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第46話「Take me.Give me」

「お父さんが今向かって来てくれてるらしいから、それまでもう少しだけ休んでられるか?」


 頷くと先生はカーテンを閉じる。いつでもどこでも人に囲まれる学校の中で、ひとりで居られるのは多分、ここだけなのかもしれない。孤独とも考えられるこの空間が今の私には、必要だった。

 こんな時でも頭に浮かぶのは残されている作業のことばかりで、身体は休まっても頭が休まる気がしない。文化祭まで残された時間は少ない。それと同じく、海原さんにも残された時間はあともう、少しだけ。

 動きたいのに、動かなきゃいけないのに、動けない。暖かく、消毒液の匂いを微かに感じるこの部屋は私に休めと言っているみたいだ。

 頭が、目の奥が痛い。眠ってしまおうと閉じた瞳はその痛みに起こされる。その間私はただただ、眩しい灯りを遮ってくれるカーテンの揺れる様を見ているだけだった。

 もうどれくらい横になっているのかはわからない。30分は経っていてもおかしくはないけれど、5分も経っていないかもしれない。

 カーテン越しに扉の開く音がする。父からの連絡はないから、知らない人なんだろう。

 男の人だろうか。声は低く、静けさに包まれた保健室の中でもあまりよく聞き取れない。退屈なベッドの上ではそれすらもイベントであり、良心が痛みながらも耳を澄ませてみる。


「……天野、起きてんじゃん」

「ちょっと! 勝手にそんなことしちゃあだめでしょ」


 ……そんな必要は無かったみたい。

 その声は自らやって来た。目に刺さる蛍光灯の灯りは彼の背が受け、そんな彼は不器用にも急にカーテンを開け、先生に叱られていた。

 伸びた髪で隠された瞳は横からだとよく見え、怠そうに先生を見つめていて、その瞳を私は知っていた。


「朝風君? どうして……?」

「忘れ物しててさ、寄ってみたらそんな話を小耳に聞いてな」

「お前、ちゃんと先生の話聞いてるのか?」

「あぁはい、聞いてます。本当に」


 要領の悪い彼に向けての説教はまだ続きそうで、抜けている彼は私に相変わらずをくれた。そのいつも通りは痛みを和らげてくれているみたい。


「先生、ちょっと彼と――お話がしたいです」

「そうか? まぁあんまり無理しないことだが……お前も、勝手にこういうことされたら困るんだから、な?」

「あー、次から気を付けます」


 言うとようやく彼は解放され、安堵の息を漏らす。背を向ける先生の前で小言を言うのは正直、肝が冷えるから辞めてほしい。


「んで、大丈夫なのか?」

「大丈夫だったらこんなとこ、居ないと思うけど」

「それはごもっともだな。準備、たいへんなのか?」

「……ちょっとだけね」

「俺――は生徒会じゃないけどさ、やれることがあったらやるし、それこそ海原だって最近は落ち着いてきてるんだ、必要なことがあったらいつでも――」

「ダメ、それはダメなの」

「それはまたどうして」

「……ダメなの」


 駄々をこねる私を朝風くんはどう見ているんだろう。正面からだとその瞳は、長い髪に邪魔をされてよく見えない。

 私がダメと言うとそれ以上、このことを掘り下げるようなことはしなかった。それでいい、それでいいのだけど、少しだけ胸の奥が苦しくなった。


「それで、どうなの?」

「クラス展示のことか? もうほぼ完成だな。あとは俺と海原の合作だけくらいで、全然間に合いそうだ」


 聞きたかったのは別のことだけど、何も知らない彼にそれを求めるのも酷な話かもしれない。

 彼の座るパイプ椅子がギィ、と音をたてる。それは私を笑っているみたい。


「海原さんも、順調そう?」

「あいつか? あぁ、あいつはいつも通りの天才っぷりで突き進んでるよ」

「いつも通り、ね」


 この場合は喜んで良いものなの? いつも通りなんて思われていたら、それ以上進むことなんて……無い方が良い。のかもしれない。やっぱり私は、悪い子なんだ。


「でも、いつも通りのアイツが居なかったら俺は、描けてなかったかもしれなくてな」

「それは……どういうこと?」

「海原は真剣に俺と――俺の絵に向き合ってくれて、言葉をかけてくれたんだ。いつも通りの明るさで、素直さで。俺の絵を、好きって言ってくれたんだ」


 好き。という言葉で一瞬、身が震えた。

 それからも美術室であの子が掛けてくれた言葉を彼は私に教えてくれる。……それはもうあなたが好きって言っているようなものじゃない?


「あなたって結構ひどい人なのね」

「この流れでそうなるのか?」


 当たり前じゃない。何も言わずにいると、彼は無理やり納得したように喉を鳴らす。彼にかかる黒いカーテンを開けてみたくなった。その向こう側に、彼の瞳に、答えはあるのだろうから。


「天野、電話じゃないか?」


 ベッドの横に置き、マナーモードにしていた携帯は震えずに画面を光らせていた。父からだ。


「お父さん? ……うん、もう大丈夫。うん、うん、わかった。あぁここまで来なくていいから、うん。準備したらいくね。うん、じゃあね」

「お父さん、来たって」

「そうか、ま、これからは無理せず俺とか……じゃなくても、頼れる人に頼ってくれ。また明日な」


 立ち上がると、また彼の椅子が音を鳴らす。それはまだ、私を見て笑っているようだ。

 背を向けた彼は思っていた以上に大きくて、どうしてかそれは、とても冷たいもののように見えてしまう。

 数歩、彼が先に行くだけで私からは見えなくなってしまう。身体は、心よりも正直だった。


「天野……?」


 私は彼を呼び止めることはない、待ってなんて言わないし、袖を掴むことだってしない。

 やっぱり私は悪い子だ。約束を平気で破ってしまうし、今もこうして朝風君を見つめるだけで何も言わないし、何もしない。

 私から呼び止めるのではだめ。

 だって私は、あなたからそうして欲しかったのだから。

 もう少し、もう少しだけ、今だけは、このまま。

 彼はまた、椅子に腰かける。

 その椅子はもう、笑っていなかった。




 その日は早く家を出た。休日に制服で出歩くのも多分、これが最後なんだろう。

 学校はその日だけは学ぶことを忘れ、浮かれ楽しむことに目を瞑ってくれる。

 着飾った美術室はその面影を今日だけは忘れ、ほろ苦い香りに包まれることにしたらしい。

 全校に向けたアナウンスを俺は、その部屋の中で聞く。


「本日9時より第42回――」


 文化祭という非日常が、幕を開けたのだ。


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