みひろの健康診断結果は全ての数値が基準値範囲内に収まっており、万能薬を飲んだ身体は、なんの問題もない事が分かった。
とりあえず胸を撫で下ろす私たちではあったのだが……。
「ホントにいいんだね? みひろ」
「はい。スパッとやっちゃってください」
ちょっと捻っただけですぐポキッといっちゃいそうな、白くて華奢な右手首。
私は右手を構えると、小指の
真っ白な手首にじわっと赤い線が滲み出るも、血液は一瞬で皮膚の中に引っ込み、一直線に切った傷口がみるみる塞がっていく。
確かに傷つけたはずのみひろの右手首は、そんな事ありましたっけみたいな顔で、傷一つない
「みひろ……これって痛くないの?」
「斬られた瞬間は痛みがあります。でも治ると同時に、痛みもなくなっちゃいますね」
「それじゃあみひろは……不老不死になっちゃったって事!?」
「まだ分かりませんけど、その可能性は低いと思います」
「そうなの?」
「万能薬がクスリである以上、いずれ効果はなくなるでしょう。今ある再生能力は、薬の効果がまだ身体に残ってるからだと思われます。明日にはなくなってるか、一週間くらい持つのか分かりませんけど……しばらくは、毎日藍海に切ってもらう必要がありそうですね」
「そんなのやだよ……もし治んなかったらって思うと、心臓に悪いもん」
「これくらいの浅い傷なら、跡も残さず綺麗に治ると思いますから、大丈夫ですよ」
そういう問題じゃない。みひろの透き通るような柔肌を傷つける事自体、罪悪感がハンパないのだ。
そのストレスで、私がどうにかなっちゃうくらいに。
「まぁそれはいいとして。万能薬がその名の通りどんな致命傷でもたちどころに治してしまう画期的な薬である事は、これで証明できましたね」
全くだ。こんな薬が実用化されようもんなら、人間の寿命はどれほど伸びてしまうのだろう?
そして……この薬を好きなだけで使えるなら、それはもう不老不死になったも同然なわけで。どんな事してでも手に入れようとする輩は、当然のように出てくるだろう。
「それで伊織、現在の状況は? 葉室財閥は何と言ってきてますか?」
「今は位置情報を悟られないようスマホの電源を切ってますので、向こうの要望は分かりかねます。ですが八雲さまとは連絡が取れていて、私たちのサポートをして下さるそうです」
「八雲さんとは、どうやって連絡を取ったんですか?」
伊織さんが目を向けた、病院の待ち合わせロビー隅。
フルフェイスヘルメットを被った夏美さんが、可愛らしい身振り手ぶりを交えながら、楽しげに踊っている。
「なんですかあれは……」
「夏美さんには、バイクのインカムで八雲さまにご報告をお願いしています」
夏美さん以外、ヘルメットは現場に置いてきてしまってる。そうなると八雲さんに状況説明できるのは夏美さんに限られるわけで……それにしては浮かれポンチのコンビニ強盗が、一人芝居に興じてるようにしか見えない。
途中で会話を切り上げて必要な事は教えてくれたけど……その後もずーっとああやって、くっちゃべってるわけで。八雲さんも困ってるんじゃなかろうか?
呆れ顔のみひろに、諦め顔の伊織さんが補足する。
「八雲さまは、万能薬の一件もご存じでいらっしゃいます。先ほどの夏美さんの話では、この診療所に車を回して下さるみたいで、我々はそれを待って出発する事になります」
案の定、久右衛門さんは私たちコレクタチームを捕まえろと葉室警備に指示を出したようだ。八雲さんは表面上従うフリを装い、裏で私たちの支援をしてくれている。
まずは車を変え、葉室警備の手が及ばない潜伏先まで逃がしてくれる手筈になったわけだが……待ってる間、こちらも腹を決めておかなきゃならない。
だってここからは、ずっと後ろ盾になってくれていた葉室財閥と、敵対する事になるんだから。
長電話に痺れをきらしたミセリさんとリーラちゃんが、夏美さんを強制くすぐりの刑に処したところ、ようやく通話が終わったようだ。三人でこちらに戻ってくる。
「ごめんごめーん。ちょーっと話が盛り上がっちゃって!」
ヘルメットを取った夏美さんの、キラキラ眩しい乙女顔……ホント、分かりやすいよなぁ。相手は葉室財閥御曹司だぞ? 大丈夫か?
「何か新しい情報はありましたか?」
「八雲さん曰く、藍海ママとジルコが葉室財閥に捕まった事は確からしいよ。あと、寝たきりの藍海パパも無事確保してたみたい。もちろんコインは二枚とも没収してて……あ、藍海ママのコインって、おっぱいの間に挟まるように貼り付いてたんだって!」
「なるほど……私の透視では皮膚を貫通できませんから。胸の谷間に挟まってたのなら、見つからないのも納得です」
「……たにま」
リーラちゃんがぺったんこ胸に両手を当て、独り言を呟く。
その隣で同じポーズをしてる私に気が付くと、ニッと白い歯を見せる。
いや、その同志を見る目はやめて! 私だってコインくらい、寄せて上げてかき集めれば挟めない事もないんだからっ!
