会でもするか、ふたりで」

「ふ、ふたりで……そ、それならさ、朝風くん。今日の文化祭終わった後なんだけど……したいなぁ。なんて」


 当て続けて冷たくなった彼の手を、今度は左手で暖めながら言った。言ってしまった。朝風くんは今度なんていうけれど、今日という日が終われば後はひたすら受験に向けての日々が始まってしまう。そうすればそんな余裕なんて、いつ出てくるかわからないんだから。

 ――それに、天野さんと約束したのは今日までなんだから。


「あぁ、じゃあ今日この後、な」

「う、うん!」


 胸を撫でおろす手は塞がっているけれど、憑き物の落ちていく感覚があった。あれだけ静けさに満ちていたようなわたしの周りからも音が聞こえるようになり、わたしを呼ぶ女の子の声も、だんだんと大きく聞こえてきた。

 ……女の子?


「咲、咲? あー、悪い、タイミング悪かったみたいだな」

「あ、亜希!? いつの間に帰ってきてたの? 別にタイミングなんて悪くないんだから!」


 へぇ、と言いながら不敵な笑みを浮かべる亜希に言葉は返せなかった。今は何を言っても彼女を楽しませるだけだって、何となく知っていたから。


「それよりも咲と朝風――さんにお客さんだってよ。えと、そうですよね?」

「あぁ、まー俺というよりかはコイツが、だけどな。この間ぶりだな、朝風」


 その男の人の声に聞きなじみはない、けれどどこかで聞いたことのあるような声だった。顔を見てもわたしはその人が誰かはわからない。けれど彼と一緒に居る女性、彼女のことは知っていた。


「柚木原……さん?」


 文化祭が終わるまで、もう一波乱くらいはあるみたい。

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