みひろはピンと立てた人差し指で、円を描きながら話し出した。
「お祖父さま。やっぱり私、今回精製される万能薬をお母様に使う事に、賛成致しかねます」
「なぜだっ! お前の母親だぞ!?」
「なぜならそこに寝ているお母さまは……厳密に言えば、私のお母さまではないからです」
確信に満ちたみひろの言葉に、その場にいる全員が凍り付いた。え、ちょっと待ってみひろ……その推理はあまりにも、無理があるくない?
だって、ベッドで寝てる女の人は確かにあの日、お祖母ちゃんにお線香あげてくれた依子さんだよ?
つい最近、面と向かって会った私が言うんだから、絶対間違いない。それに厳密に言えばって……どういう意味?
「何をバカな事を……」
久右衛門さんは、笑いながら否定する。
「よもや母の顔を忘れたとは言うまいな……誰がどう見ても、依子ではないか!」
「ええ、恐ろしい事にどうやらそのようです。しかし、いざ万能薬を投与し目覚めた時、果たして母は自分を木村依子と認識するのでしょうか?」
みひろの推理は、いつも単純明快だった。テストはいつも平均点な私でもちゃんと理解できるよう、噛み砕いて説明してくれていた。
でも今回ばかりは……みひろの言ってる事が、ぜんっぜん理解できない!
「ねぇみひろ……私たちにも分かるように説明してくれる?」
「私も半信半疑ではあったのですが……野村先生」
みひろは頷くと、踊る人差し指で野村先生を指差した。
「え? 私ですか?」
「あなたさきほど、万智子さんに『脳外科がご専門なんですね』と言われていましたよね。これは事実ですか?」
「事実よ」
先生の答えを待たず、代わりに答えちゃうママ。
そういうところが空気読めないって言われるんだよ……私もちょっと、遺伝しちゃってるけど。
そんな空気読めない元祖のママは、空気を読まず得意げに語り出した。
「<アガスティアナディ>は、他者の過去を
先生は、否定する事を諦めたみたいだ。小さく笑って頷いた。
「いかにも。私の専門は脳外科だ。この分野において、私ほど研究してる医師はいないと自負している」
みひろの紫目が、きらりと光る。
「ではなぜ先生は、お祖父さまのかかりつけ医をされているのですか?」
「……え?」
「私が覚えている限り、先生は五年以上前から葉室家本家に住み込みで、お祖父さま専属のかかりつけ医をされていらっしゃいます。脳外科という専門分野がありながら、風邪もほとんど引かないお祖父さまのお抱え医師なんて……向上心旺盛な先生にとって、退屈極まりない仕事だと思うのですが」
「……久右衛門さまとは昔馴染みで、恩義もある。彼たっての希望なら、かかりつけ医くらい引き受けるのは当然だ」
「そうですか。でもそれは、あくまで隠れ蓑ですよね? 万智子さんが視たように、あなたは今も毎日、専門分野の勉強、研究、実践に勤しんでる。でもそれを他の使用人に気付かれてしまうと、なぜあの先生は葉室研究所に行かないんだと噂になる。だからお祖父さま専属のかかりつけ医として、お屋敷に常駐されている。本当はお祖父さまの支援を受け、屋敷に住み込みで脳の研究をされているのに……違いますか?」
「いや~、それは買いかぶりすぎだよ。私はただ、かかりつけ医の仕事をしながら余った時間を自分の勉強に充ててるだけだ」
「高価な生命維持装置付きベッドを二台、看護婦二人と一緒に、お祖父さましか知らない隠し通路から現れたのに? かかりつけ医の自主勉強会にしては、過剰な信用、設備、スタッフだと思いますが?」
「鋭いね……でも久右衛門にとって、これくらいの待遇は取るに足らないものだ。もちろん私の事を信用して下さっているからこそ、これだけの好待遇を用意してもらってる」
野村先生はバツが悪そうな顔で、頭をかいた。
まぁこれなら、本来の仕事は脳外科の研究で、かかりつけ医はその隠れ蓑的な肩書きだと自白してるようなものだ。
だから、こんな誰も知らない隠し通路の奥で研究を……って、なんで隠れてやらなきゃならないの?