「何してるんですか? 藍海」
「そこは聞かずに差し上げろ」
何も分かってないみひろの肩に、全てを察した夏美さんが手を置いた。
富める者に抗うが如く、ミセリさんは黙ってうつ伏せになると、腕立て伏せで大胸筋を鍛え始める。
「とにかく。現在の葉室財閥は万能薬を巡り、二つの勢力に分断された事になります。お祖父さま率いる久右衛門正規軍と、八雲さま率いる八雲反乱軍です。私たちはどちらの勢力に付くか、考えなければいけません」
「ちょっ……みひろ! こうまでされて、まだ久右衛門さんに従う気なの!?」
みひろは答えない。
ただ私、伊織さん、夏美さん、リーラちゃん、ミセリさんを順々に見回した。
「私たちコレクタチームは、現在四枚のコインを持っています。そしてお祖父さまは、アマルガム陣営のコイン二枚を手に入れた。例えばここにいる四人中三人がお祖父さまの元に戻るなら、万能薬の精製は可能という事になります」
リーラちゃんは嫌そうに「げーっ」と言って顔を顰めた。
「万能薬が不老不死に匹敵する薬だとしても、一回飲んだらずっと効果が続くわけじゃないんでしょ? あんなめっちゃしんどい精製の儀式を、毎日繰り返さなきゃならないんだったら、私パース。それなら病気を治すために一回で済む、八雲お兄ちゃんに付くよ」
屋上の万能薬精製では、リーラちゃんが一番大変な目に合ってしまった。
体力消耗が激しい精製を何度もやらされるくらいなら、そう思って当然だ。
「私も……久右衛門さんのやり方には反対かな。不老不死になって葉室財閥総帥を続けてくって言うなら、八雲さんのいる意味がなくなっちゃう。それは家族のあり方として、間違ってると思うよ」
家族仲の良い夏美さんにとって、そういう考えが受け入れがたいのは分かる。
「それに……」
夏美さんは、隣に座るミセリさんに振り向いた。
「ミセリさんと私は、葉室財閥にスポンサーになってもらってる立場だけど……それだって八雲さんに支援してもらえれば、問題ないわけじゃない?」
その言葉に、みひろも頷いて同意する。
「はい。お祖父さまの指示でお二人のスポンサー契約が破棄されても、八雲さんが所有する会社から同程度の支援を受ける事は可能だと思われます」
「ふうっ……それを聞いて安心したよ。なら私も迷う事はないね。八雲さん陣営に付くよ」
マスク越しでも分かるくらい、ミセリさんは安堵の息を吐く。
「元々私は、八雲さんに頼まれたから協力してるんだ。生まれつき病気で一歩も外に出れない若者と、権力の座にしがみつく爺さんとなら、若者の力になってやりたいと思うのがプロレスラーだよ」
「藍海は、どうですか?」
「私にも聞く!?」
「藍海のご両親は、お祖父さまの陣営に捕まりました。ここで葉室財閥に歯向かえば、お父さまお母さまを盾に協力しろと言ってくるかもしれません」
思えば最初はママと暮らすために始まった、葉室財閥との協力関係。
もちろん今だってママと一緒に暮らしたいけど……そのために伊織さんや八雲さん、コレクタの皆を裏切りたくない。
何より――。
「私は……ママと一緒に暮らしたい。でもそれ以上に、みひろやみんなと一緒にいたい」
「藍海……」
「今この状況で久右衛門さんの元に戻っても、アマルガム所属のママやパパがただで済むとは思えない。ましてや親子三人、葉室財閥の監視下で幸せに暮らせるはずもない。だったら自分が、やりたい事を貫き通すしかないじゃない!」
私は
だったら自分が誰と寄り添いたいかで、決めるたっていいじゃない!
「私はママとパパを助けたい。でもそれと同じくらい、みひろを助けたいの。だから、私はみひろに付いてくよ!」
「藍海!」
感極まったみひろが、飛び込んでくる。みひろの頬が私の頬を掠め、情熱的に抱き締められる。
みひろの大胆すぎるスキンシップと天然ピーチフレグランスに、心臓が早鐘を打ち始めてしまう。
こうしていると、緊急事態とはいえ口移しで万能薬を飲ませたあのシーンが脳裏に蘇り……自分でも分かるくらい、頬が真っ赤に染まってく。
みひろはそんなのお構いなしに「あいみぃ~」とほっぺをすり寄せてくるもんだから、更に熱が上がってしまう。
「はいはーい、そういうのは家でやってよね」
「いいじゃな~い。藍海ちゃん耳までまっ赤になっちゃって、可愛い」
「これが百合ってヤツですか……」
「みひろ様。下々の世界にはTPOというものがございまして」
リーラちゃんに呆れられ、夏美さんにからかわれ、
ミセリさんに新しい扉を開かせつつ、伊織さんに諭されたみひろは、
私の耳元で囁いた。
「藍海のキス……私、一生忘れません」
パッと離れたみひろは皆に振り返ると、表情を引き締め直した。
「もちろん私も、八雲さんに協力したいと思います。もう一度万能薬を精製し彼に飲んでもらえば、健康上の問題も無くなり後継者問題に
そうだ。今はもう、八雲さんを担ぐしかない。
私たちが互いに頷き合うと同時に、外からクラクションの音が聞こえた。
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