「そういえば野村先生は、藍海の祖母・有海春子さんの手術も担当されたそうですね。あの時はお祖父さまから依頼を受け、急遽病院に派遣されたのですか?」
「あ、ああ。そんな事もあったね」
「先生は春子お婆さまの執刀を担当され、結果的にお婆さまは帰らぬ人となってしまいました。死因は出血死と聞きましたが、輸血は間に合わなかったのでしょうか?」
「あの時は……手は尽くしただんだが、本当に申し訳ない」
頭を下げる野村先生に、みひろは何の感情も示さない。長い黒髪を躍らせて、久右衛門さんに振り向いた。
「お祖父さま。あなたは私が葉室本家に行ってる間に、お母様と一緒に有海邸を訪問されました。命を賭けて
「うむ」
「でもその目的は、コインを入手してくれた感謝だけ……ではありませんよね?」
「……どういう意味だ?」
「万智子さんから聞きました。春子お婆さまはお祖父さまの元愛人で、二人の娘が私の母・依子なのだと」
「……」
「あの日、お祖父さまが有海邸を訪問した本当の目的は――世間から隔離した娘・依子が、母の死にせめてお線香をあげたいと申し出たから……ではないでしょうか?」
「ふん、忘れたな」
「あれからまだ、二週間も経っていません。どうしてあの時元気だったお母さまが、こんな生命維持装置が必要な身体になってしまったのでしょう?」
「……実の母親が亡くなったのだ。そのショックで、これまでの心労が一気に出てきてしまっても不思議ではない」
よくもまぁ、いけしゃあしゃあと。
依子さんを死んだ事にして、娘のみひろと引き剥がしたのは、久右衛門さん自身なのに!
「いいえ。お祖父さまは私の母を犠牲にしたのです。一度ならず二度までも。私を八雲さんのバックアップとして、葉室財閥に縛り付けようとしていたのと同じように」
「お前が何を言っているのか、儂にはさっぱりだな」
「なぜお祖父さまが万能薬にご執心なのか……私は今初めて、その真意を理解しました」
立てた人差し指で涙を拭うと、みひろはその指を、ビシッと久右衛門さんに突きつけた。
「お祖父さまは……野村先生の脳医学研究を五年以上支援していました。そしてかつての恋人・春子お婆さまと再会し、彼女が瀕死の重傷で病院に担ぎ込まれた際、現地の医者がいるにも関わらず野村先生を派遣した。その理由は――春子お婆さまの脳を、生きたまま摘出するため、だったのですね」
お祖母ちゃんの脳を……摘出!?
「そして後日、お祖父さまは依子お母さまに、野村先生の脳外科手術を受けるよう指示した。詳細は伝えなかったと思いますが、つい先日実母が亡くなった事、その手術に野村先生が関わっていた事を知るお母さまは、悪い予感がしたに違いありません。だからせめて、実母にお線香をあげる事を許して頂けるならと……。有海邸を訪問し、遺骨の前で手を合わせる事を、交換条件にしたのではないでしょうか」
あの日の訪問に、そんな意味があったなんて……。
思い返してみると、お線香をあげてダイニングに戻って来た時の、依子さんの面持ち……『もうすぐそっちに逝くからね』と、沈痛な思いでお祖母ちゃんに報告してたのかと思うと、胸が締め付けられる。
「有海邸を訪問後、野村先生は依子お母さまの脳を取り除き、代わりに春子お婆さまの脳を移植した。手術は成功し呼吸も脈拍もある。それでもお母さまは目を覚まさなかった。だからお母さまを――いいえ。依子お母さまの身体に乗り移った春子お婆さまを、万能薬の力で復活させようとしているのです!」
みひろの推理が外れた事なんて、今まで一度もない。
でも脳移植なんて……本当にそんな事、できるんだろうか?
こんな推理……久右衛門さんだって「バカバカしい」と一蹴するのかと思って振り向くと――、
和装の財閥総帥は神妙な面持ちで腕を組み、目を瞑って何か考え事をしているみたいだった。
* * *